前方に見えてまいりましたのが国際展示場です~素人バスガイド
団塊の世代とシンクロする展示会の盛衰
私が晴海の見本市協会に赴任したのは平成6(1994)年4月。晴海で1年、有明で2年間を過ごした。
当時はすでに国際見本市のような総合展は流行らなくなっていて、見本市協会の収入源はグッドリビングショーに移っていた。
展示会は時代を映す鏡のようなもので、その時代時代にもっともニーズのある商品が人気になる。そして、これを支える来場者の中心が団塊の世代だった。
団塊の世代とは、一般的に、昭和22(1947)年から昭和24(1949)年に生まれた人を指す。
はじめてグッドリビングショーが開催されたのは、昭和46(1971)年だから、その頃、団塊の皆さんは20代中頃。
平成6(1994)年も晴海でグッドリビングショーは開催されたが、少し前がピークだったそうだ。この時団塊の皆さんは40代後半。
もう住まいは持っている。
つまり、団塊の世代が関心を失うと、展示会も縮小していくという流れができていた。
ちなみに東京モーターショーがはじめて開かれたのは昭和29(1954)年。このときの会場は日比谷公園だった。
その後、昭和34(1959)年から昭和62(1987)年までは、会場を晴海に移して開催されている。たいへんな混雑だったという話だ。
当時の若者が新しい車に熱中していた姿が目に浮かぶ。
団塊の皆さんは、数において多いだけではなく、モノ不足を子供時代を実際に体験し、その後は競争競争で生き抜いてきた人たちだ。
だから、新しいモノには興味津々だった。
晴海見本市会場のウイークポイントは交通の便にあった。
実際に赴任してみると、月島からはそこそこ歩いていける。しかし、年に1~2回しか行かない来場者は、たいがいバスに乗った。これが混んだ。
行列に長いこと並んで、ギュウギュウに詰められて、やっとの思いで会場に着く。
私はそれが嫌だったので、客として行っていたときは、竹芝から海上バスに乗った。
やっと着いた場内でも、入ると缶詰状態。やっぱり人だらけだ。そして、帰るとき、またバスの列に並ぶ。
協会職員で詰めているとき、ずいぶん苦情電話を受けた。晴海最後のコミックマーケットのときも、長いこと電話対応させられた。
展示場は、周りにいる住民や勤め人にとっては、はた迷惑施設なのだ。
このことは必ず押さえておかなければならない。
とはいえ、苦情の長電話の主は「ほんとうはコミケの仲間に入りたかったんじゃないか」と私にはそんな感じがした。
巡回バスの運転手さんが言っていた。「最後のコミックの時、来場者は皆、『長年ありがとうございました』と礼儀正しく言って帰っていった。
その時になってはじめて、自分は本当に素晴らしい仕事をしてきたのだと実感した。そして、もうこの仕事が無くなるのかと思ったら、寂しかった。
しかし、有明にも巡回バスが走るようになった。またあの人たちを運べると思うとうれしい」と。
いっせいに進んだ東京のフロンティア(臨海)開発
平成6(1994)年、まだ有明は工事現場なので、簡単に見学することはできない。それでも、関係者は事前に見ておきたいという。
ゆりかもめも開業する前だ。
そこで、私たちは都営バスをチャーターして臨海副都心の見学ツアーを何回か実施した(都営バスの貸切料金は意外と安かった)。
木場の警察前の公園で集合し、豊洲、東雲(しののめ)を通って有明の工事現場へ。
会場内を一回りして、青海のテレコムセンターとか、レインボーブリッジなどの臨海副都心を眺めて、木場に戻る。
その間に臨海部の解説を一くだりする。
月島や若洲、晴海をはじめ、このあたりの地名は詩的なものが多い。
ちなみに、有明は朝方明るくなり始めた空にまだ月が残っている様子を示している言葉で東雲と対になっている。
しかし、当時はまだ「江東区有明」はよく知られていなかったため、九州と勘違いされることが多かった。
「有明に転勤が決まった都内の会社員が盛大な壮行会をされてしまった」というような笑い話もあった。
東京ビッグサイトがある有明は、昭和の初めの埋立地で歴史は古い。だから、地盤はそこそこしっかりしている。
大正の関東大震災が発生したとき、東京港の荷揚げ施設がダメージを受けて救援物資が運べなくなった。この反省から、外側にもう一つ荷揚げをする埋立地を作った、という話である。
当然、荷揚げした物資を内地に運ぶ手立てが必要だ。このため、海底トンネルが掘られた。
そのトンネルを、今、りんかい線が走っている。
バスガイドをしながら、建設中の各工事現場で「ここにはこういうものができる」と説明して回った。
「いっせいに工事を進めることによって、効率的な開発を進めています」と説明したら、そばの工事現場の人がボソッと言った。
「いっせいに工事すれば、トラックもいっせいに入ってくるということなんだが・・・」
現場と都の本庁とは感覚のズレがあった。都庁の資料に書かれていたとおり私は説明したのだが、現場では違った。
たしかに都市開発全体を見れば、まとめてやった方が効率的だろう。しかし、集中工事を強いられる現場は厳しい対応を迫られる。
机上のプランと現場の食い違い。その違和感は、この先どんどん大きくなっていくことになる。
当時、臨海部は「東京フロンティア」と呼ばれていた。いかにも開拓地らしいネーミングである。
今でも、台場、有明、青海にある3棟の「フロンティアビル」(都が先行して建てた)の名前にその痕跡が残っている。
あの頃はまだ空き地だらけだった。「フジテレビは本社前でロケができる」というジョークがあった。
今はもうほとんど余白はない。ほんとにこんなに急いで開発してしまってよかったのだろうか。
都心近くに残された最後の空き地だったのに。