自分以前史(1)(明治~戦前)
うたかたの栄華

平成15年の転居の際、自宅に古い戸籍謄本(昭和35年発行)が残っているのを発見した。
これが、我が家の一番古い記録である。

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私の母方の祖父(貞吉。ゆえあって当家は母方である。理由は後述)は、明治32年9月10日、富山県高岡市金屋町で出生した。父又次郎、母きいの次男坊だった。
父親は昭和2年3月30日、母親は昭和9年10月7日に没している。私に曾祖父の記憶はない。

祖母(のゑ)は、明治22年11月15日、富山県高岡市の石堤というところで、尾崎清次郎・いよの五女として生まれている。祖父よりは10歳年上女房だった。

二人の婚姻届は、大正10年5月24日に届けられている。夫21歳、妻31歳だった。年上女房だ。
実は、祖母は祖父の兄嫁だった。前夫は満州へ鉄道建設へ出かけて行き、そこで亡くなったという話だが、詳細は不明だ。

やむなく実家へ帰ろうとする祖母の手を握りしめて、「頼むから、オレの女房になってくれ」と泣いて懇願したのが祖父だったという話だ。
真偽の程は定かではないが、当時としては、そういう婚姻関係はよくあったようである。

祖父には弟(金治郎)もいた。弟は昭和7年7月18日、30歳で鬼籍に入った。
金属彫刻の腕はかなりのものだったらしい。我が家の仏壇には仏像が飾ってあるが、それは祖父の弟の作。
また、金属製の火鉢があり、その四面に青龍・朱雀・白虎・玄武の四神獣が刻まれており、我が家のお宝になっている。2回の引越で、できるだけ多くのものを捨ててきたが、これだけは残った。
お宝のわりには、花鉢代わりに使っていて、ぞんざいな扱いをしてしまっている・・・。

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結婚後、祖父母夫婦は上京し、東京下町の本所に居を構えた。これが苦労の始まりである。

大正12年9月1日午前11時58分、関東大震災発生。墨田区は火の海になった。
「十二階が途中から折れてねぇ」と、祖母はよく話していたが、私には十二階がどういうものかわからなかった(後に、浅草の凌雲閣だと知る)。

震災の大火の中、夫婦は逃げまどうことになる。
隅田川のはしけに乗船しようとしたが、人の波に押しのけられ乗れなかった。
ところが、その船は川の中央で転覆し、乗客は煮えたぎる隅田川に投げ出された。
乗れなかったのが幸いして、夫婦は九死に一生を得る。

生前、祖母はよく言っていた。
「地震があったら地割れがする。雨戸を地面に敷いてその上にいるようにしなさい。家が潰れたら、土地に縄を張って、ここは自分のものだと主張しなさい」

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その後、夫婦がどんな生業をしていたか定かではない。
祖母は蔵前国技館の売店で働いていたり、井上順之助(後の大蔵大臣)邸でお手伝いをしたこともあった、と話していた。

精米機と祖父

祖父は、今でいう「ものづくり」が好きな人間だった。
板金屋をやっていたらしいが、どこでどうしたものか精米機の特許を取得した。これが当たって、我が家はいっきに成金になった。
会社はとんとん拍子に成長し、富山に本社、東京に工場3つを持つ中堅企業に成長した。

出世した祖父は飯田町(現、九段北)の町会長に、祖母は婦人会のリーダーになる。「挙国一致」が流行語となった時代、賢夫人の鏡だった。
靖国神社の近であり、今、かの地には「あけぼの」という名前の古びた料理屋が建っている(追記:料理屋としてはお休み中のようだ)。

そうした中で母(治子 はるこ)が誕生(昭和7年1月16日)した。祖母は40を越えており、当時としてはかなりの高齢出産だ。

夫婦には母の前にもう一人女の子がいたが、生まれる前に亡くなったという(名前はない。大正14年1月3日没)。
夫婦はその死を痛く悲しんだ。祖母のお腹の中で関東大震災を乗り切ってきた子だったから、なおさらだ。

母の誕生を祖父母がどんなに喜んだかは、想像だにできない。
もうすっかり子供は諦めていたときにできた子宝だから、それはそれは大切に育てた。 母、治子

家も羽振りが一番いい頃だったので、贅沢のし放題だ。
家庭教師をつけて、バイオリンを習わせた。戦前のことだから、その羽振りの良さがわかる。
「天子サマ」と書いた書が、書道展で入選したといって、両親は鼻高々だった。
母親は成績も優秀であり、第六高女(現、三田高校)でも、抜群な成績だった。ほとんどオール「優」だった。

これが間違いの始まりとは、そのときは誰も気づかなかった。

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蛇足だが、私の母の子守役は従業員の内原重吉氏が担当していた。母は重吉氏に背負われて育った。

従業員とはいっても祖父と内原氏はいわば義兄弟のような間柄だったそうだ。 恰幅がよく、風貌もよく似ていて、回りからは本当の兄弟のように思われていたらしい。

その内原氏は、後日会社(内原製作所)を金町に立ち上げ、最終的には、東京都金属プレス工業会のトップまで登りつめることになる。民生委員などもやっていた。
内原氏は我が家が没落して後もよく当家には立ち寄ってくれた。内原氏については、私も記憶がある。
身分は天と地ほど離れてしまったにもかかわらず、それでも内原氏は祖父を「アニキ」と呼んでいた。
酒が回ると涙もろくなる、人情味あふれた人物だった。

私も後日、内原氏のお孫さんと勤労青少年洋上セミナーで同じ船に乗ったり、物流効率化の仕事(平成18年)で、ご家族の方(NCネットワーク代表取締役)から、いろいろ情報をいたいたりした。
都庁退職後に勤めていた(公財)東京都中小企業振興公社は、都内の中小企業グループの育成もやっていて、その一つ「シーガル21」の筆頭企業が、内原製作所だ。社長の勲氏は、重吉氏のお子さんにあたる。

世の中ってほんとうに狭いものだと思った。

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