第4章魂誓

 

中間と期末の間。梅雨が始まろうという頃、千尋はとても困っていた。

「千尋〜、なんで、合唱部に入ってくれないの〜。」

「ねえ、お願い、千尋のピアノの腕を当てにしているんだから〜。」

友人の言葉に断りきれず、千尋はコンクールまでの一カ月という約束で、

ピアノ専属の臨時合唱部員にされてしまった。

進学校の勉強に、余裕でついていける頭がないと自覚していて、

おまけに、お稽古事にも手を抜きたくない千尋は、

とてもではないけれど、部活動に勤しむ余裕はなく、

でも、本当の所は、少しでも時間があったら、

森で、かの青年と過ごしたいのが本音で。

「あうぅぅ、何で頼まれると断れないのかな。」

この学校の合唱部は、コンクールでも結構な成績を取っていて、

コンクール間近のこの一カ月は、土、日、返上で練習がある。

お昼を挟んで10時から3時まで。

お茶もお花も、ピアノも、部活が終わってからの時間に変更してしまえば、

とてもではないけれど、森に行く時間は取れない。

情けない顔で、事情を説明すると、青年は淡く微笑んだ。

「そなたの、望みどおりに。」

「あなた、いつもそれだよね。それって嬉しいのか嬉しくないのか、わかんない。」

「そなたの望みではないの?」

「違うの。えっとね、私なんかのピアノを見込んで当てにしてくれている、合唱部の

友達や先輩や、先生の期待にも答えたいし、河西先生のお稽古もお休みしたくないの。

でも、森であなたと会う時間が無くなってしまうのもいや。」

「自分でも中途半端で、いやになっちゃう。でも、引き受けた以上、責任を持ってやりたいから、

結局は、森に来る時間がなくなってしまうの。それって、私はすごく寂しいのに、

あなた、平気そうなのだもの。」

だから、嬉しくないの。

勢いで話した後、顔を赤くしている千尋に、冷静な表情を装うのは結構大変だった。

しばらくの沈黙の後、

「そなたが、今しか出来ない事をやるのは、いいことだよ。私は、いつでもここにいるから、

そなたが、経験した事を話にきておくれ。」

「次に会えるのは、コンクール明けの日曜日になっちゃう。それまで、待っていてくれる?」

「もちろん。」

「少しくらい、夜遅くなってもいいのに。どうして、夜にこの森に来てはいけないの?」

「危険だから。そなたのように、年頃の娘が、夜、出歩くものではないよ。」

「この森でも?」

「この森だから。約束しておくれ。」

「・・・うん。分かった。」

帰っていく千尋を見送りながら、琥珀はため息をついた。

千尋には、千尋の人としての生活があって、

自分は其処に割り込んだ異界のものにすぎず、

千尋がこうして会いに来てくれるだけで、僥倖(ぎょうこう)。

千尋の前に現れて、話までできるようになった事、それ事態が、

ありえないほどの幸運で。

・・・・分かっている。

わたしの目覚めを見計らったように、再び現れ始めた、闇の眷属たち。

私が千尋とこうして会うだけで、千尋はかなりの危険に晒(さら)されている。

少し千尋と離れたほうが、千尋のためになる。

・・・・そう、分かっている。

『平気そう』、か

千尋が私に会えないと寂しいと言ってくれたとき、抱きしめたくなるのを

どれほど我慢したか、そなたには、分からないだろうね。

そなたが望んだときが、そなたと過ごせる時間。

そなたが望んだときが、そなたと話せる時間。

そのことがどれだけ幸せな事か。

わたしの望みは・・・・

そなたが望んでくれる事。

 

「千尋、いい加減にしなさい。もう9時になりますよ。何時まで、弾いているの。ご近所迷惑でしょ。」

「分かってるぅ。もうやめるから。」

「あなた、自分のコンクールは出たがらないくせに、頼まれればでるのね。」

「ンなこと言ったって、合唱部のピアノの先輩が手首を捻挫しちゃって困ってたんだもん。

ピンチヒッターを頼まれればしょうがないでしょ。」

「余裕ね。期末に響かせないようにしなさいよ。」

「はいはい。」

部屋に帰って、ベッドに寝転ぶ。

本当は、すごく不安。

今度行ったとき本当に会ってくれるのか、

この道を行った先で、本当に微笑んでいてくれるのか。

会いに行くたびにドキドキして、

会った瞬間に、蒸発していく不安。

わたしが望めばいつでも会ってくれるというけれど、

あなたの望みは、いったい何?

「はぁ〜、勉強しなきゃ。」

わたしは、どこにでもいる普通の女子校生で、

こうしてやらなければいけないことに追われていて、

特に美人でもなければ、特別な才能があるわけでもない。

本当に、ごく当たり前の一般人で。

でも、あの綺麗な人は、特別な人。

それなのに、いつでも、わたしを待ってくれていて、

わたしの話を聞いて微笑んでくれる。

ポットのお茶や、手作りのケーキを喜んで、

時には、一緒に読書をしたり、散歩をしたり。

そんな時間がとても自然で、

前からずっと一緒に過ごしていたような感じもして。

あなたの望みは、いったい何?

 

「あれ、荻野千尋さん。どうしたの?また何か相談?」

「あぁ、高野先輩。その節はお世話になりました。いえいえ、今日から臨時の

合唱部員なので、ピアノの練習をさせてもらいにきました。」

荻野千尋、なんか雰囲気変わった?

まじまじ見ていたら、学担が顔を覗かせた。

「あっ、荻野、もう来てくれたのか。早いな。弁当は食ったのか?」

「八木ちゃん?」

「高野、悪いな。今日から一ヶ月、音楽室は、荻野専用の練習場だ。

うるさくて商売にならんかもしれないが、コンクールが終わるまでは、こっち優先だからな。」

「それはいいけど、なんで荻野さんが?」

「ピンチヒッターを頼まれたんです。八木先生、一応通してはみたんですけど、

わたし歌と合わせたことがないので、よろしくお願いします。」

「いや、無理を言ったのはこちらだから。さっそく、聞かせてもらっていいか?」

荻野千尋は、頷くと、ピアノに向かい、背筋を伸ばすと、楽譜をセットした。

「じゃあ、課題曲からいきます。」

ピアノに向かう姿勢は全く自然で、気負う所もなく、

なんだか、荻野千尋の人となりをみる様だった。

八木ちゃんがハミングで合わせるのに乗って、3分ほどの曲を弾き終えると、

自然に拍手が出てしまった。

心配そうな顔を見せる荻野に向かい、八木ちゃんは、

ご機嫌な顔でOKサインを出した。

「いや、初めてでこれなら、上出来。細かい所は、後でつめるにしても、

結局コーラスの連中への指導もこれからだから、一緒になって練習に

参加してもらう事になるけど、いいか?」

「はい、そのつもりですから。じゃあ、次、自由曲いきます。」

へぇ〜、驚いた。すごく素直で綺麗な音を出すんだな。

この音が荻野千尋そのものを表しているとしたら、

これは、神様とやらが気に入るわけだ。

こちらのほうは、途中2、3箇所引っかかった所があったけど、

全体の流れはスムーズで、5分近くの曲を弾ききった。

八木ちゃんと、専門的な音楽の話をしながら、曲を繰り返し弾いている姿を

そんなことを考えながら、見るともなしにみていると、

ふっと、荻野に重なって、翠色の布のようなものが見えた。

と、見る間に

切っていたスイッチが強制的に入れられたような感覚で、

一瞬

確かに、荻野の斜め後ろに立っている男の姿が見えたんだ。

光に包まれた顔の中、覚えているのは、男の目。

まっすぐ俺に向けられた、その、翡翠の瞳が表したのは、

確かに、『警告。』

瞬間、眼を瞑ったのは、危ないときに本能的に反応する自衛の手段で・・・

荻野千尋、お前大丈夫か。

後について守っているものは、俺が知っている守護霊なんてものじゃない。

俺程度では、はかることも出来ないやつで、

いい物とか悪いものとかさえ、判別できない。

あれが、お前が会いたいと言っていたやつだとしたら、

荻野千尋、なんかお前とんでもない事に首を突っ込んでいないか?

練習の後、荻野千尋に声をかけようと思っていたけど、あの眼を思い出すと

体がすくんで、動けなかった俺を、臆病者と、呼んでくれ。

 

朝と放課後のあわせ練習のほか、昼休みのピアノの練習。

土、日を返上しての特訓も佳境に入って、コンクールまで残す所

後、2日。

森で会うあの人に言われたとおり、今しか出来ない事に悔いを残したくなくて、

頑張った事を伝えたときの、あの人の笑顔を期待して、あれから会いにいっていない。

昼休み、すでに、先生はついていず、自主練習の場になっているけれど

高野先輩だけが、いつも何か言いたげに、観客になっている。

コンクールは今度の土曜日。

その次の日曜日には、会いに行ける。

「荻野。」

練習を終わって、音楽室を出ようとしたとき、高野先輩が声をかけてきた。

もうじき、梅雨も明けようかというのに、蒸し暑く、どんよりしたお天気。

「あのさ、お前、あれから、なにかあった?」

「?」

質問の意味を聞こうとしたとき、

空が突然暗くなって、激しい雨が降りだした。

屋根を叩く音に気を取られ、高野先輩を見たときは、すでにそこに居なかった。

「?」

そして、最後の練習日。

何回も何回も弾いて、すっかり馴染んだその曲が、

自然と指から流れるのに任せ、心はあの人のことでいっぱいになる。

『あさってには会いに行ける。』

この一ヶ月長かった。それでも。我慢できたのは、

いつも、側にいてくれる、そんな気配を感じていたから。

パタンとふたを閉じ、たった一人の観客に声をかける。

「高野先輩。」

「ん?」

「あの、一ヶ月お付き合いくださってありがとうございました。

今日で音楽室を占領するの、お終いです。」

「コンクールで上にいったら、まだ続くんじゃないのか?」

「いえ、臨時ですから。入賞したら、次の大会は、また一ヶ月後なので、

みっちゃん先輩が復帰されます。」

「そうか。なんか、もったいない気もするけど。」

「中途半端な人間なので、これ以上は責任持てませんし。」

「荻野。あのさ、あんた、神様とやらには、会えたのか?」

小声で聞かれて、ああと、得心する。

心配げな高野先輩に、微笑んでみせて、会釈をすると、

そのまま音楽室をでた。

高野先輩の、もの問いたげな視線を背中に感じながら。

 

「千尋?でかけるの?」

「うん。いってきます。」

「ちょっとまって。今日の夜、お父さんとわたし、デートだから。

千尋、夕食一人でなんとかしなさいね。」

またか。

「はいはい。どうぞご心配なく。ごゆっくりね。いってきます。」

日曜日の朝8時。

昨日梅雨明け宣言があって、今日は朝から快晴。

今日は、特別な日。

朝から、張り切って作ったお弁当と、

お茶と敷物と本を持って、森に飛んでいく。

あの人に会いに飛んでいく。

 

泉の傍らで、目を瞑りながら千尋の気配を感じ取る。

森の中を、走りながら、わたしの元に翔けて来るその、躍動感。

そんな気配の一歩一歩を愛しく思い、ほら、そなたは其処に居る。

眼を開いた瞬間、

小さな藪を掻き分けて、鳥居の向こうに姿を見せたのは、

ああ、確かに、そなただ。

激しい息遣いを、そのままに、そなたは、わたしに飛び付いて来た。

まるで、子犬がじゃれるように、そなたは、わたしに飛び付いて来た。

一瞬、驚きに眼を見張りながら、そなたの体を抱きとめる。

「ああ、良かった。居てくれた。本当に、あなただ。」

両手をわたしの背にまわし、胸に顔を押し付けて、激しい息遣いもそのままに、

そなたからの、抱擁。

思わず抱き返したその至福の一瞬。

激情のまま、そなたを驚かせないように、

思う様、暴走していかないように、腕の力を押さえつける。

そなたの髪に顔を埋め、気付かれないように頭上に小さな口付けを贈った。

そなたの息遣いが納まった頃、抱擁を解き、泉の傍らに並んで腰をおろす。

「ああ、一ヶ月長かった。」

「コンクールとやらはうまくいったのか?」

「うん、金賞貰ったよ。合唱部のみんな、すごく上手だった。練習頑張った甲斐があったよ。」

そなたの話に微笑んで、ふと気付くと、そなたは、わたしを見つめていた。

「居てくれて嬉しい。」

「・・・約束したから。」

「うん。約束守ってくれてありがとう。」

「ね、今日は特別なの。頑張ったご褒美に、河西先生からお休み貰って、

一日ここで過ごせるの。お弁当も作ってきたのよ。今日一日、ずっと一緒に居てくれる?」

「そなたの、望むとおりに。」

たわいないお喋りと、時々の沈黙、

森を漫(そぞ)ろ歩いたり、泉の水で戯れたり、

倒木に腰をかけてのお弁当とお茶の時間。

側にいることが、こんなに自然で、時間があっという間に経って。

たそがれ時近く、「もうちょっと」と愚図る千尋を宥め、手を引いて、家まで送る。

「絶対に、夜、外に出てはいけないよ。」

潤む瞳に、心を引かれながら、理性の綱を引き締める。

・・・千尋はまだ、思い出していない。

「約束しておくれ。」

「・・・うん。その代わり、夏休みには、またこうして一緒に過ごしてくれる?」

「そなたの、望みどおりに。」

いつものセリフに、やっと、千尋は笑ってくれた。

闇の眷属の行動は、以前よりは控えめだとはいえ、油断できない。

千尋にはすでに、わたしの息吹が纏わりついていて、

あれらが匂いを覚えぬように、護りを固く囲っていても、千尋自身が囲いを破り

飛び出してしまえば、守りきれない。

 

そして、16歳の夏が来る。

懐かしいあの夏を思い出させるような、そんな夏。

千尋と共に過ごせる最後の夏になるかもしれない貴重な時間。

あの、夏の子どもを思い出させる、面影は確かにありながら

千尋は、やはりあの夏の子どもとは、違っていた。

離れていた一ヶ月で、千尋は、一段と娘らしさが増し、

子どもから大人へ急速に脱皮していく。

それを、眩しく見つめながら、共に過ごす幸せな時。

「わたしね、わかったの。一ヶ月あなたと会えなくてやっと分かった。」

「わたし、好きな事がたくさんあるけれど、一番好きなのは、

あなたとここでこうして過ごす時間なの。」

「そなたは、昔から、この森が好きだったね。」

「そう。不思議ね。ここに、引っ越してきてから、この森に出会って・・」

「どうした?」

「ん、なんでもない。時々、引っ越してきた事を思い出そうとすると、

いつもヘンな感じがするの。どうしてなのかな。よく思い出せないことがあるような。」

「・・・・」

「どうしたの?」

聞き返されて、無理に微笑む。

ああ千尋、そなたの名を呼ぶことが許されるなら。

千尋、記憶の戻らないそなたに、妻問いすることは、許されるのだろうか。

 

今日見た、あの人の苦しげな視線。

どうして?

あなたは、何かに苦しんでいるの?

わたし、あなたのこと知っているのに、何も知らない。

ねえ、あなたの事を、もっと知りたいと願う事は許される事なのかしら。

・・・ああ、わたし、もう一つ分かったことがある。・・・

・・・わたし、あなたに恋している。・・・

「そなた、お稽古事はいいのか?」

「いいの。夏休み中の昼間は、全部この森で過ごす事に決めたの。」

「だが、・・」

「いいの。」

あなたが、この森から出られないのなら、わたしもここに居たい。

夜を共に過ごす事が許されないのなら、せめて、昼間の時間はわたしと共に。

 

互いの想いが絡まって、深くなるようでいて、

先に進めないもどかしさ。

それでも、其処に存在してくれるだけで感じるこの幸せな思いは

誰にも、否定させない。

千尋、記憶の戻らないそなたに、妻問いをしたら、応えてくれるだろうか。

ねえ、恋したあなたと、共にありたいと願う事は、許される事なのかしら。

夏も終わりに近づく。

タイムリミットの神無月まで、あと二ヶ月あまり。

 

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