まさかの都市博中止
▼ 青島だぁ
東京ビッグサイトの建設は、予定どおり平成7(1995)年10月16日に竣工した。
会場としての幕開けは、世界都市博覧会によって盛大に行われることになっていた。
世界都市博は、平成8(1996)年3月24日から同年10月13日までの204日間を予定していた。
しかし、平成7(1995)年4月9日に行われた東京都知事選挙で、青島幸男氏が当選した。
青島氏は「世界都市博の中止」を公約としており、都の幹部は青島知事を臨海部の建設現場に案内し、都市博の開催を強く求めた。
青島知事も心を動かされた様子だったが、結局のところ、5月31日に中止が決定した。
声を上げて抗議する関係者はそんなに多くはなかった(さすがに紳士たちだと思った)。しかし、携わっていた者にとって、新知事は単なる「意地悪じいさんだ」だった。
知事が替わると、一通りの職場巡りをする。臨海副都心建設のセクションでは、多くの職員が知事の来訪に背を向けていた、と聞く。
心を病んで職場に行けなくなった者も一人や二人じゃない、というウワサだった。
世界都市博の開催を推進したのは、鈴木前知事である。
鈴木知事は、地方自治法を作った人である。地方自治を目指した人なら「理想的な都市を創ろう」と考えるのは当然の成り行きであろう。
しかし、すでに80代半ばにさしかかり、さすがにお年寄りという感じにはなっていた。
私自身、歳を取ってよくわかるのだが、昨日のことは忘れても、20年、30年前のことは昨日のように覚えている。
鈴木知事は、堺屋太一氏と組んで、事前の下馬評では「失敗」とされていた昭和45(1970)年の万国博覧会を大成功に導いた。
だから「夢をもう一度」という心境だったことだろう。
小物の私のような人間が、こんなこと言うこと自体、たいへん恐れ多いのだが・・・。
それに、都市開発前にイベントを一つぶち上げて起爆剤にする、というのは、ごく一般的に行われることだった。
提携先のお台場のホテルが開業延期になった。
ホテルの幹部が見本市協会にお詫びにきた。「皆さんには恨みはない。けれども、もう私は東京都の言っていることが信用できないのです」と語った。
▼ 官製イベントはリスクが大きい
世界都市博が開催されていたとして、それがイベントとして成功したかというと、私も疑問に思う。
実は「TAMAライフ21」という催しが、平成5(1993)年4月25日から11月7日まで開催された。
多摩地域の東京編入100周年を記念した事業で、職員は“たまヒャク”と呼んでいた(多摩はその昔、神奈川県だった)。
これがひどい状況だった。私が休暇を取って行こうとしていると、職場の先輩が言った。「待ってろ、そのうち職員は必ず行けと、業務命令が出るから」
まさかと思ったが、数日後に本当にそういう指示が出た。
平日に行ったら、まるで真冬の遊園地のような状況で、来場者よりもスタッフの方が多いんじゃないかと思えるような有様だった。
そもそも官製のイベントが、そんなに面白いはずはない。
都市博の集客力が不安だという話が出た頃、スペースシャトルの「エンデバー」の実物を持ち込むという案も浮上した。
さすがに、そんなに大きなものは搬入できない。都市博担当は、できたばかりの桟橋や建物を壊してでも持ち込むと言った。
いくらなんでも、それは行き過ぎだ。
とはいえ、多くの人はつぶやいていた。「都市博は失敗だったかもしれないが、ここまで来て止めることはないじゃないか・・・」
お台場から東京テレポートの方向へ大きなペデストリアンデッキが続いている。あの端に世界都市博のメインゲートができる予定だった。
当時、このゲートは基礎が完成し、すでに鉄骨の枠組みができあがっていた。
このゲート付近から東京ビッグサイトまで、ロープウェイで結ぶ計画があった。
ゆりかもめから東京ビッグサイトに行く渡り廊下の途中の庭に、ロープウェイ駅の基礎が今でも眠っている。
▼ 役人のタテマエ優先が、理想な都市なのか?
青島知事就任で、都市博はやるかやらないかわからなくなってしまったが、準備だけは進んでいた。
都市博の運営会議があり、会場の清掃は誰がどの部分を担当するか、という打合せがあった。
都市博会場では8種類のゴミ箱が設置される予定だった。だが、臨海部は地下にゴミの収集管路があって生ゴミはここに投入される。
その他、産業廃棄物は出るが、一般客が捨てるゴミって、生ゴミ、燃えないゴミと、せいぜい再生して活かされるペットボトル、雑誌類で4つぐらいだ。
8種類も区別して捨てる必要はない。
清掃担当に質問すると、「理想的な都市を作るための実験ですから・・・」ということだった。
「行政のタテマエのために何も知らない一般人に余計な仕事をさせる」、いかにも役人の考えそうなことだ。
話はそれるが、清掃関係で、東京都はちょっとした失敗をしていた。
(1)清掃工場の焼却炉の性能が悪くて、高い熱が発生すると炉が傷む。
(2)国産の炉は性能が良かったが、東京都は外国製の炉を使っていた。理由は「国産焼却炉を入れた前例がないから」。
(3)焼却炉で発生する熱を減らすために、炭酸カルシウム入りのゴミ袋を推奨した。
(4)炭カル入りゴミ袋は、中が透けてみえる。
(5)カラスにとっては、格好の餌場になり、都会にカラスが増えた。
実際のところ、本当のところはわからない「風が吹けば桶屋が儲かる」的な話だが、何か信憑性を感じる。
当時、「炭カル」の普及のために、清掃局長がタスキをかけて街中を練り歩いた。まるで「裸の王様」のようだった。
ちなみに、東京都清掃局は、今はない。
▼ 本当の被害者は誰?
そんな清掃の会議が終わって見本市協会に帰ると、「都市博が中止に決まった」と伝えられた。
「やると決めれば、あと少しで始められる」という段階で、世界都市博は中止になったのだ。
都市博開催のために集められていた職員は、蜘蛛の子を散らすように別の職場に異動していった。
見本市協会も、将来の副知事候補と評判だったN総務部長が引き上げられた(N部長は副知事にこそならなかったけど、産業労働局長まで行き、私もうんと下の部下として働いた)
都市博中止の損害賠償は、大手の広告代理店に支払われたはずである。
しかし、その下にはたくさんの取引先がいる。多くは中小企業だ。そういう会社は、先行投資して自社商品を大手に売り込む。
「どうです、この“東京大使”のマスコット人形、取り扱ってもらえないでしょうか・・・」という感じで。
そういう会社には、損害賠償金は支払われない。大手に泣きついたって「あなたの会社で勝手に作っただけじゃないか。うちじゃ注文した覚えはないよ」
と言われてしまって、それまでになる。
実際、経営が行き詰まるのは、こうした企業だ。
何社か潰れたんじゃないかというウワサがあったが、本当のところは私たちにもわからない。
都市博が開催されている半年あまりの期間、(株)東京国際貿易センターは通常どおり晴海の見本市会場で展示会を開催する予定だった。
東京ビッグサイトでは、見本市協会の下貿易センターが会場運営を行うことが決まっていたから、晴海・有明の双方から収益が得られることになる。
しかし、いきなり有明側の会場が空白になってしまった。
都市博中止後、私は上司のM室長と毎晩のように有楽町のガード下で飲みながら、論議した。
「空いてしまったビッグサイトがもったいないから、開業を早めろと都庁は言ってくるんじゃありませんか?」
「そんなの無理」、室長は、私の心配をきっぱり否定した。
博覧会と展示会は、何となく似ているように思われがちだが、運用の仕方はまったく違う。
博覧会は大がかりなので、会場のしつらえに何か月もかかる。始まったら事故が起こらないようオペレーションするだけだ。
しかし、展示会は2日で準備をし3日間開催し、その日のうちにかたづけて、次の主催者が入る。回転の良さが命。
ホテルでもそうだが、新しい館が誕生すると、まずはオープニング式典をし、しばらくしてグランドオープンを大々的にやる。
初期の段階で、いろいろな不具合が発生するからである。
一発勝負の展示会ではそんなミスは許されない。それを、いきなりやれと言うのは・・・。
東京ビッグサイトは大きな会場であると同時に、晴海では経験したことのない設備がたくさん配置されていた。
このため、世界都市博の中で小さな不具合がたくさん発生するのではと心配されたのだ(実際、会議室のマイクが入らないといったことが起こった)。
その修復を行って、完全な形にしてから「展示会場としてのオープン」をさせようとというのが、私たちの目論見だった。
展示場としてのオープンが前倒しされると、すべてが私たちにのしかかってしまう。
しかも、準備期間が短くなる。
現実的には無理でも、都庁は机の上だけで物事を考えている。しかも、いいかっこしたがる。
その成り行きで「開業を早めて、施設活用を図る」と勝手に言う人間が出るのではないか。
私は、ひじょうに不安だった。
そして、その心配が現実のものになった。