第3章選択

「お断りします。」

にべもないとは こういうことを言うのであろう。

出雲の集いで 先ず始めに話し合われたのは、

狭間に通じる鎮守の森の新しい守護神について。

文月半ばから この神無月まで無事に森を守ってきた 

この若い龍に白羽の矢が立つのは当然のこと。

使者にたったのは、翁の面を持って 翁殿と字されている 

河を司る神々の長老たる龍で、

彼は、若い龍の返事にしばし戸惑った。

この若者が、失った河の代わりに守護するものを

求めているのは自明の理で。

なのに、断るとは 納得いかない。

老神は、若者の顔をじっくり眺め、

いいかげん 琥珀がいらいらしてきたところで

「ほう、なぜじゃな。」と、徐(おもむろ)に尋ねた。

琥珀は、迷惑という気持ちを隠そうともしない。

「もともと、仮の主ということでした。

お役目も 神無月までという約束だったはずです。

それに、私には神たる資格が ありませんから。」

落ち着き払った声で答える若い龍に向かって 

翁は説得を続ける。

「ふむ。だがな、神とはその持つ力 そのものをいうのだ。

神籍がないとはいえ、お主はまさしく 神じゃよ。」

翁の言を否定するかのように首を振りながら

「お役目をいただく気はありません。」

「お役目をいただき、神籍をとりもどすことは、

そなたにとって悪い話ではあるまいに。」

どこか、呆れたような言で翁は言う。

「一度、守護すべき河を失った身です。

同じことを 繰り返さないとは、お約束できません。

まして、この森は神々の道標(みちしるべ)。このような

重要な地を、わたしのような若輩者に

ゆだねることは、神々にとっても危険です。

どうぞ、お許しを。」

若い竜は唇を引き結び、頑として受け付けない。

翁はあごに手をあてる。

この森に張られている結界は、このものの

尋常ではない力を示していて。

東竜宮の出だというが、いまさら 

海に帰してしまうのももったいない話だ。

「ふむ。して そなたは 何とする?

海神の神の元に戻るつもりがないのなら、

秋津島に拠り所になるもの無くば、

乾坤にいらぬ騒動を起こす事になるぞ。」

「宮の使いにも言われました。

が、騒動を起こすつもりなどありません。

私は私の意思で生きていきたいだけなのです。

この身が目障りであるのでしたら、

自らの結界に隠れ、神々の目に

留まらぬようにいたしましょう。」

苛立ったように 言い募る若い龍をみて、

さすがに不審に思ったのか、

翁は首を傾げ、この若者の真意を探る。

森全体に意識を広げ、そうして行き当たったのは、

一つの気配。

つい数ヶ月前に、狭間の向こうで 

自身が世話になった、

小さな小さな輝き。

この若者が、毎夜ついているため息の 

そんな気配も感じ取って、

翁は 一つ得心する。

この執着は 同じ龍とて 身に覚えが無いわけではない。

しかし、相手は幼い少女。

庇護欲やら、父性愛やら、愛着やら、独占欲やらの、

一番底にあるのは恋慕の情で。

翁は 一つため息を吐く。

我らの種族の恋情は、いかなるものをも顧みない 

妄愛に陥りやすく、それでも

守護するお役目を持つことが、一つの枷(かせ)にもなっている。

人間を恋慕するものも、少なくないとはいえ 愛着がすぎて 

たいていはその身が 滅び 滅ぼすかの 道にいたる。

それでも

龍の心の奥底では、自らの恋情と同じだけの

想いを求める本能が、常に巣くって 隙を窺い、

その心身を捕らえてしまう。

ごくごく稀に、同じだけの想いをもって 

相思相愛の伴侶を得ることができるものがいて、

そうして、お互いの想いが重なり合って 螺旋(らせん)を描く光を放ち、

その光をもって 新たな神の誕生を迎える事ができるのだ。

全ての龍は 心のどこかに その希望を抱いている。

しかし、相手が人間では・・・

翁は 一つ首を振る。

『龍の恋情を止めるは 不可能。』

それでも 破滅を 手をこまねいて見守るのは 

しのびがたくて、

翁は 深く思案する。

「ふむ。ではせめて、仮の主のお役目を 

もうしばらくだけでも引き受けてはくれまいか。

宙無の眠りについた以前の守護神は、わしの古いなじみでの。

玉響という名のいい女だったのだが、とうとう最後まで 

わしの口説きに落ちなかったわい。玉響の跡目を継ぐに

お主を見込んでいたのだがな。そうまで言われてしまっては

他に適任を探さなくてはなるまいが、それがなかなかのう。」

悲哀を込めて 言いながら、冗談の陰に 枷をはめる。

山やら、蛇やら、狐やら、それこそ樹やら、

石やら、水やらの、万物に神は宿るというのに

他に適任がいないなどとは、琥珀には納得がいかない。

それでも、翁の懇願に 断る術も失われて、

琥珀は しかし 一つ条件を出す。

「ならば、結界を少し広げることをお許しください。

他の地護神の護りを犯すつもりはありませんが、

仮の主でいるうちは、行動に制限が なされてしまって 

息苦しいのです。」

「ほほ、真の主になれば、そのような

頚木(くびき)は 外されるぞよ。」

話を戻してくる老神に、琥珀は顔を顰(しか)めて首を振る。

「あまり、やんちゃな事を してはならんぞ。」

と、笑われて 琥珀は いつのまにか翁の手の中で

踊らされている自分に気付き憮然とする。

とはいえ、まだ若い龍は千尋を護るための手段が

広がった事には、素直に感謝したりするのであった。

 

闇の眷属達は 性懲りもなくやってくる。

真の主がいない以上この地の力は隠されず

手を伸ばして何が悪いと。

しかし、仮に過ぎないはずの主は、

神無月が過ぎてから一段とその力を強化した。

石人のまわりに近付く事も出来ず しかして、

其処にある力の匂いを嗅がされるにつれ

闇の欲と憎悪は深まっていく。

闇は狙う。

あの仮の主の 隙を見つけろ!弱みを探せ!

森の周りを徘徊しているうちに、やがて奇妙な空間の存在に

気付いた闇たちは正体を探ろうと その周りをめぐり始める。

琥珀の護りは 千尋の放つ光や気配、それどころか 

自分の想いさえも 完璧に覆い隠していて 

まさしく其処には『何も』ない。

あたかも、力ある神がその守護する地を護るように、

悪しきものたちの目には、結界の存在さえも映らない。

奇妙なのは そこが森の外であること。

ぐるぐる回りながら、何も見つけられなかった闇たちは、

それでも その奇妙な 何も無い空間の匂いを覚えこんだ。

 

学校に行って、家に帰る。週3回のお稽古事も、

遊びに行く友達の家も 同じ町内。

小学生の行動範囲としては ごく当たり前であろう。

千尋にとってこの地が すっかり地元となり、

転校してきた事さえ 特に意識しなくなっている。

引っ越したその日の記憶は何故か 曖昧(あいまい)で、

けれど、神隠しの時間は狭間の間に訂正されて、

おかしな記憶など何もない。

覚えていない事など 何もない。

そのはずなのに、千尋は 時に 振り向き

何かを探し 何を探していたのか分からないまま、

時々 無性に切なくなる。

「毎日が、忙しすぎるのよね。」

はあ〜っとため息をつき 泉を見ながら、

週1回のリラックスタイムを楽しむ。

この春に6年生になった千尋は さすがに 以前のように、

木に登ったり、探検してまわったりということは 無くなった。

森に来ては、いくつかあるお気に入りの場所で 

読書をしたり、お茶をしたりと

一人だけのゆったりした時間を楽しむ。

『他の人の気配を感じないで、完全に一人になれる

場所があるなんて、贅沢なんだろうな。』

一人っ子の千尋は、自分の部屋もあるし、

両親は共働きだしで 家にいたって

一人じゃないかと思われるのだが、

『違うんだな〜。ここでは、一人なんだけど孤独じゃない。

家に一人でいるときと気持ちが全然違うんだよね。

安心していられる場所っていうか。』

いつまでも、森にこだわる千尋に呆れている母親に、

心の中で言い訳をする。

基本的に、千尋は明るく 人懐こく 

不思議と誰とでも友達になれる子で

学校でも、お稽古先でも 常に人に囲まれて 

わいわいがやがや 人の輪の中心にいる。

それは、とっても楽しくて。

だけど、周囲の誰一人として 千尋の心の中にある 

ナニカを求める切なさや ナニを求めているかさえ

分からないもどかしさに 気付いていない。

友達にも 家族にも 周りの環境にも、

恵まれている自覚があるから、

自分は幸せなはずだという自覚があるから、

なぜこんなに物足りない気持ちになるのか、

自分で自分の理由探しをしてみる。

そこで、

「毎日が、いそがしすぎるのよね〜。」

なのだ。

ついでに、この間学校であった

『男の子と女の子のおはなし』の授業で

『これからの3,4年は、思春期と言って、

皆さんの心と体が大人になっていくための

大切な時期です。気持ちと体のバランスが

取れないため、情緒不安定になりやすいので、

悩みがあったら、先生に相談してね。』

などという、保健の先生の話を思い出したりもした。

「思春期の情緒不安定か。」

誰もがみんな同じなのよ、と言われても、

このヘンな気持ちが消えるわけでもないし、

それに、大人になるなんて 正直まだよく分からない。

それでも、この不安定さは 特別なことではないと

言われたような気がしてちょっと安心したのも事実。

 

視線を本に戻し読書に没頭していく千尋を見守りながら、

琥珀も少し動揺している。

この間、千尋は初潮を迎え女になった。

見守っている幼い女の子の体も心も 少しずつ変化して 

子どもでいられるのもあと僅かだろう。

人間の成長は早い。

分かってはいるが、この結界の中で護っていられるのも、

ほんのひと時かもしれないと思う。

大人になった人間は、広い世界に飛び出していく。

そうなってももちろん、自分も守護神として千尋の元を

離れるつもりは無いが 今はまだ、仮のお役目が

この地を離れる事を許さない。

琥珀の心も どこか焦りにも似たいらだちで

落ち着かない。まるで、千尋に置いていかれて

しまうような そんな思いがどこからか湧きあがる。

 

夕方、千尋が帰る前に祠にむかって

挨拶しながら、爆弾発言をした。

「明日から、修学旅行で大阪と京都に行って

きます。お土産持ってまた来ますね。

無事に、行ってこられるように 見守ってください。」

町内ならば結界のうちなのだが、京都となるとそうはいかない。

琥珀はあわてて、式の守りを強化しようと呪いをかけるが、

肝心の言霊を与えられないのは なんてもどかしいのか。

「いってらっしゃい。気をつけてね。」

人間がよく口にする、この言葉だけでも

かなりの力を持つというのに。

今は それさえも千尋の封印を

解いてしまいそうで恐ろしい。

 

琥珀は、泉の水鏡で 千尋の姿を追う。

遠隔からの守りは、無いよりはまし程度だが、

千尋に何かあったときは、すぐに飛んでいくつもりの

琥珀は、片時も目を離さない。

それでも、闇の眷属に隙を見せないの

はさすがと言うべきか。

しかし、琥珀は一つ 失念していた。

闇の眷属は、敏感に感じ 慎重に探る。

今宵はあの『何も無い』空間が 無い。

 

千尋が結界内に帰ってきたのは、2日目の夜半近く。

高速の事故で、予定が2時間ほど、遅れたのだ。

琥珀は、その存在を感知した瞬間、龍身となって 宙を駆ける。

遠隔から感じていたとおり、千尋の周りには 

彼の与えた守りの力の香りに惹かれ、

救いを求める亡霊たちが、十重二十重に 取り巻いていた。

京の都の亡霊は、その業深く、執念深い。

これと見込んだ人間に、

取り付いて離れず、はるか遠くどこまでもついてくる。

隙を見て、人間にとり付き、取って代わろうと、

あるいは 取殺して一緒に供養してもらおうと、

影の中で蠢(うごめ)いている。

ましてや、この娘には 神の守護がある。

芳しい光に惹かれ、千尋に付き纏(まと)うのは 

むしろ 当たり前であった。

琥珀は、唇をかむ。

中途半端な守護しか与えられない、

己の力の不甲斐なさと、

それを与えた結果が 引き起こすであろう事態に 

気付かなかった迂闊さに。

疲れ果てた千尋の顔を見た瞬間、

龍は 怒りに身の内を震わせた。

『無礼な!!去ね!!!』

大切な愛し子の生気を奪おうとするとは!

突然現れ、娘の周りを龍身で覆った神の怒りに触れ、

亡霊たちは、ちりちりに吹き飛んでいった。

 

『見つけた!!』

亡霊の香に引き寄せられていた闇の眷属は

結界で覆われる瞬間 あの『空間』に 何があるのか

探り当て、喜びに身をうねらせた。

「あの銀の光の弱み、見つけた!!!!」

「早く、早く、今宵こそ!!」

ざわざわと 闇が濃くなっていくのを 

体調が悪そうな千尋に 気を取られていた、

若い龍は 少しも気づく事が出来なかった。

 

修学旅行から帰ったその夜、千尋は熱を出して寝込んだ。

熱におかされた頭の中に、とりとめも無い考えが行き来する。

 

たかだか、1泊2日の旅行で こんなに

疲れてしまうなんてヘンだなあ。

ちょうど、生理がきていたせい?

ああ、頭がふらふらする。

でも、海遊館 すごかったな〜。

海の中にいるみたいだった。

あんなにゆったりと泳いでいる じんべいざめ 

見ることが出来て 幸せだ〜。

むしろ、ガラスの中に閉じ込められている私を

お魚さんたちが 見に来たみたいだったな〜。

もう1回行きたいな。

もう1回 あの 水の 中に・・・

・・・・・・

ぽこぽこした 空気がはじける音。

ゆらゆらしている光の揺らめき。

透明な命の流れ。

水の中で目を見開いて 呆然としながら 

全身に感じた 水の中の世界・・・

ああ、どこかで、わたしどこかで 

あの感覚を経験している。

何かに全身を委(ゆだ)ねて、

ただ感覚だけの生き物になって、

あの中にいたことがある。

・・・ああ、わたし 何かを忘れている?

何かを 思い出しそうなのに。

もう少しで、届くのに・・・

 

千尋の伏せるベッドの傍らで

熱で浮される千尋のうわ言を聞いて、

琥珀は動揺した。

魔女の封印が解けかかっているのか?

なぜ?

・・・だめだ。

まだ、だめだよ千尋。

思い出すのは そなたにとって危険だ。

思い出してしまえば そなたを闇から守るため、

そう、守るためという名分を得て、

私はそなたを囲まざるをえなくなる。

そなたを、そなたの世界から引き離して

私の中に繋(つな)ぎとめてしまう。

 

・・・ああ それもいいかもしれないね。

森の主の役目を引き受けて、そなたと2人 

森の中で 時を過ごす。

私の腕の中にそなたを閉じ込めて、

そなたの視線を絡めとって

そなたの世界は、私だけになる。

わたしが そなただけでいいように、 

そなたも わたしだけでいい・・・

 

一瞬 浮かんだ考えに、琥珀の瞳が

獣性を帯び、危険な輝きを放つ。

 

千尋、思い出したい?

そなたがそのように望むのなら、わたしは 

そなたの前に現れようか。

そうして、魔女の封印を解いてしまおうか。

そなたには、私の元に来るか、命を失うかの 

選択しか与えてあげられないけれど、

そなたが 私を思い出してくれたなら、

そなたは 私を選ぶだろう?

 

闇の眷属は手を繋ぎ、『何も無い』空間を囲い込む。

か〜ごめ かごめ

かごのなかのとりいは

いついつであう

よあけのばんに

つるとかめがであった

うしろのしょうめんだ〜れ

 

囲め 囲め

加護の中の二対は

何時何時出会う

夜明けの晩に

龍と娘がであった

後の正面だあれ。

 

囲んで、囲んで、囲んで、囲んで、

覆ってしまえ、覆ってしまおう。

あれは、神ではない。まだ神ではないよ。

あれは、妖し、我らと同じ。

お前は、妖し、我らと同じ。

後の正面は、お前だよ。

お取、お取、娘をお取。

妖しの望みは、我らの望み。

銀の光が、闇に変わる。

お取、お取、娘をお取。

望みをかなえて、仲間におなり。

 

か〜ごめ かごめ

かごのなかの ふたりは

いついつ であう

よあけのばんに・・・・・

濃く、黒い闇のかたまりが、

その囲いの輪を狭めていく。

 

琥珀の瞳が 暗い輝きを増した。

笑みを浮かべ、夢を見ているかのように 

ふわふわした足取りで

ベッドに寝ている千尋に近付く。

右腕をあげ、指をのばし 少しずつ

あせばんだ千尋の額に近づけていく。

あと少し、額に触れる 紙1枚のその距離で

はっと、琥珀は その動きを止めた。

 

一瞬の静寂。

永遠が流れたかのような 

狭間の瞬間。

 

琥珀は、蒼白な顔で 伸ばした手を握りこみ、

体をふたつに折って、蹲(うずくま)る。

体の震えをうめき声と共に押さえ込み、

そのままの姿勢で 

千尋の部屋から消え去った。

と、次の瞬間、

千尋の部屋から滝のごとく凄まじい光が 

轟音(ごうおん)と共に、天に向かって伸びていく。

半瞬後、

光が消え去ったときには、蠢いていた闇の眷属たちは、

存在の影さえ残さず、跡形も無く消え去っていた。

 

「何だ?地震か!」

突然の轟音と家を揺るがす振動に驚いて起きた

千尋の父は、慌てて娘の部屋に飛び込んだ。

「千尋!大丈夫か。」

「ん、なあにお父さん。もう朝?」

何事も無かったかのように、目を瞬いている娘の顔を

見ながら、父は狐につまれたような思いで

「いや、今すごい音がして家が揺れただろう?」

「えっ、地震?全然気が付かなかった。」

耳を澄ましても、しーんとした深夜の気配以外の

騒ぎは聞こえてこない。

あれだけの揺れと音だったのに、窓の外を見ても 

近所の家が騒ぎ出すような様子は無かった。

「あなた、別に何も落ちていないし、揺れ返しも無いから、

たいした地震では無かったようよ。ベッドで横になっていたから、

すごく揺れたように感じたのかもしれないわね。」

冷静に被害を確認していた母は、千尋の部屋の

電気をつけながら 落ち着いた声で言った。

「ほら、電気もきているし、大丈夫じゃない?

まだ2時だから、もう一眠りしたほうがいいわよ。」

「あ〜、テレビで地震速報を流すかもしれないから、

確認してから寝るよ。」

「そう、千尋 気分はどう?」

「大丈夫みたい。だいぶ楽になったよ。」

額に手をあて安心したように、

「熱も下がったみたいね。お茶を持ってくるから

そのまま寝ていなさい。」

母は そう言うと父と一緒に部屋を出て行った。

しばらく、両親の足音を、頭を上げて追っていた千尋は、

パフンと枕に頭をのせると、そっと目を閉じた。

 

なにか、夢を見ていたような、気がする。

赤ちゃんになって、揺り篭でゆらゆら揺れているように、

なんの憂いもなく 安心しきっている時に 

見るような夢。

何の夢だったっけ。

蒼く、透明なイメージの・・・

翠と白に輝いていた、あの・・・

・・・ああ、思い出せない・・・

しばらく、夢の名残を追っていた千尋は、

そのまま眠りの波の中に沈んでいった。

 

蒼い光が、森に溢れ、周囲の空気に零(こぼ)れ落ちてゆく。

鎮守の主がいなくなってより、そこかしこから現れ、

潜り込もうとしていた 闇の眷属達の気配が なくなり、

穢れが払われた森に 少しづつ本来の姿が戻ってきた。

あたり一面 浄化された気に満ち溢れ、

聖地の趣を 取り戻した森は、

しかし、その中心に、項垂れ、蹲っている若い龍の

 狂気にも近い、自責の念を抱え込んで、

戸惑っているようにもみえる。

龍穴の傍ら。

よく千尋がきて 

日曜の午後のひと時を 過ごす場所。

地面についた拳は、小刻みに震えているが、

項垂れた頭も 力のない背中も、微動だにせず、

あたかも 岩になってしまったかのように固まっている。

 

夜明け、一陣の風が、聖地の中、

そこだけ影が出来ているように、暗く澱んでいた

気配を 吹き払うかのように 通り抜けていった。

 

木々の葉の間から、日が差しこみ 

光と緑の織り成す輝きが 森に満ちる頃、

若い龍は ようやく項垂れていた顔をあげ 

震える声でポツリと呟いた。

「合意魔法。」

まさにあの瞬間、

もしその存在に 気が付かなかったときに 

起きたであろうことを想像すると、

体の震えが止まらない。

おそらく、千尋の封印を解くこと、その行為自体を、

闇に喰われたと判断して 魔法が発動していただろう。

琥珀の、千尋の守護神を気取っていた琥珀の、

千尋への妄執とその存在自体を、闇のものとして、

その想いに呑まれるよりも、輪廻の輪にもどるようにと。

おそらく、

いや確実に、琥珀が千尋の額に触れた瞬間、

千尋は命を落としていた。

そして、そうなったときの自分は・・・・

考えると恐ろしさに身震いがする。

狂龍となった自分は

だれかに、斬られ止められるまで、

世界の狭間を行き来して、

2つの世界を破壊しつくしたかもしれない。

以前竜泉が言っていた 祟り神となって・・・

あのとき、まさに自分は妖しに、

闇に最も近い存在だった。

力に驕り、穢れから守ろうと守護していたものを、

最も深く傷つけ、貶(おとし)める存在に。

闇の眷属らの呪いなど 二次的なものにすぎない。

あの闇は、紛れもなく自分の内から生まれたもの。

闇を侮っていたのは自分。

呪いの輪の中、わずかな隙を付いて

引っ張り出されてしまった闇に、

ろくな抵抗もせず、自ら喜んで呑まれていった・・・

「千尋を道連れにするところだった。」

合意魔法の、慣れ親しんだ湯婆婆の魔法の気配に、

はっとし、我に返った瞬間、

自らも含め 闇そのものに対する怒りに 我を忘れた。

その怒りのままに 溜めていた力を全て解き放ち、

周囲の闇をすべて焼き払ったのだ。

・・・焼き払うべきは、自分自身であったのに。

結果として、森は浄化されたけれども。

本当に浄化すべきは自分自身の

この妄執であるのに・・・

 

千尋を守りたい?

嘘をつくな!!

本心は?

あの時の自分の想いこそが 

その本心。

 

「湯婆婆たちは良く分かっている。千尋は、

何より私自身から守られねばならない。」

自嘲の笑みが、秀麗な顔を暗く彩る。

 

昨晩の、千尋の記憶の隙間から漏れた

 ホンのわずかな光は、

もはや、千尋の中から消え去っているだろう。

千尋の周りを囲んでいた 死霊らの陰の気から、

千尋を守るために呪いの一部が使われた。

そのため、封印の力が少し

弱まっただけなのだから。

今ごろは、修整魔法がはたらいて、

より強固な封印が施されたはず。

そうして、封印を解除する術が すべて琥珀の

手から奪われてしまった今、

千尋の記憶は戻らない。

記憶のない千尋は、けして琥珀を選ばない。

昨夜みた、暗闇の中の甘い夢。

龍が、のた打ち回って欲する夢は、

現の中に姿を現す事はけして 

ない。

 

 

 

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