龍神恋歌   

第4章 魂誓   あるいは、その龍神純情につき

「高野先輩、神様に会うにはどうすればいいの?」

こんな事を聞いてきたのが、荻野千尋でなければ、

危険人物のレッテルを謹んで贈呈してやっただろう。

 

俺の名前は、高野空也。

自慢じゃないけれど、坊主の息子で、自他共に認める霊感人間だ。

最も、中坊のときは、この霊感をもてあまして、

なんで俺だけ、こんな物が見えなくちゃいけないんだよ!

と、ぐれかけた事もあったが、今では、結構開き直って、

生まれつき持っている才能だ、と思うことにしている。

俺達くらいの年頃は、低級霊やら、生霊やら、自縛霊やらという

やっかいな者に関わるやつが結構いて、

そんなやつらの、お助けマンとして、こっそり小遣い稼ぎをさせてもらっている。

ただし、校内限定。しかも、あんまり危ないやつには手を出さない。

霊感商法だの、詐欺だの、と言い出すやつが必ずいるから、

あくまで、自分の力の範囲内で、口コミで商売させてもらっているのだ。

まあ、音楽の直担が、理解あるやつで、

昼休みに研究室を解放してくれているから、できるんだが。

 

荻野千尋は、入学してきた当時から、俺の目をひきつけてきた人間だ。

俺の目、つまり、霊的な心眼、から見て、すっげーやつだったから。

なにしろ、後ろにつけている守護の格が、普通の人間と、けた違いに異なっていたのだ。

入学式のとき、入場してきた瞬間、あまりの眩しさに、眼を開けていられなかった。

冗談や、おふざけでスポットライトでも後から当てているのかと、

しばらく、勘違いしていたくらいだ。

入学してしばらくの間、校舎のあちこちで姿を見るたびに、

正体を探ってやろうとしたのだけれど、俺程度の力では、

光の正体を見極める事が出来なかった。

守護霊というよりは、守護神?でもついているのかもしれない。

そんなやつが、4月も終わろうというころ、俺の元を訪ねてきた。

そして、開口一番、言ったのがこのセリフ。

となれば、飛んで火にいる夏の虫、この機会に、探り出せるだけ、探って正体を掴んでやる。

好奇心を満たす絶好のチャンスだ。

俺は、意図的に力を使わず、この荻野千尋という女の子を観察してみた。

「えっと、ごめんなさい、ヘンなことを言い出して。でも、佐藤ミコさんに、

先輩が霊とか見える人だって聞いたものだから。」

なかなか、返事をしない俺に、顔を赤くして、困ったように小声で付け加えてきた。

普通の、女の子、だよなあ。

小柄で細っこい、ちょっと可愛らしい女の子。

ポニーテールにした色素の薄い髪が、ふわふわ、柔らかそうで、

真っ黒に潤んでいる瞳が、くりっして印象的だ。

うん、普通の、人間だ、と、思う。

「あ、あの、」

「うん、ごめん、荻野千尋さんだよね。なんで、そんなことが知りたいの?」

俺が、名前を知っていたことに、驚いたようだったが、

細かい事はあまり気にしない性質なのか、質問にすぐ答えてきた。

「知りたいというか、知る必要があるの。」

「神様に会うねぇ。残念だけど、俺は、今まで一度も、神様ってやつに会ったことないなあ。」

「そ、そうなの。でも日本には、八百万(やおよろず)の神様がいるんでしょう。霊が見えるなら、

神様も見えるのでは、ないの?」

これはまた、なんと言うか、あなた、

もしかしてホントに、神様の存在をシンジテイルンデスカ?

「荻野さんは、霊をみたことある?」

「いえ、一度も。」

「そうだろうねぇ。君みたいな人には、霊も近寄れないからなあ。」

「?私みたいな人?」

「そう、なんと言ったらいいのかなあ。人間の前に現れる霊っていうのは、いわば、陰の、

マイナスの磁場を発していてさ。君は、そんな陰の世界から、守られているって言うか、

隔離されているって言うか、う〜ん、まあいわば、君の周りは聖域みたいな場になっている、

ように、俺にはみえる。」

「そ、そうなんですか?」

「自覚無い?荻野さんて、今まで俺も見たことがないくらい、

力のあるやつに守護してもらっているよ。」

肩をすくめながら両手を広げ、呆れたようなポーズを作ってやる。

「先輩には、その人が見える?」

彼女が、真剣な顔で聞いてきたので、正直に言った。

「いいや。残念ながら、光が強すぎて、俺程度の力では、見えない。もしかしたら、

そいつが、神様ってやつかもしれないね。だとしたら、俺には、無理だよ。」

荻野千尋は、しばらく俯いて黙って何かを考えていたが、

頭をあげて黙礼をすると、音楽研究室から出て行こうとした。

俺が、慌てて腕を掴んで引き止めると、驚いたように見上げてくる。

「ちょっと、待って。さっきの質問に答えてもらってない。

荻野さんは、なんで神様に会う必要があるの?」

「確かめたいから。」

「えっ?」

「でも、高野先輩のおかげで、一つ分かりました。

私が、会いたい人は、私を守ってくれているのだって。」

荻野千尋は、思いがけない程、強い視線で見返してきながら、きっぱりと言うと、

さりげなく腕をはずしてきた。

「あっ、ごめん。ん、と、良く分からないんだけど。」

「そうですよね。すみません、私、自分でもヘンなことを言っているって自覚しています。」

「いや、つまり、自分の守護霊に会いたいわけ?守護霊が神様だと、思っていたから、

神様に会いたかった、ということ?」

守護霊に会いたいとか、どんな人が守ってくれているか、とか、

そういうことを、知りたがるやつは結構いて、

荻野千尋も結局は、そう、なのか?

「いいえ、逆です。会いたかった人が、私を(しゅご?と、いうんですか?)

守護してくれているのだって、今、先輩に教えてもらったところですから。」

「?」

荻野千尋は、くすり、と笑う。

「良く分かんないけどさあ、神様に会いたいなら、拝み倒すしかないんじゃないの?でも触らぬ

神に祟りなしっていう格言は、ある意味真実だから、気をつけたほうがいいと思うけど。」

荻野千尋は微笑みながら、頭を下げ、

「ご忠告ありがとうございます。でも、どうしても会いたいの。」

と言うと、今度こそ研究室から出て行った。

 

『やっぱり、いるのね。気のせいなんかじゃなかった。』

千尋は、早足で教室に向かいながら、左手を握って心臓に当てた。

そうでもしないと、胸の鼓動が押さえきれない気がしたから。

入学式の前日、森の中で感じた、『何か』の気配。

小学生の頃は、無意識にいつも感じていた感覚が、いつの間にか無くなって、

それでも、森にいるのは大好きで、中学の頃にもよく行っていたけれど、

何かが、それまでと違っていて、次第に足が遠のいてしまっていた。

そして、久しぶりに行ったあの日、

千尋は、家に帰ってから、涙を流したのだ。

嬉しくて、嬉しくて、でも、何か悲しくて、ちょっぴり、腹立たしくて、

いろんな感覚が、胸がはちきれるほど、いっぱいで、

『何』かは、分からないけれど、

戻ってきてくれた、ことは

理解した。

あれは、たぶん、千尋が勝手に「森の神様」だと、思っている気配。

森に行くたびに、千尋の側にいてくれた優しくて暖かい気配。

泉の水を飲んだ瞬間、千尋をいっぱいに満たしてくれたその感覚。

その気配は、高校生になってから、常に側にあるような気がして。

森の外でも、ふと感じるようになって。

『気のせいなんかじゃなかった。』

知る人ぞ、知る、有名人の高野先輩が保証してくれた。

 

「あら、千尋さん今お帰り?」

「あ、河西先生、こんにちは。はい、今、学校から帰ってきたところです。

先生はいつものお散歩ですか?」

バスからおり、家に向かう坂道の途中、鎮守の森の入り口にある大きな石に、

小学生のころから、お世話になっているお茶とお花のお師匠さんが腰をかけていた。

何時も颯爽(さっそう)と着物を着こなし、白髪を上品に結っているこの先生は、

自分もこういうふうに年を取りたいなあと、思わせる、千尋の憧れの人である。

この土地に昔から住んでいる、所謂(いわゆる)旧家のお嬢様で、旦那さんに先立たれてからも、

一人でしゃんと背筋を伸ばして暮らしている人なのだ。

礼儀作法には厳しいが、ユーモアもあり、暮らしの知恵というべき知識も豊富で、

千尋は、実の祖母のように親しんでいる。

「ええ、今日はとても気持ちがいい日ですものね。久しぶりに、この森にお花見に来てみたのよ。

でも、残念だわ、ここの桜枯れてしまったようね。」

「これ桜の木だったんですね。私が、引っ越してきてから一度も咲いた事が無くて、ここ2年ばかり、

葉っぱも出さなくなってしまったから、もう完全に枯れてしまったみたいです。」

「そうよ、オオヤマザクラといって、春遅くに咲く桜だったの。私が子供の頃は、それは

見事だったのよ。もう随分年寄りの木だったから、天寿をまっとうしたというところかしらねぇ。」

「先生は、この森に詳しいのですか。」

「勿論よ。子供の頃はよくここで遊んだものよ。でも、以前と比べて、この森も随分

小さくなってしまったけれどねぇ。千尋さんも、よくこの森にいらっしゃるのですって?」

「はい、小学生の頃から来ているので、自分の家の裏庭みたいな感じです。これ以上、

宅地にならないといいんですけど。自分のうちは、森を削って建てておいて、勝手ですよね。」

少しだけ、申し訳なさそうに言うと、

「ふふ、まあ大丈夫じゃない。千尋さんのおうちが、まあぎりぎりと言うところね。

ここの宅地を開発していた会社は、つぶれてしまったみたいだし。これ以上は、

神様の堪忍袋の尾が、切れてしまいますよ。」

「先生、あの、お聞きしたい事があるのですけど。」

神様と言う言葉が、師匠の口から出てきた瞬間、どきっとした千尋は、

前から疑問に思っていたことを、思い切って聞いてみた。

「あの、この森は鎮守の森というのですよね。友達とかも神様の森って言っていましたし、

鳥居や祠もあちこちで見かけるのですけど、神社みたいなものはないですよね。」

「そうね、私が二十歳のころ、そう、結婚する前だから、随分昔ね。そのころには、ちゃんとお社が

あったのよ。この道の奥に、古い井戸があるでしょう。その辺りにあったの。でも、火事で焼けて

しまって、当時まだ、戦後まもなくで、余裕が無い時代だったから、結局再建されなかったの。」

「古い井戸?ええと、井戸は分からないですけど、湧き水が湧いているところですか?」

師匠は、差していた日傘をくるくる回しながら嬉しそうに答えた。

「そう、まあ、まだ湧いていて?井戸があったのは随分昔だから、埋められてしまったのかしら。

でも、泉はまだあるのねぇ。懐かしいわ。」

「はい、とても澄んでいて綺麗な水です。先生もいつか一緒にピクニックに行きませんか?

わたし、たいていお休みの日は、其処で過ごしているんです。

私の秘密の場所ですけど、先生は、昔からご存知ですから特別です。」

「ほほ、素敵なお誘いね。そうね、これ以上足腰が弱る前に、一度、行ってみましょうか。

2人で野点を楽しむのもいいかもしれないわ。」

「わあ、素敵!ちょうど、入学祝に父にせがんで、野点セットを買ってもらったんです。

気候もいいし、お天気がいいようなら、今度の連休にいきませんか?」

「私はよろしいけど、でもせっかくのお休みに、ボーイフレンドとお出かけしないの?」

「やだ、先生ったら、私、そんなの居ませんから。」

「本当?では、お約束ね。」

「はい、じゃあ、あさっての午後お迎えに行きますね。」

千尋は、師匠が立ち上がるのに手を貸すと、顔を輝かせて約束した。

 

「我ながら、情けないな。」

竜泉と賭けをして、ちょうど一月あまり。

琥珀は、この間、以前の決心を忘れたかのように、千尋の側について離れなかった。

銭婆たちのかけた合意魔法の正体を探るため、

千尋の中にある呪いの気配を少しずつ、探っていたのだ。

千尋の命と複雑に絡まりあった記憶の封印と、

闇に触られたとき履行される死の呪いの関係を解明しようと

細心の注意をはらって、持てる魔力を注いでいた。

ひと月かけてわかったことは、外部からの働きかけは、

全て、負の方向に働いてしまうということだ。

あの、魔女どもは、どのような形であれ『意に添わぬ』ことを強制されるのを忌避しているらしい。

しかし、身動きが取れぬ手詰まり感の中、琥珀に一つの希望が生まれた。

以前、琥珀が使役された霊能力者とは、カラーが異なるが、

それでも霊能力のある人間に千尋の方から近づいていったときは、何をするのかと固唾を飲んだ。

が、その目的を知ったとき、琥珀の中に広がった歓喜の思い、

そう、千尋から私に働きかけてくれれば・・・

琥珀に、もしかすると、という一縷(いちる)の望みが生まれた瞬間だった。

「結局、私はいつも千尋からの行動を待っているのだな。私を動かす事ができるのは、

千尋だけ、ということか。」

銭婆の呪いを受けたときも、真名を取り戻したときも、

・・・河から、飛び出すきっかけも・・・

本当に、我ながら、情けない。

千尋が、嬉しそうな顔で見送っている矍鑠(かくしゃく)とした老婦を、

千尋の頭上から見るともなしに見送りながら、複雑な思いに顔を顰(しか)める。

千尋のこんな笑顔を見ているだけでも、自分は充分幸せだというのに、

妻に願うなどとは、我ながら。

記憶の無い千尋に私を想って欲しいと、願うなど、まさしく愚か者の夢。

 

泉の側の、鳥居の上に腰をおろし、千尋が飛び回るのを見ながら、琥珀は思わず笑みをこぼした。

家と泉を何回も往復して、敷物やら、小さなテーブルやら、コンロやらを、

一生懸命、用意している姿が、とても愛しくて。

「ええと、野点セットでしょ、お湯を沸かす道具も良いし、後は、家から、

お抹茶とお菓子を持ってくれば,OKね。」

まさに、ルンルンという形容詞がつきそうな位、楽しそうなのである。

「そろそろ、お迎えにいってもいいかな?」

今度は、家へではなく、古い雑草だらけの細道を下り、件の場所から森を出て行った。

琥珀は式を通して、千尋が走って坂を下るのを複雑な思いで見守った。

初めて千尋は、他の人間とここで時間を過ごす・・・

程なく、千尋は先日の老婦を伴って、ゆっくりゆっくり、小道を辿ってきた。

「先生、大丈夫ですか。ちょっと、坂だから、休みながら行きましょうか。」

「そうね。思ったより、遠かったわ。何時までも、昔の体ではないということを、

ついつい忘れてしまってダメね。でも、心配なさらないで、ゆっくり行けば大丈夫ですから。」

千尋は師匠に手を貸しながら、一歩づつに気を配る。草や小石に足を取られ、躓いたりしないように。

老婦は、木漏れ日を浴びながら、昔を懐かしむように話をする。

「この道は、前には石畳が敷かれていたのよ。お社はそんなに大きいものではなかったけれど、

きちんと宮司さんもいらしてね。私のお友達だったの。」

「そうなんですか。先生、もう少しですよ。」

琥珀は、ふと目を開いた。千尋の気配が近付いてくる。

「まあ、なんて素敵。千尋さん、頑張ったのねぇ。」

琥珀が座っている鳥居を通して、泉を目にした老婦は、懐かしさに目を細める。

「私、野点は初めてで、足りないものがあったら言ってくださいね。

家まで、ひとっ走り行って来ますから。」

「充分よ。野点は、ありあわせの物で楽しむのが、乙なのよ。特に決まったお道具も、

要らないの。最低限のものは、きちんと準備してくださっているわ。」

小さな椅子に腰をおろすように促され、師匠は、辺りを見回す。

「ああ、昔のまま。お社こそ無くなってしまったけれど、雰囲気は、まさにそのままよ。

神様が、其処にいらして下さるみたいだわ。」

「先生も感じますか。私、ここに来るたびに、何か暖かいものに包まれているような、

誰かに見守ってもらっているような、そんな気がするんです。」

にっこり笑う千尋を見ながら、老婦も微笑む。

泉の水を汲んで、シュンシュン沸くのを待ちながら、祖母と孫ほどに年の離れた2人は、

笑い声を上げて、話を楽しんだ。

老婦は過ぎ去った過去を懐かしみ、千尋も共にそれに思いを馳せる。

昔話が一段落したところで、湯が沸き、師匠がお手前を披露した。

「先生、こちらのお茶碗に先に点てて頂いて良いですか。神様の分なの。」

師匠が点てたお茶と小さな菓子をいつものとおり祠にお供えする。

「どうぞ、ご一緒に楽しんでください。先生のお手前は最高ですよ。」

まるで、友達に話すような様子に、師匠は目を丸くしながら、千尋らしいと笑った。

祠の上に場を移し、琥珀は千尋達とお茶を楽しむ。

千尋の目には映らなくても、琥珀が感じるほっこりと暖かい気持ちと、

その楽しさを共にしている事は、伝わっているのだろうか。

お茶を楽しみ、話を楽しみながら、千尋は時折、無意識に祠に目をはせる。

千尋を見つめる琥珀の瞳を、まるで、見つめ返すかのように。

 

「先生!!」

変化は突然だった。

千尋に気を取られていた琥珀は、一瞬遅れて異変に気付く。

千尋の師匠が、胸を押さえて、苦しげにうめいていた。

「先生、大丈夫ですか。ああ、どうしよう。」

敷物の上に崩れ落ちた師匠の、背中をさすりながら、千尋はパニック寸前だった。

老婦には、すでに意識がない。脂汗をかきながら、時折胸を押さえて苦しげにうめく。

「ああ、助けて。お願い、其処にいるのでしょう。先生が死んでしまう。

お願い、姿を現して!」

冷静に考えると、とんでもない事を口走ったものだが、そのときの千尋には、

助けを求められる、当たり前の存在で、千尋にとって唯一の実在で。

その想いが、魔法に小さな亀裂を入れる。

千尋の方から流れるベクトルに乗って、

その瞬間、琥珀は眩しい光と共に現の姿を、千尋の前に現した。

呆然としている千尋を、そっと脇に寄せ、琥珀は老婦を抱き起こし、

胸にすっと手を当てて、光をおくる。

と、見る間に老婦の苦しげな表情は消え、意識こそないものの、

落ち着いた呼吸を取り戻していた。

千尋は、はっと我に返る。

其処にいる、不思議さよりも、自然な存在として受け入れて、

次に言った言葉は、まさに琥珀を『当たり前』のものとして出た言葉で。

琥珀のほうが、後で考え、思わず笑ってしまった。

「お願い、先生をみていて。家に帰って救急車を呼んでくる。」

返事も待たずに、身を翻(ひるがえ)す。

シーンとした森の気配に取り残された老婦は、ふと意識を取り戻した。

目に映ったのは、涼やかな表情をうかべた、美しい男性で、

まるで、かつての知り合いの宮司のような姿をしていて。

夢かしら?

次に気付いたときは、千尋と共に救急車の中だった。

「先生、気が付きましたか。」

「救急車の中です。すみません、わたし、無理をさせてしまって。」

泣きそうな千尋を見上げながら、

「まあまあ、私どうしたのかしら。こんなに気分が良いのは久しぶりのような感じなのに、

救急車に乗っているなんて、面白い事。」

「落ち着いてください。倒れた事を覚えていますか。胸の苦しさはどうですか。」

救急隊員が、千尋を押しのけ、てきぱきと処置をする。

病院につくと、元気だと言い張る老婦を無理やり車椅子に座らせ、診察室に運び込んだ。

と同時に、師匠の家にいる住み込みのお弟子さんが、病院に飛んできた。

一応検査入院をすることになり、病室に落ち着いた師匠は

「大丈夫よ。家に連絡してくれて、ありがとう。あなたは、心配しないでお帰りなさい。」

心配顔で付き添っている千尋に、明るく笑いかけた。

「何か、森で素敵な夢を見たのよ。神様が助けてくれたのかしらね。

千尋さん、お礼を申し上げておいてね。」

ウインクしながらお茶目に言う師匠に、千尋は、それまで意識の中から飛ばしていた、

光の中から現れた青年の姿を思い出し、動揺した。

 

病院からの帰り道、家に向かう坂道の途中、鎮守の森の入り口で立ち止まる。

夕方近く、斜めに差し込む薔薇色の光に押されるように、千尋は意を決して、泉に向かった。

幻のように現れた、現実とはとても思えない出来事。

でも、確かに、先生の命を助けてくれたことは、事実で。

自分の目で見た事ながら、半信半疑で、思い出す。

救急車をよんだ千尋がもどってきても、確かに先生の側にいてくれて、

千尋が、頼んだら優しく微笑んで、先生を森の入り口まで連れて行ってくれた。

救急車に気をとられ、乗り込んでから振り向いたときには、

もうどこにもその姿は見えなかったけど。

泉の側にある、お茶会の後。

祠も鳥居も、静かに湧き立つ泉も、確かに現実のもの。

でも、あの男性の姿はどこにもなくて、

夢だったのかしら、首をかしげながら唇に指をあてる。

でも・・・

「あ、あの、其処にいますか。き、今日は、本当にありがとうございました。」

シーンとした森の静寂のなか、祠に向かいおずおずと、躊躇(ためら)いながら声を出す。

と、視線を感じた千尋は、はっとして勢い良く振り向いた。

泉の側に佇み、静かに千尋を見つめる青年が一人、確かに、いた。

絡み合う視線に金縛りにあったように、体が固まる。

と、青年が一歩前に出たとたん、

千尋は、へなへなと座り込んでしまった。

次の瞬間、青年の姿は千尋の側にあり、心配そうに千尋の顔を覗き込んでいた。

「わっ。」

わたわたと、慌てたように身を引き、後に倒れそうになった千尋を、支えてくる。

突然のことに、ますます慌て、体をピキンと固めてしまった千尋の肩を

青年は、落ち着かせようとポンポンと、優しく叩いた。

千尋は、深呼吸をして、自分を落ち着かせると、そおっと、青年の頬に手を伸ばした。

「触れる。」

慌てて引っ込めた手を優しく掴まれ、もう一度頬に触れさせる。

「やっぱり、幻じゃないよね。本当にここにいるのね。」

手や頬の感触を何度でも確かめる。

微笑みながら頷いている青年に、ふと気付き、千尋は尋ねた。

「あの、あなた、お話できる?」

「そなたが、望むなら。」

「いつも、この森にいたのは、あなたよね。」

「そう。」

「いつも、私のこと、見ていてくれたのも、あなた?」

頷く青年に、千尋は晴れやかに笑いかけた。

「いつも、側にいてくれて、ありがとう。今日、先生を助けてくれて、本当に嬉しかった。

それに、今、こうして姿を見せてくれて、本当に嬉しい。ずぅっと、会ってみたかったの。」

その言葉に、微笑み返した青年は、千尋に手を貸して立たせてやった。

「そろそろ、日が暮れる。家にお帰り。」

「うん。」

お茶の道具を片付け、椅子やら、テーブルやらを、ひとまとめにすると、

千尋は青年を見上げ、心配そうに、聞いてきた。

「あの、また会える?」

「そなたが、望むならば。手伝おう。」

持ち倦(あぐ)ねていた大きな道具類を千尋の手から、取り上げると、

千尋がいつも来る道を歩き出す。

千尋は、野点セットが入ったバスケットを持って、慌ててついていった。

「本当?私が森に行ったら、絶対出てきてくれる?」

「約束する。」

「お話もしてくれる?」

「それが、望みなら。」

「じゃあ、一緒にお茶とかもできる?」

「いいの?」

反対に聞き返してきた青年の言葉に頷き、家と森の境で、荷物を受け取ると、

「もちろん。明日、先生のお見舞いに行ってから、また来るね。」

と、嬉しそうに笑った。

 

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