役人らしからぬ役人たち
国際展示場ほどのプロジェクトとなると、通常のお役人がやったのでは頭が固すぎて仕事が前に進まない。
本稿で私は、あたかもすべて自分がやった仕事のように話を作っているが、実のところ、そういう個性豊かな上司のみなさんの指示を、
できるだけ忠実にトレースしてきただけだ。
こういう方々が、物事のオモテに出てくることは少ない。また、たいへんな苦労をしていながら、自分の業績を語りたがらない。
そのようなことには関心が無い。
だから、記録を残しておきたい。
▼ 棟梁
東京国際展示場の基本的なプランは基本構想懇談会で作ったのだが、それを受けて運用計画を具体化させたのは、K係長という人だった。
この人は、昔あった都庁の出張所(北海道と九州にあったがそのどちらか)に赴任されていた経歴があるとのこと。
赴任先で余暇を利用して、自力でログハウスを作ってしまった、という武勇伝を聞いた。「何かを作る」のが仕事抜きで好きだったのだろう。
風貌も“大工の棟梁”風で、べらんめい調。
本当は展示場が仕上がるまで面倒を見たかったはずだが、私の1年目で人事異動となった。
▼ 鉄砲玉
この流れを受けたのが、上司のM室長である。“悪ガキ”がそのまんまおじさんになったようなタイプ。
現場たたき上げ課長である。
伊豆諸島を東京愛らんどシャトルというヘリが巡航しているが、それを立ち上げた。
「愛らんどなんだから」と言って、格納庫をピンク色にさせたという話である。
都庁移転の際、壁が白くて目がちかちかするという苦情があったので、手配して観賞植物を配置した。そのとき、自分で樹木を運んだそうだ。
掃除のおじさんから出入り業者と間違われて「たいへんだねぇ」と声をかけられた。
そして、週明けに通常勤務に戻ったとき、背広を着ていると、そのおじさんから「ちゃぁんとした服装もするんだ」と驚かれたという。
アイデアマンなので、突然に何か思いつくと、そっちの方向へ走り出す。だから、私は腰巾着としていつも同行していないと、仕事の中身がわからなくなる。
晴海時代にサリン事件があった。そんなことからか、M室長と私は、協会の職員から「アサハラとジョウユウ」と呼ばれていたらしい。
最初は晴海と有明の間を車で行き来することが多かったのだが、運転は室長にお願いした(私は免許を持っていない)。
「いつもすみませんねぇ」というと、「運転が好きだからいいんだよ」と言った。
M室長はコルドンブルーというレストランの社長と懇意で、そこからホテル経営のノウハウなどを入手していたらしい。
子会社を作る際には、東京タワーの売店を仕切っている会社の社長を引き抜いたりもした。豪腕である。
ヘビースモーカーで、いつもゲホゲホしていた。とうとう医者から入院指示がでたが、
その折「2週間入院しろと言われたので来たから、2週間分だけ直してくれ」と担当医に命じたということだ。
実際、それくらいで退院してきたが、それでも「私が頼んだより入院が長い」と不平を言った。
東京ビッグサイトが立ち上がった後、某テレビ局から新ドラマとのタイアップの提案があった。
香取慎吾が主役で、ベトナムの青年を演じた。
青年が学んでいるのが建築で、東京ビッグサイトを見て感動するという話になるという。
もちろん、局側が求めているのは製作費の援助だ。
ちょうどそのタイミングでM室長が入院することになった。室長の指示は「最初は断れ、だけど、最後は受け入れてやれ」だった。
しかし、その頃には私は広報担当からはずれていたし、公費以外の経費に口出しする立場でもなかった。いつの間にかこの話は無かったことになっていた。
エントランスにカラクリ時計を置くという。何年か経つうちに動かなくなって今では撤去されているが、定時が来ると天使が現れて曲が流れるというものだった。
あの頃はまだ有楽町マリオンのカラクリ時計が人気で、それにあやかったものだ。室長はそういうものが特にお気に入りだった。
▼ 内部から酷評だった“初日の出を見る会”
工事中、M室長は「屋上を開放したい」と言い出した。
当初の設計では、屋上に来場者を出すことは考えられていなかった。出す以上、手すりなどが必要だ。手戻り工事が生じた。
屋上からは臨海部が一望できた。なかなかの眺めだ。私たちは臨海部の利用促進にも協力しなければいけなかったので、屋上開放はそれにずいぶん役立ったと思う。
しかし、臨海部は風が強い。強風が吹くと、さすがに屋上はあぶない。このため、常時、警備員が警戒していて、強風だと閉めるようにした。
雑誌の取材がM室長にあった。私はその場にいなかったが、対談の流れの中で「会議棟の上からの眺めがきれいだ。初日の出でも見たら、きっと素晴らしいでしょうね」という話題になり、
室長も乗り気になってしまった。その企画が、そのまま雑誌に掲載された。
突然、私は見本市協会の職員に取り囲まれた。
「あんたたち役所の人間は、2年か3年ここに居て、都庁に帰ればそれで終わると思っている。この先ずっと正月を取り上げられるオレたちの身にもなってみろ」と糾弾された。
たしかに、言われてみればそのとおりだ。室長も「ちょっと早まったな」とは言っていた。
そんなことはあったが、「東京ビッグサイトで初日の出を見る会」は始まった。
私は始めた責任もあるので、毎年、これに出た。7~8年も続いただろうか。「今年で最後」となるときまで出席し、寒い中震えながら日の出を待った。
ちなみに、東京ビッグサイトの屋上からは、海から上がる初日の出は見えない。千葉県が手前で邪魔をしている。
幸いなことに、私が屋上に上がった元旦は、一度も雨は降らなかった。
今では、屋上緑化されて、屋上に出ることも禁じられてしまった。
臨海部には観覧車もできたので、そちらからの眺めで十分だともいえる。
▼ 役人の鏡
そのころ人事異動で、都からは若手の幹部候補生がやってきて、私に代わって広報担当になった。
そのちょっと前だが、民間の玩具メーカーが私のところに来て「新しいおもちゃに東京ビッグサイトの外観を使いたい」という依頼があった。
私は「どうぞ、どんどん使ってください」ということで交渉を進めていたのだが、幹部候補生氏ははあっさりこの話を断った。
「了解なしに勝手なことをするな」ということだった。
でも、その玩具メーカーだって、東京おもちゃショーの出展社なんだよね。お客のお客は、自分たちにとってもお客だと、私は思う。
それに、公費を使って関係誌に東京ビッグサイトの広告記事を載せているのに、その会社はタダでPRをやってくれると言っているんだよね。
だが、それを断るのが役人としては正論。だから、私は役人が嫌いだ。
それから、本庁の方々に申し上げたいのだが、「モーターショーの切符、何枚か調達できない?」と頼むのも、現場ではひんしゅくを買うことになる。
「都庁の職員は“乞食”か!」と罵られた。やめてもらいたい。
加えてお願いする。展示会の出展準備1日前に荷物を送ってきて、「悪いけど預かっててよ」と頼むのも困る。
もちろん「これから打ち上げに行くので、明日取りに行くからそれまで荷物を預かっててよ」というのは、言語道断。
一般の出展社は、規則やマナーを守っている。
こういう礼を失したお願いがどう見られているか、考えてもらいたい。
「何だったら保管のための部屋代、頂戴してもいいんだけど」と、私は嫌味を言われた。
もっともこういう話は四半世紀前の事、だから、今はそんな横暴なことを言う職員はいないと思う。
役所では、力の強い者が弱い者にワガママを言う。そしてその弱い者はもっと弱い者にワガママを言う。そういう構造で成り立っていた。
行政財産としての貸し会場は、その中でも弱い部類に入るので、役人に対しいろいろな便宜を図ってきた。
その代わり、採算性や稼働率は問われなかった。稼働率が低いほど便宜を図るのも楽なので、現場もそれを指導する役所も、その方が利便性が高かった。
そうした非常識な因襲が、今から四半世紀前だと、普通財産として歩き始めた東京ビッグサイトに、当たり前のように持ち込まれた。
同じ東京都職員として、とても恥ずかしかった。
展示会場に「毒ガスを仕掛ける」という脅迫ファックスが届いた(本気ならファックスでは送らない。発信元がわかるし)。
イタズラだとは思ったが、取りあえず警備を強化することになった。
日曜日だったので、幹部候補生氏にも打診があったが「勉強会があるから出社できない」と、あっさり断った。
しかも、人事異動で都から派遣されてきたばかりの彼の上司もしっかり休みを取った。
申しわけないんで、私が代理で出社することになったが、「いったい都庁の人間って、どういう考え方をしているんだ!」と、代わりに怒られた。
出勤すると、排気口の前で立っていろと言われた。
「ここで何をすればいいの?」と聞くと、「何かあったとき最初に倒れるのはあなただから、それでわかる」と言われた。
係長級の下っぱだったので何かにつけて私がどやされたが、正直なところ、現場の言い分の方が正しい。
しばらくしてから、営業課長が私に耳打ちした。「わりぃな。オレも部下の手前、ああいう風に言わざるをえんのだよ」
▼ 隠密
幕張メッセにもK氏という風変わりな幹部職員がいた。
K氏は、地元新聞に「幕張メッセのここが不便」という苦情を投書する。新聞社も投書の主がメッセの幹部だと知ったうえで、この投書を掲載する。
そして、それが議会で取り上げる。「こういう苦情が来ているが、いかがか」と質問する議員も、受ける千葉県幹部も、投書したのがK氏だと知っている。
そして、前向きな答弁が引き出され、幕張メッセに予算が付く。
役所の仕事をしていると、「下から持ち上げるか、上から落とすか」という符丁が使われることがある。
新しい予算をつけてもらいたくても、それを担当レベルから要求すると、担当課、担当部、統括部門、査定部門と持ち上がるうちに切られてしまうことが多い。
そんなときは、別の所から働きかけて「上から落とす」方が確度が上がる。
もちろん意図的にそんなことをやるのは、フェアーではないのだが、らちがあかないのでK氏はそんな手法を使ったのだろう。
平時はともかく、大プロジェクトを力わざで立ち上げるには、こういう個性的な人間がどうしても必要だ。
しかし、そういうやり方が、だんだん流行らない時代になっていった。
都庁の職員は、仕事でどんなにがんばっても、急に給料が上がったりしない。
「よくがんばんばってくれた。ありがとう」とひと言褒められておしまいだ。
上昇志向のある職員が試験に受かると偉くなれるが、そうでない者にとっては関係ない。
かつて強かった労働組合が「何でも平等」を広めてしまい、職制がそれに乗っかってしまったので、職員同士に差がつかない。
そこへもってきて、目標管理制度が導入された。
本来、公務員の最終目標は、住民の方がちょっとでも幸せになるために役に立つことであるはずだ。
しかし、いつの間にか、組織の目標のために仕事をし、その実現を図ること自体が目標になってしまった。
組織の決めた手順に則ることが最優先、それが原因で結果が得られなくてもしかたがない。
そういう風土では、イレギュラーは嫌われる。
だから、この先、こんな風変わりな役人は生まれてこないだろう。