都市博の置き土産
▼ やめろっと言われても、今では遅すぎる!
かくして、東京ビッグサイトは、平成8(1996)年4月1日、正式オープンした。
最初のイベントは、東京国際木工展と、東京国際モーターサイクルショーである。
世界都市博の中止が決まると、その実施部隊だった(財)東京フロンティア協会も大きくパワーダウンした。職員は大挙して都庁に引き上げられた。
しかし、都市博そのものが中止になっても、そこで行われるはずのイベントで今さら中止できないものが、いくつも残っていた。
「この先は、見本市協会でよろしく頼む」ということである。
こちらは前倒し開業で無茶苦茶忙しい、その上、他人の仕事まで押しつけられた。
私たちは、これらのイベントを“都市博の残党”と呼んだ。
晴海で予定されていた展示会をすべて東京ビッグサイトに移転させると、単純計算で稼働率は39%にしかならなかった。
もちろんこれでは赤字。しかしそれは単純に計算すればという机上のものであって、展示会には波がある。全館必要なときは全館使う。
ここで、博覧会と展示会の違いが、衝突することになった。
ポップストックというのは、一連のコンサートである。久保田利伸のコンサートなども行われ、東のホール1つがこれのために独占された。
だが、全期間べたで押さえられたのではなかったし、それほど問題はない。
むしろコンサートの担当からは「展示場なので心配してたけど、わりと音響はよいのですね」とお褒めの言葉をいただいた。
シネマアベニューというのあった。ユニバーサルスタジオジャパンが大阪に開業するのは平成13(2001)年3月31日。
たぶん、そのトライアルイベント的なものだったのだろう。
私も映画好きだから、映画のセットの中を歩くというのは好きだ。シネマアベニューの入館直後に体験する宇宙遊泳のような部屋にも驚かされた。
しかし、そうは言っても、何回も何回も経験できてうれしい、というほどのものではない。
そこへ東京ビッグサイトの見学客を連れて、何回も何回も訪問した。でも、それよりもつらいのは、このために2ホールがベタで独占されたことだ。
そうした中で、コミックマーケットが開催された。こっちは10万人規模だ。
都市博イベント担当から「迷惑だ」というクレームが来た。営業課長から「綱を張って、ウチの客がそっちに行かないようにしろ!」と指示が飛んだ。
結果、どうなったかというと、コミケは盛り上がりに盛り上り、臨海イベントは閑古鳥が鳴いた。
後で都市博担当から「言い過ぎた」と謝りがあった。実力の差がありすぎた。
コミケの最中に、新聞社の青年の主張の大会が会議棟であった。
参加した学生たちは、コミケを見て「こういう世界があることを初めて知った」と言って帰ったとのこと。
その後、どういう人間に成長したことだろう・・・。
▼ 栄光は誰の手に
有明コロシアム(都市博関係者は“アリコロさん”と呼んでいたが、ちょっと失礼だ)で、世界テニスの大会があった。
突然、室長から呼ばれ、「三越の出入り業者が来るから、優勝者に渡す楯のデザインを選んでくれ」と言われた。「え! オレでいいんですか」「そうだよ」
テニス大会は「世界都市博記念」として行われるはずだったが、いつの間にか「東京国際展示場オープン記念」にされていた。
私は、竹をデザインした楯を選んだ。
実は、その年の正月、東京ビッグサイトの玄関先に、門松が飾られた。
門松には大きな竹があしらわれていた。58mの会議棟の元では小さく見えてしまったのだが、そのことが記憶に残っていた。
今後、どんどん成長してもらいたい、という思いを込めて、私は「竹」を選んだ。
その大会、結果的に伊達公子さんが優勝した。
捨てられていなければ、伊達さんがその楯を持っているはずだ。
見本市協会の事務局長から、優勝楯の授与があった。
だが、私は滅茶苦茶忙しかったので、その大会をまったく見ていない。
▼ 偶然のめぐり会い
その後、「都市博開催時に、臨海副都心線の国際展示場と東京ビッグサイトの間に、“動く歩道”をつける予定がある。その後の管理を請け負ってもらえるなら、譲ってもいい」
という話が来た。
その後の管理ということは、管理に必要な経費が見本市協会が払うということになる。すでに先が見通せなくなっていたので、こちらは断った。
「動く歩道を作るくらいなら、あそこに屋根がほしい」と言った。
かなりの何年がかかかったが、屋根は設置された。
その後、まったく別の仕事で、都内のS建設会社と話を交わすことがあった。話題が臨海開発に移った。
その時に初めて知ったのだが、あの“動く歩道”の設置を受託されたのが、偶然にもその建設会社。
臨海での設置が破談となった後、件の“動く歩道”は、新宿と都庁を結ぶ地下通路に設置されたのだという。
私たちは2人とも、「その方がよかったですねー」と、意見が一致した。