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東京ビッグサイト誕生秘話

東京ビッグサイト誕生秘話

“秘話”とつけましたが、いわゆる暴露話ではありません。裏方の苦労話です
めったにない大プロジェクトについて、後進の参考にと作りました。
すでに四半世紀が過ぎていますので、記憶違いもあると思います。主観も入っています。

晴海見本市会場の二重管理


時計の針を一気に過去に戻す。面倒くさいと思った方は、この先は読まなくてもよい。そういうことを期待して書いているわけではないから。 (本稿は、時々時間軸を行き来している。あしからず)

昭和29(1954)年、大阪で第1回の日本国際見本市が開催された。
次は東京、ということで、翌平成30(1955)年、東京でも日本国際見本市が開催された。これが大人気だった。さながら万博のようだった。
戦後の傷跡がまだ色濃く残っていた時代、人々は新しい生活を渇望していたのだ。
ならば、これからも継続的に実施しようということになり、翌昭和31(1956)年、(社)東京国際見本市協会(以降“見本市協会)”が設立され、東京国際見本市の実施団体となった。 つまり、東京国際見本市協会は、展示会の主催者として設立されたわけである。
主催者だけでは展示会は実施できない。そこで、会場を管理する者が必要となった。
昭和33(1958)年に(株)東京国際貿易センター(以降、“貿易センター”)が設立された。 東京都は、貿易センターに晴海会場の土地を提供(現物出資)した。 これが晴海の二重管理の始まりとなる。
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▼ 昔は飛行場

当時の晴海見本市会場は、上図のような配置になっていた。
中央にある一直線の通路は、以前、飛行機の滑走路だったという。えらく古いモノクロ写真に、飛行機が駐機されているものが見つかった。 もっとも、実際に飛び立てたのはせいぜい練習機ぐらいだったらしい。 無柱構造の展示館の構造は飛行機の格納庫と同じだから、そんな縁があったのかもしれない。
会場でひときわ目立つ存在だったのが円形の東館である。ドーム館と呼ばれることが多かったが、その形状からガメラ館という愛称もあったとのこと。 ウルトラQのバルンガの回にも映っている。円形の建物を清掃するため、屋上には回転式のキャットウォークも設置されていた。
このドーム館は晴海の一番人気だった。しかし、会場が丸いとブースの配置が難しく、無駄になる面積が出る。そういう意味では、四角いホールの方が優れている。

そして、ドーム館に加えて、西、南、新館が建てられた。ここまでが貿易センターの持ち物である。
貿易センターは、さらに海寄りに高層ビルを作るプランを持っていた。だから社名を「東京国際貿易センター」とした。
しかし、後年、浜松町に高層ビルを建てる計画が立てられ。名前を譲って欲しいと要望された。 持ちかけたのは貿易センターの大株主だったらしい。そのため断りきれず、そちらが「世界貿易センタービル」になったという。

▼ 仮設館が常設化し見本市協会の管理となる

東京国際見本市が開催される際には既存4館では面積が足りない。そこで、東京都ではその都度仮設館を建てて対応していた。しかし、毎回毎回仮設で建てるのでは非効率だ。
そこで常設館を加えることにした、それがA、B、Cの3館である。
しかし、当然のことながら、この3館は利用率が悪い。このため、貿易センターはその受け取りに難色を示した。 貿易センターは株式会社だから、株主の意向も無視できない。収益率を減らすような話には乗れないのだ。
会場図を概観するとよくわかるように、各館は繋がっていない。雨が降ったときには、傘をささなければ隣の館に行けない。 来場者としては、まずは主要4館を見て、時間が余ればついでにA、B、Cに行く、という流れになる。
しかたなく、東京都は、A、B、Cの3館の管理を、主催者団体である見本市協会に委託した。
結果として、会場管理会社としての貿易センター、主催者団体としての見本市協会および会場管理会社としての見本市協会、という3つの団体が晴海会場に存在することになった。

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会場管理は地味な仕事である。「下水が流れない」と言われれば、駆けつけて行って泥だらけになって修繕する。
一方、主催者団体はあか抜けた仕事ができる。場合によっては、外国のVIPと交渉することもある。
しかし、その反面、見本市協会は東京都の外郭団体だ。だから、給料なんかは東京都から干渉を受ける。 貿易センターは民間企業だから、苦労した分だけの恩恵がある。
「見本市協会の職場旅行は国内なのに、貿易センターは外国に行っている」と、協会職員はぼやいた。
このような状況で、両社が協力し合うのには、いささか苦労があった。

最近になって、東京ビッグサイトは東館の奧に仮設館を増設した。
私は、都の担当者に「建設経費を会社(注:(株)東京ビッグサイトが現在の管理会社)に持たせたら、昔の晴海と同じになってしまうよ」とは話したが、 やはりそのようになってしまった。
平成30(2018)年の今も、西館と屋外駐車場部分で増設工事が進んでいる。たぶん、ここも会社側の経費負担となるだろう。
負担するだけの経済力は、今の会社にはあるのだが・・・。歴史は繰り返されるってことだろうか。

▼ 晴海は重量物に強い

旧式の晴海見本市会場だったが、利点がないわけではない。晴海は重量物に強かった。なにせ、地べたにコンクリートを打っただけだったので。
その代わり最新式の展示場にあるような配線用のピット(溝)が無かったので、晴海会場は「通路が障害物競走のようだ」と言われていた。
晴海会場の荷重限界は平米5トン。これは、東京ビッグサイトにも引き継がれた。
実は、重量物に強かったことが、晴海の生き残りにとって重要なポイントとなる。当時は、まったくそんなこと考えられていなかったけれど。

晴海会場には、もう一ついい点があった。遮るものがないので、東京湾の花火大会がたいへんよく見えたことだ。 事務所の屋上に上がって見物したので、怒られた。
今、2020年の東京オリンピックの選手村を建設しているが、きっと選手たちの目を楽しませてくれるだろう(そんな余裕があればだが)。
東京ビッグサイトからは、残念ながら、前のフロンティアビルが障害となって、花火は半月のようにしか見えなかった。


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