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東京ビッグサイト誕生秘話

東京ビッグサイト誕生秘話

“秘話”とつけましたが、いわゆる暴露話ではありません。裏方の苦労話です
めったにない大プロジェクトについて、後進の参考にと作りました。
すでに四半世紀が過ぎていますので、記憶違いもあると思います。主観も入っています。

財政危機から、一転バブル景気の東京都


まず何から話し始めようか・・・。
あればドラマだった。目の前で、下町ロケットや、プロジェクトXにだって匹敵するような事態が、現実に起こっていた。

東京ビッグサイトが正式に開場したのは、平成8(1996)年4月1日のことだった。もう、ずいぶんな時間が流れたことになる。
だが、その歴史をたどるには、まだまだ時間を遡らなければならない。 それに、母体である晴海の国際見本市会場、そして、ライバルである幕張メッセの存在を避けて通ることもできない。
前置きは長くなる。
それにしても、こんな駄文を誰が読むのだろうか。たぶん、株式会社東京ビッグサイトの社員と、東京都の関係者、 関連の建設業者と、コミックマーケットの入場の列に並んで時間つぶしをしている人くらいだろう。
それでも、今、あの当時の出来事の痕跡を残さなければならないと、私は考えている。

▼青息吐息の東京都

時間を過去に少し戻す。
昭和63(1988)年「東京国際コンベンションパーク基本構想懇談会」が設置された。これが、東京ビッグサイトの最初の出発点だ。
東京都がこのような外部会議を設置するということは、すでに都庁内部では、新たな展示場の創設が検討されていた、ということになる。
幕張メッセが開設されたのは平成元(1989)年。当然、都庁もそのことを知っている。 たぶん、それ以前の議論として「老朽化した晴海を廃止するか、それとも幕張を凌駕する展示場を建設するか」という検討が都庁内部でなされたはずだ。
東京ディスニーランドの開園が昭和58(1983)年4月。東京は千葉に押されていた。「このままでいいのか」と考えた幹部職員がいたとしても不思議はない。
ある意味では、東京ビッグサイトを産んだのは幕張メッセだったとも言えるのだ。

当時の私は、新展示場の建設には反対だった。
都庁は長いこと財政不足にあえいでいた。
昭和42(1967)年、東京には“革新都政”が誕生し、高度成長に下支えされて拡大路線を進んでいた。だが、経済が急展開する。 いわゆるドルショックというのが起こった。昭和48(1973)年だ。
役所の動きは、いつも1年遅れる。その年に検討された計画が翌年に事業化されるからだ。 だから、昭和48年の税収減は昭和49年に反映され、その影響が昭和50年に具現化される。
その年に私は都庁に採用された。4月の採用は延期され、7月採用となった。
昭和51年から昭和59年、都庁には、ほとんど新規職員が採用されなかった。職員の人員構成にポッカリとした谷が生じ、今でも様々な影響が出ている。
新規採用が停止されても、退職者は出る。その差が人員削減となった。 平成11(1999)年、知事部局の職員定数は3万7千人。これが、平成25(2013)年には2万5千人になった。3割超の人員減だ。 だが、これだけの人員削減ができるということは、それだけ高度成長時代に野放図に職員採用を行ってきた反動とも言える。

新しく仕事が増えても、人は増えない。給料も増えない。新採が来なければ、組織の平均年齢は上がるばかり。新しい事業を要求しても予算は付かない。付いても削られる。
それでは職場の志気は上がらない。「どうせ要求しても通らないんでしょ」という返答が、あちらこちらから聞かれた。
私は、その頃人事係にいたので、現場の厳しい実情はよく知っていた。 それゆえ、「幕張の新展示場があれば、晴海はもういらない」と考えていた。

▼構想の具現化として誕生した臨海副都心計画

都庁全体にそういった閉塞感が満ちていた。それは、中枢の政策企画部門でも同じだ。
当時、そのトップにあったS氏(後の国際見本市協会副会長)は、部下たちが意気消沈しているのを、何とかしたいと考えた。
そこで「金が無いのは仕方が無い。だったら、経費は度外視して、理想的な都市開発プランを考えてみようじゃないか」と、企画担当を鼓舞した。
こうして産まれたのが「臨海副都心」の開発計画だ。

ところが突然、神風が吹いた。バブル景気である。
都庁の各局は、不景気風が骨の髄まで染みこんでいたから、なかなか画期的な事業プランが出ない。出したって、人員が増えるわけでもない。
ところが、政策企画室には、そのプランがあった。人員補充は自分たちとは無関係。だから、一気に進んだ。

バブル前の昇任試験の勉強で「東京都は“未曾有の財政危機”なんだから未曾有という漢字を書けるようにしておけ」と講師が言っていたが、 突如として「財政危機なんて書くと、試験に受からないぞ」と言い始めた。そんな急な環境変化だった。
それまでの財政不足の中でも、東京都は古くなった都庁舎の建て替えの資金をわずかずつ積み立てていたが、1年の税収で何棟も建てられるような収入が発生した。
それでも、鈴木都政は職員の数は増やそうとしなかった。高度成長時の職員増が都庁の重い負担になっていたからだと、私は受け止めている。
そして向かった先が、その後“ハコ物行政”と批判されることになる。

都庁は有り余った財源を臨海副都心開発の基金に積んだ。きわめて賢明な選択である。
役所は年度主義というルールに縛られている。4月から翌年3月までに事業は完結させなくてはならない。 ところが税収は毎年一定していない。そこで足りないときは起債という借金をする。反面、余った時はどうしても野放図に使ってしまいがちだ。
それを、取りあえず貯金しておこうというのが基金だった。


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