精米機の特許で大きく会社を発展させた祖父母の前に、暗雲が立ちこめる。戦争の勃発である。
戦時中、会社は鉄砲の弾をもっぱら作っていたという。 工場はフル回転していた。
町内会長は、配給米の分配権限を持っていた。
分配後に残った米は、従業員の食事になる。「うちは戦争中も従業員には白い米を食べさせていたんだよ」と、祖母はいつも自慢していた。
昭和31年生まれの私には、「白い米」を食べることが、なぜ自慢なのか、わからなかった。
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いいことばかり続くはずはない。
東京大空襲で、都内
に3つあった工場は、すべて廃墟となった。
着物を売りに地方に行ったら「東京から乞食が来た」と言われたと、祖母は悔し涙を浮かべながら話した。
それでも会社は何とか維持していたようだが、祖父母には、ひとつのウイークポイントがあった。
しっかりした教育を受けていなかったため、契約書などが、読んでもよくわからなかったのだ。
そこで身元の堅い人に会社の経営を任せようと考えた。
知り合いのつてで、警察と税務署の関係者を会社の幹部に招き入れた。
すっかり会社の事務を任せたところ、この両名が会社のハンコを持ち出して、財産をすべて持ち逃げした。
会社は倒産し、家族は夜逃げをした。
わずかな財産は、戦争中無理矢理引き受けさせられた「国債」だったが、もう、紙切れに過ぎなかった。
こうしたことから、「人にはお金を貸すな。貸したら戻ってくると思うな」「国債は買うな」というのが、我が家の家訓となっている。
祖母は「たとえ自分の女房であっても、貯金通帳とハンコの場所は秘密にしろ」とまで、言っていた。
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夜逃げの果てに落ち着いた先が、東京都品川区、二葉町というところだった。
祖父母はここで花屋を開業した。
「戦争が終わり、これからは平和な時代がくる。花は平和のシンボルだ」という理想から、花を売ろうとしたのである。
しかし、花を愛でる余裕など、国民にはなかった。あえなく廃業となった。
花屋を改装して、祖父母はパチンコ屋を開業した。
「戦争が終わり、これからは平和な時代がくる。庶民は娯楽を楽しむ」という目論見だった。
パチンコ屋は繁盛したようだが、祖父母には商売気がなかった。タマの出が悪い常連客がいると、「こっちの台がいいですよ」と、案内したりした。
そのために、あえなく廃業となった。
度重なる事業の失敗で、なけなしの資産を食いつぶし、店を手放すことになる。その店は、乾物屋となったが、今は道路拡張でなくなっている。
祖父母は、親友のつてで、近くの南品川六丁目(現、西品川一丁目)の3軒長屋に移り住んだ。親友とはその大家だ。写真手前から2軒目が我が家になる。
家の裏には、まだ暗渠になる前のどぶ川が流れていた。近所の子どもがよく落ちてケガをした。
今その地には、ファミーユ下神明という品川区の区民マンション(24階建)が建っている。その大きなマンションのゴミ置き場が、わが家のあった場所だ。
ここで津田家は屋台のおでん屋を開業することになる。屋号は「双葉」とした。
以前住んでいた二葉町の名でもあるし、これからもう一度出直そうという気持ちも込めて、この名前にしたらしい。
醤油・塩と鶏ガラを一晩中煮立ててとったスープは、うまかった。
小火を出して近所に迷惑をかけたこともあった。
木造の屋台は、だんだんと炭化してくるのだ。
ここで私は誕生した(昭和31年、1956年9月20日)。
できれば、もうすこし羽振りの良い時期に生まれたかった。
もはや戦後ではない、と言われた年。一橋大学生の石原慎太郎氏が『太陽の季節』で芥川賞を受賞した。まさか、その後、自分の組織の長にその人がなろうとは・・・。
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祖父母は自分達もそうとう高齢になっていたので、いずれかは使用人を雇って屋台を任せたいと考えていたようだ。
昭和40年前後だったと思う。
若い衆2名を間借りさせ、お好み焼きやと石焼きイモの屋台で昼間商売をさせた。
ところがこの両名、よく夜遊びするなと思っていたら、副業に泥棒をしていた。
夜中にパトカーが来て、我が家に家宅捜索は入った。大騒ぎだった。
よくよく人に騙される一家である。
さすがにこれに懲りて、祖父母はその後、人に頼ろうとしなくなった。
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