龍神恋歌 第3章

 

そうして、4年の月日が流れ、

千尋は明日から高校生になる。

母親が強く押した、ミッション系のお嬢様学校は、

片道1時間半もかかるなんていや!

と言う千尋の強い拒否にあい、

怒った母親が、じゃあ、最低ここ、と指定してきたのは、

家から30分ほどのところにある

県下有数の受験校だった。

「無理だったら、こっちを受けるのね。」

という母親の言葉に、のせられ、

意地になって必死に受験に取り組んだ結果、

無事に合格できたと言うわけである。

「千尋ったらやればできるじゃない。」

「その制服似合っているよ」

両親の誇らしげな顔に、エヘンと

おどけた千尋は 合格発表やら、

中学の卒業式やら、入学準備やらで

忙しかった、春休み最後の日に、

久しぶりで森に行くことを思い立った。

受験に専念するため、かれこれ

半年は森にいっていない。

最後に行ったのは、親子喧嘩をした後で、

『絶対合格してやる。』と、息巻いて、

『どうか、合格できるように見守ってください。』

とお願いしたような覚えがある。

『わたしったら、まだ合格の報告にも

行っていなかった。春を迎えて森はだんだん

美しくなるのに、もったいなかったな。』

グレー地に濃い緑のチェック柄の制服を着て、

半年振りに森に現れた千尋は、

難関突破の誇らしさと、新しい生活への

期待に満ちていて、最後に森に現れた姿より、

一段と娘らしさをまして輝くようだった。

「神様、報告が遅くなってごめんなさい。

無事、志望校に合格できました。

森断ちをして、勉強をがんばった甲斐がありました。

どうも、ありがとうございました。

あした、入学式だから、そのまえに制服を

着てみたの。似合いますか。」

泉の前の祠に 小さなおにぎりと、お花を供え、

千尋は久しぶりに森の気配を味わう。

泉の淵に立って、両手を伸ばし、

空を見上げながら思いっきり深呼吸をした。

まだ、若葉ともいえない生まれたばかりの

木々の緑が、目に優しい。

そんな、緑を背景にして 泉の鏡のような水面に

くっきりと映る千尋の姿。

泉に映った千尋のその姿が、

龍の目蓋に映った瞬間、

若龍は眼を見開いた。

 

4年前のあの出来事以来、琥珀は自らを

泉の龍穴の中に封印している。

千尋の守りは式を通して行い、その姿を見るに 

泉の水鏡を通してのみ であることを

自らに架した。

情熱のままに、千尋を囲っていた結界を解き、

余計な危険を呼び寄せる事がないように、

千尋が他の人間と変わらないように見えるよう、

自制した守りに専念した。

唯一、千尋の姿が泉に映ったときだけ、

現の千尋を見、声を聞くことを許した。

しかも、それを許したのも自分の一部のみ。

内に篭った自分の熱を冷ますため、

護りの力に分身を与え、それ以外の姿は、

水中の眠りのなかに封じている。

それほどに、龍は、己を、己の想いを

恐れていたのである。

しかし、

眠りの中にあっても、久しく訪れのない

娘の姿を恋しく思い、

閉じた目蓋を通して その影だけでもと、

幾度も幾度も 思い返していた 愛しい娘。

その姿が泉の水面を通して 

目蓋に映りこみ、

その視線を捕らえた

瞬間。

龍は、目を見開いた。

 

夢か現か、しばし判断に迷う。

実際に最後に見たのは、

まだ小学生の固い固い蕾の姿で、

熱を出して臥せっていて、

しかし今、目の前にあるのは、

蕾がほころび始めた、匂うような娘らしさと、

あのころのまま、素直で明るい魂の輝きを持つ娘。

そなたは誰?

「千尋?」

声にだしたつもりが、のどの奥に音が留まる。

『千尋?』

もう一度、声を出さずにその名を味わう。

千尋!千尋!千尋!ああ!そなただ!

 

誰かに呼ばれたような気がして、

千尋はあたりを見回し、首をかしげた。

気を取り直して泉の中を覗き込み、

その透明な美しさに誘われたように、

手で水を掬い取った。

水玉を天に向かって投げ上げ、光りを受けて 

きらきら輝く様に うっとりと見ほれる。

小学生の頃に帰ったようなそんな

うきうきした気分は、久しぶりで。

千尋は、くすくす声をたてて笑った。

と、もう一度掬い取った水を、

今度は 衝動的に口に含む。

甘く冷たい清冽な香りが、のどを滑り降りていく。

泉を見つけてから6年めにして、

千尋は初めてその水に口をつけた。

「おいしい。とても、おいしい。

もっと早く飲んでみればよかった。」

どういうわけか、今までこの水を飲んで

みようと考えた事もなかった。

透明な水の輝きに誘われ、何かに

促されるように もう一度口に含んだ。

 

泉に満ちるのは、若い龍の千尋への想い。

その身を、心を、求める強い思慕の念。

己を抑え、千尋の幸福をのみ、

願う悲しいまでの清冽な想い。

 

その水を、体の中に取り入れて、

千尋はうっとりと微笑む。

心の中に満ちる、暖かい想い。

長い間、心のうちにあって、千尋を急き立て、

落ち着かない思いにさせていた

「何か」を、発見したような、

泣きたくなるような歓喜に満ちて。

泉を覗き込んだまま、

千尋はしばし時を忘れた。

 

水面によって隔てられている龍と娘。

龍は貪るように娘を見あげる。

娘は、無我のままその想いを覗き込む。

龍の伸ばした指先と、娘の伸ばした指先が

水をはさんで触れ合った。

 

パシャン

 

突然はじけた水に、千尋は我に返った。

「わっ、びっくりした。いっけない、

制服ぬらしちゃうところだった。

あれ、でもこの泉お魚いるのかなあ。

今、何か跳ねたよねえ。」

驚いたように、目をくるくるさせている様に、

自らの封印を解き、水面に立ち上がった龍は 

苦笑しながら、そっと手を上げ、空を指差した。

「えっ、もう夕方?何時の間に時間たったんだろう。

急がなきゃ、お母さんに怒られちゃう。」

くるっと振り向き、家に向かって駆け出した千尋は、

祠の前で留まって 泉を振り返ると、

「ばいばい」と元気良く手を振った。

まるで、琥珀が見えているかのように。

 

微笑んで千尋の後姿を見送っていた

琥珀の背後から、突然声が聞こえた。

「ふん、やっと目がさめたか。あれか、お主が

入れ込んでいる人間の娘と言うのは。」

「竜泉殿!」

数年ぶりに姿をみせた、竜王の王弟は、

その纏う気配が 一段と強くなった。

それは、どこか 殺気じみて・・・

千尋との邂逅を見られていたことを悟った

琥珀は、眦をきつくする。

「おいおい、俺まで威嚇するってことは、本気か?」

「何をしに、いらっしゃったのですか。」

気配に触発され、どこか冷たい表情で、

竜泉に問うと、呆れたような返事があった。

「お前なあ。4年も龍穴に閉じ篭って

おいて、何を言ってる。翁殿が心配して、

わざわざ、宮まで使いを遣したぞ。

この森の主でもないくせに、一息に

浄化の炎で穢れを焼き払ったかと思えば、

事情も説明しないで、眠っちまう。

何度呼びかけても、うんともすんとも言わない。

翁殿でなくとも心配するに決まっているだろうが。」

まあ、今の娘を見れば、なんとなく

事情は分かったがな・・・

竜泉の言葉に目蓋を伏せた

琥珀は、低い声でつぶやいた。

「封印を解くつもりはなかったのですが。つい・・・」

自分で自分に呆れ果てる。

千尋を己から守るため、眠りについた

はずなのに、こうして目覚めたところで 

4年前となんら事情は 変わっていないのに、

望んだところで、決して手に入らない望みだと

いうのに、その痛みさえ、

千尋を見つめ、側にいる喜びには代えがたい。

理性で覆った皮は、愛しい娘を求める本能の前に

脆くも崩れ去った。

「まあ、人間の女に惚れた龍は 

お前が最初と言うわけでもないしな。

そんなに、望んでいるのなら、

手に入れればよいじゃないか。」

お前の力をもってすれば、簡単だろ。

竜泉に気軽に言われ、琥珀は、憮然とする。

「戯れの相手にするつもりは ありません。」

「では、本気であるなら、姿を現して、

思い切って妻問いすればよいではないか。

先ほどの様子なら、受けると思うがな。」

からかうように言われて、琥珀は肩を落とす。

そんなに簡単にいくのならば。

                         

琥珀の様子に、竜泉は目を細め、

唇を引き結ぶ。全ての事情を知っていて、

それでもなお、身動きの取れない、取ろうとしない

琥珀の甘さに、苛立ち、いつまでも中途半端なもので

いようとする若者のその甘えを 罰する意味を含めて

 背後の道を断ち切ってやる。

若龍の前に続く道が どこに繋がるかは、

だれのみぞ知る、だ。

 

「一つ賭けをしないか?」

唐突な竜泉の申し出に、訝しげな

琥珀に向かって、重ねて言う。

「次の神無月までに、妻を得られるかどうか。」

「は?」

一瞬、ナニを言われたのか 理解に苦しむ。

「お主が、この地の守のお役目を正式に

お受けし、秋津島の神の一員として、

神籍を取り戻すことを、神々が望んでいる

ことを知っておろう。しかし、お主にその気が

ないのならば、次の神無月に、

新たな主が正式に定められることになった。

そしてもし、受けるつもりがないのならば、

お主は秋津島での存在が許されない。

あれだけの力を見せつけた以上、

もはやただの精霊だとのいいわけはきかぬ。

お役目も引き受けないような輩が 

ふらふらしているのを、ただ見逃してくださるほど、

秋津島の神々は甘くない。」

竜泉の言葉に、琥珀は

手のひらを握り締める。

「・・・正式にお役目を受ける事と、

妻を得る事と どう関係するのです。」

琥珀のそんな様子に頓着することなく、

竜泉は 軽い調子で言葉を続ける。

「お主は、竜宮の出だからな。

力に目覚めぬガキのうちはいざ知らず、

今のお前は、秋津島の神籍を得るためには、

秋津島に拠り所が必要なのだ。

まあ、海神から、婿入りする形を

取るのが一番楽だということだな。」

「・・・翁殿は、そのようなこと

何も申されませんでしたが。」

「お主の無知を他人のせいにするな。」

ふふんと言った調子で、あしらわれた

琥珀は硬い声で宣言した。

「わたしは、まだ、妻を娶るつもりはありません。」

竜泉は、肩を竦める。

「お主の気持ちがどうであれ、この神無月

までに 乾坤の一員を形式だけでも妻として

拠り所を得、しかる後 神籍を得なければ、

秋津島での仮の契約が切れて、

消失することになるだろうな。

ま、後先考えず、力を見せつけた

お主の自業自得だ。」

琥珀は、深くため息をつき、沈黙する。

項垂れた秀麗な顔を長い髪が隠し、

表情は窺えないが、竜泉は視線をそらさず

反応を待つ。やがて、

「千尋、以外を、妻に迎える気はありません。」

「ですが、千尋を、妻に迎えることはできません。」

力を振り絞っているかのような、低い声で、

途切れ途切れの返事があった。

「ふん、だから賭けをしようと言っている。」

妻を得られれば、お主の勝ち。

得られなければ、俺の勝ち。

お主が勝ったら、俺の宝珠を分けてやる。

俺が勝ったら、

「竜泉殿が勝ったら?」

「秋津島での絆を全て断ち切り、宮に帰れ。」

琥珀が再び沈黙に陥る前に、

畳み掛けるように竜泉は言う。

「俺の歩のほうが、随分悪い賭けだな。

どこぞの、話の分かる女神と、一度でも

戯れれば、妻として形式は整うのだから。

神籍を得た後、ゆっくりあの娘を口説いて、

正式な妻に迎えるという手もあるしな。

妻にした後、あの娘に龍宮の玉をあたえて

やれば、おぬしと『生き死に』を、共にする

神人にすることができるのだし。」

竜泉はもう一度肩を竦める。

そして、徐に冷たい声で、はっきり宣言した。

「その分、お主が負けたときの支払いも、

きっちりやってもらう。あの娘の守護に、

力の一部だけでも残す、などという

甘えた事も許さない。お主の恋情をきっぱりと

断ち切って、この秋津島に対する未練もすっぱり

断ち切って、海神の神の元に還って来い。」

ま、神無月まで半年あることだし、頑張れな。

硬い顔の琥珀に、にやっと笑いかけると、

竜泉は 話は終わったとばかりに消えようとした。

琥珀は、鋭い声で呼び止める。

「お待ちください。その賭け、受けられません。」

竜泉は振り向きざま、右腕をあげ、

人差し指をふりながら決め付けた。

「お主に選択の余地はないわ。」

「仮のお役目が神無月まで、

それ以降の存在は許されないという、

神々の条件は承知しました。

しかし、それは、わたしの問題です。

竜泉殿の申される賭けは、話が違います。」

一瞬、間をおき続けて言う。

「妻を得ることを、賭けにしようと思いません。」

「お主らしい、ことだ。相変わらず、

綺麗事が好きらしいな。」

体だけの戯れ事は、好かぬか。

やれやれと呆れた様子の竜泉に対し、

琥珀は、初めてみせるような酷薄な笑みを

浮かべてみせる。

『綺麗事?』それが好きなのはあなたのほうだ。

「相変わらず私に甘いのは、竜泉殿のほうです。」

「私ごときを、宮に戻そうと懸命になっておられる。」

ふふっと、唇を微かにあげ、嘲弄する。

「いいでしょう。賭けに乗って差し上げます。

なれど、秋津島の神々が 枷を持たない私を

放逐しようとする、その訳を、身を持って知ることに

なるかもしれませんよ。」

『綺麗事?』

本当にあなたは私に甘い。

私が、私自身を封印せざるを得なかった、

その訳を、あなた自身に教えて差し上げる事に

なるかもしれませんね。私の血を貴重なものとして、

その存在を希求してくださるあなたに、

始末をつけていただくのもいいかもしれない。

影に彩られた秀麗な顔が、

竜泉の視線を絡め取る。

互いに視線をそらさぬまま、

竜泉は確かめるように殊更ゆっくりと問うた。

「賭けを、受けたと みなしてよいのだな。」

琥珀も、ゆっくりと 頷き、答える。

「千尋、以外を、妻に迎える気はありません。

その事を、承知した上での、『賭け』であるならば。」

選択が、今、なされた。

 

 

前へ  次へ