晴天の霹靂~本当は青海に建つはずだった
▼ 情報の入り口に“港”は必要なかった
集客施設をどこに作るかは重要なポイントだ。
ゆりかもめはレインボーブリッジを渡り、臨海副都心に入るとお台場で大きく迂回する。そして、さらに大回りして青海へ。
国際展示場の当初計画では、あそこに建つはずだった。資料などに掲載された完成予定図は、テレコムセンターを背にするかたちになっていた。
今は、産業系の研究機関や日本科学未来館などになっている。
それが突如として、東の有明地区に移った。
臨海副都心の開発計画自体が拡大したからだ。有明にも目玉となる施設が必要だった。
大物政治家が動いたという噂がまことしやかに話されたが、地権者もいないことだし、何かの利権が絡んでいたとは考えにくい。
当時はバブルで、イケイケドンドンとみんなが浮かれていたから、拡大路線も当然の成り行きだったと思う。
東京ビッグサイトにとっては、結果オーライだった。
現在のりんかい線国際展示場駅から東京ビッグサイトの入り口までは、直線で500mほど。東京テレポート駅から当初の予定地までは直線で900m、実際に歩く距離は1kmを越えただろう。
ちなみに海浜幕張駅から幕張メッセまでは直線で600mくらいなので、かなり遠く感じたはずだ。
その代わり、ゆりかもめは2つの駅が利用できた。けれど、ゆりかもめの輸送能力だけで展示場の来場者を運ぶのはきつい。
青海の国際展示場は総2階建てになる話だったが、それでも8万㎡の展示面積を確保するのも難しかった。
晴海で開催されていたJIMTOF(日本国際工作機械見本市)のためには8万㎡が必要だと言われていたので、その面積は確保したかったのだ。
JIMTOFの成否は、日本のGNPに影響するとも言われている。
今やっているような施設の増設もできなかっただろう。
東京テレポート計画で、東京都は一つ、目算の誤りをしていた。
船には港(ポート)、飛行機には空港(エアポート)があるように、情報にも出入り口がある。その考え方で想定されたのが、東京テレポートだった。
テレコムセンターは東京テレポートのシンボルなので、門の形にデザインされている。
そして、情報の集約点に企業を誘致すれば、その企業はビジネス上で有利になる、と考えられていた。
だが、情報というものは違った。その後、あれよあれよという間に、インターネットが一般家庭に普及した。
数年のうちにそんな近未来が来ると予測する東京都職員はいなかった。
都庁は、先端技術には疎かったのだ。たぶん、それまでの財政危機も原因の一つだろう。
ワープロを使うにも順番待ち状態だったし、若い人も採用されなかったので新しい空気が入らなかった。
石原都政の初期に、知事が「都庁の情報セキュリティは大丈夫か」と職員に問うた時、「都庁は電子都庁どころか原始都庁ですから大丈夫」と答えて、
逆に怒られたという話もある。
青天の霹靂で国際展示場の建設位置は変わったが、その時すでに道路計画とゆりかもめの車両基地の設置が決定済だった。
このため、国際展示場は西と東に泣き別れすることになってしまった。このことはひじょうに残念だ。
ゆりかもめの引き込み線の下をくぐる形で、東西の渡り廊下が設置されている。
そして、時を同じくして、世界都市博の計画が発表された。国際展示場はそのメイン会場になることになった。
したがって、国際展示場は見本市会場になる前に、“世界都市博覧会”の会場になる。
このことは、予算がふんだんに投入されるという良い面もあったが、展示場運営にとって大きな荷物をしょわされることにもなった。
そして、まさかの都市博中止だが、この話は後回しにする。
▼ 出島のような準備室
この頃、もう一つ大きな予想外が起こった。
東京国際展示場の運営母体が(社)東京国際見本市協会に決まったのだ。これも突然の判断だったと聞いている。
多くの人は、晴海での実績から(株)東京国際貿易センターが、当然に新しい展示場の運営団体になると思っていた。
貿易センター自身もそう思っていただろう。
国際展示場の建設費用は1,900億円。土地は東京都の所有物だが、土地代を入れると3,000億円近くになるだろうと見積もられていた。
これだけの施設を無償貸与する。その貸与先が民間企業で良いのか、というのがその理由だったらしい。上層部の判断だと思われる。実務的な立場からは、こんな冒険はできない。
見本市協会にとってはたいへん名誉なことだし、断る理由も無い。しかし、個々の職員にしてみれば、そんなたいへんな仕事に係わるのは嫌だ。
晴海会場のA、B、Cの3館の運営をしていると言ったって、実際は貿易センターに任せる部分も多かった。だから、見本市協会には会場運営のノウハウが不足していた。
主催者団体だったから、出展社の誘致はやってきたが、他の展示会の誘致などしたこともなかった。
みんなが「とても無理だ」と思っていたが、誰も言い出せなかった。
そこで、東京都から職員が現地に派遣されることになった。また、貿易センターからも出向という形で見本市協会に社員が派遣された。
当時の陣容は、国際展示場開設準備室(都派遣4、協会2)、営業課(貿易センター1、協会3)、技術担当(協会2、都派遣2、貿易センター2)。
協会の職員は、ほとんどが若手だった。
その後、営業課と技術担当には新採が増員されるが、いずれにせよ古手の見本市協会の職員の多くは国際展示場の開設業務から距離を置いており、
見本市協会の内部にありながら、かなり部分は見本市協会以外の職員で構成されるという変則的な組織となった。
たぶん、長年見本市事業に携わってきたスタッフから見れば、私たちは自分たちから仕事を取り上げるために来た侵略者のように見えたことだろう。
そして、そのエイリアンの1人として、開設準備室に私が派遣されたのである。