実際に地震に遭遇しないと、人の行動はわからない
▼ 宙に浮く階段
晴海勤務時代の、平成7(1995)年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生した。
私が晴海の事務所に着いたときには、職場ではすでに騒ぎになっていた。テレビのニュースに皆、注目していた。
実は、その少しあとに、都庁の担当が財務局と合同で神戸の臨海開発を視察する予定だった。
「よくがんばった、ごくろうさん」という慰労の出張だ。
経費は見本市協会の負担になっていた。こういうのを外郭団体は「都庁の財布代わりに使われる」と呼んでいる。今はさすがにそういうことはなくなったと思う(そう信じたい)。
突然の災害で“ごくろうさん”どころではない。私は、すぐに都庁に電話を入れた。
「関西で地震があったことは知ってますよね」「聞いてる」「あれじゃ、出張なんてできませんよ」
「なんで?」「新幹線の桁が落ちてます」「新幹線がダメだって関空があるじゃないか。飛行機で行けばいい」「テレビつけてみてくださいよ~」
早朝の時点では、都庁内部はこのくらいの危機意識しかなかった。丸の内の頃の方が、反応は機敏だったように思える。
見本市協会には世界各国から「大丈夫か?」というメールがたくさん届いた。外国から見れば、東京も大阪も隣同士のようなものなんだろう。
結局、予定された出張は実施された。財務局の技術陣が「何としても現地を見てみたい」と主張したからだ。
このため、陸路で被災状況を確認しながら、神戸に向かうことになった。“ごくろうさん”が強行軍に変貌した。
この辺は、技術屋の面目躍如と評価したい。
後日、報告書に添付された写真には、神戸で液状化が多発し、展示場や会議場の階段が宙に浮いている様子がたくさん掲載されていた。
地中に高床式で建てられた建物なので、地盤が液状化で下がるとこのようになる。
臨海部だと、こんなことが起こるのか。想像以上の状況だった。だけど、建物自体の被害は少なかった。
▼ 会場ができるのはパニックの防止くらい
ワンテンポ遅れたが、都庁内でも阪神の地震は大きな問題として取り上げられた。
「今日の議会で質問が出る。国際展示場は防災マニュアルを作る、と答弁するぞ。あなたの仕事だ」と電話が入った。
そんなこの言われたって、技術者でもない私が防災マニュアルなんて作れるはずはない。
取りあえず、何か作らなくてはならないので、資料を集め、ワープロを打ち始めたが、すぐに行き詰まった。
途方に暮れていた頃に、都庁から「もういいよ」と連絡が入った。
都庁が「いいよ」と言ったからといって、施設側としてそういうものが無くていいはずがない。
その後、インテックス大阪をはじめとした展示会場が集い、震災対策会議が開かれた(残念ながら、私は同席していない)。
こういう場合は、ライバル施設でも協力しあう。
各会場の認識は一致していた。
-
災害発生時は、何もできない。だから、災害に強い構造の展示場を作るしかない。
-
災害発生時に生じるパニックによって二次災害が起こらないようにすることが、取り得る最善の策である。
今なら、これに加えて、「帰宅困難者にどう対処するか」という項目を追加する必要があると思われる。
当時の都庁は「帰宅できない人をどうするか」という課題をあまり意識していなかった。
だから、災害訓練の中で職員を徒歩で登庁させる、ということをやっていた。
私も3回参加し、1時間半ほど歩いて登庁させられた。朝早く自宅に電話があり在宅を確認されてからトボトボ歩いた。「アホか!」と思った。
大地震があれば途中に道はきわめて危険になる。平時とはまったく違う。単に歩いて来られるという基準で職員を指名し都庁に集めたって、何をしていいかわからない。
集まった職員の衣食住だって余計な負担になる。何も考えていない。ただの精神論だ。
今はもう、こんな訓練はやっていない。
当時、地震予知連絡会というのがあって、数秒後でも数分後でも数日内でもいいから地震の発生が予知できれば発表する、という政府の方針があった。
私たちにとって課題となったのは、その「地震予知の発表」があった場合、どうやって場内の来場者に伝えるかだ。
国際展示場はガラス屋根になっている部分が多いので、「あと〇秒後に地震が発生します」なんて放送を入れたら、それこそパニックになって負傷者が続出する。
いったいどうすりゃいいんだ、と考えあぐねているうちに、国は「地震予知の公表はやめる」という方針になった。
発表によるパニック被害、発表による経済的被害、
そして何より、発表して実際には地震が発生しなかった場合の損害賠償請求などを考えてのことだろう。
そんなこんなで、緊急対応は沙汰止みになった。とはいえ、教訓は生きている。
まず第一に、パニックを防ぐためには職員が先んじて対応体制を作る必要がある。
そのためには、来場者にはわからないが、職員にだけはわかるような方法で緊急事態を知らせる必要がある。
第二に、人は緊急事態になると、当たり前のこともわからなくなってしまう。したがって、厚い非常用マニュアルを備え付けても役に立たない。
壁に、「火災発生時は119番!」と書いた紙を貼っておいた方が役立つ。消防署が119番だってことも、パニクるとわからなくなってしまうのだ。
地震の後、有明の展示場の見学を引率していると、毎度毎度、参加者から質問を受けた。
「あの会議棟ですが、あんな形をしていて、地震には大丈夫なんでしょうか?」
建築関係者の話では「あの逆三角形の建物は、揺れても“やじろべい”のように、それを減殺するからむしろ安全」なのだという。ホントかいな。
震災の対応が落ち着いた頃、技術担当の若手職員S君が、休暇を取って阪神を見に行きたいと言ってきた。
帰ってきてから聞いた話では、阪神大震災の火災の際には、逃げられるのに逃げないで亡くなった高齢者が何人もいた、ということだ。
そうした人々の思い、今の歳になると私にもわかる。
S君は「人生観が変わった」と言った。それから、数か月して、彼は見本市協会を退職した。
補足:数年前、防災の展示会で偶然S君と出会った。親の商店を継いで、元気にやっているという。安心した。
▼ 福島の地震のとき、ホール内は予想以上に冷静だった
そして年月が経って、平成23(2011)年3月11日午後2時46分、東日本大震災が起こった。
その時、東京ビッグサイトでは、照明関係の展示会が開かれていた。だから展示物は揺れた。その状況はYouTubeなどにも流れた。
しかし、出展社や来場者はいたって冷静だった。「なんだ、なんだ」ってうちに、揺れが収まった。
どうしていいかわからないまま途方に暮れていたのかもしれないが、ともかくも、パニックなどはまったく起こらなかった。
その後も淡々と展示会が続いていた。
小さい部屋が大きく揺れて家具がガタガタすれば人はパニックになるが、外を歩いているときにはかなり大きな地震でもすぐに気づかないことがある。
大きな展示ホールの中にいると、地震が来ても人はそれほど動じないのだな、と感服した次第である。
ホールの境目にあるスライディングウォールの金具が外れて落下したが、けが人はいなかった。敷地内の液状化も予想通りまったく起こらなかった。
実際に地震に遭遇して、地震に強い会場だということが、立証された。
とはいえ、帰宅は大変だったと思う。
▼ 風の強さを侮ってはいけない
災害は地震ばかりではない、台風もある。
東京ビッグサイトの開業年にも台風の直撃があった。
搬入出口のシャッターは「伊勢湾台風にも耐える」というふれこみだったが、このときは強風で煽られて、はずれそうになった。
警備要員が大挙してその前に立ち、人力で必死に押さえ、事なきを得た。もちろんこれを作った会社は「何が伊勢湾台風だ!」と怒られた。
当然だが、その後、かなり頑丈なものに付け替えられている。以来、台風で被害が出たという話は聞かない。
災害というほどのことではないが、雨漏りがしたことがある。
開業直前の冬だ。東京に大雪が降った。
私たちは有明事務所に出勤していたが、ゆりかもめが止まって帰れなくなった。
ゆりかもめにとっても大雪は最初の経験で、雪を排除する装置はそろっていたが、融雪剤を買うのを忘れていた、という話だ。
翌日、エントランスに雨漏りを発見した。
東京ビッグサイトはガラスを多用している、しかも、地震に強い設計になっている。
躯体とガラスがガッチリ組み合わされていると、地震が来たときにガラスが割れる。
これを防ぐために、若干の緩みを残してある。
もちろん、雨でそこから水が漏るということはない。しかし、雪が底上げしていたために解けた水がシーリングを越えて会場内に漏れたということだ。
こうなってくると、どちらを優先させるかということになるが、やはり、雨漏りより人命になるだろう。