母の死(昭和35年) | |
すでにご紹介したように、私の母は我が家が最高に反映していた頃に育った。そのため、没落し貧乏になった現実を受け入れられなかったようだ。 母はある日、「この人と結婚したい」という男性を、祖父母に紹介した。祖父母はこの結婚を無理矢理引き裂いたらしい。その男性は肺を病んでいた(当時としては珍しいことではなかったが)。 それが不満で、母親はプィと家を飛び出し、旅行三昧の日々を過ごすようになった。 そして、突然、自宅に舞い戻り、「この人と結婚します」と紹介したのが、私の父である。 母と父とが、どういうぐあいにめぐり合ったのか、今となっては何もわからない。 ************
母親は私が生まれてから後も、日本全国を旅行しまくっていたようだ。 先般、「働く人のための精神医学」(岡田尊司著 PHP新書)という本を読んでいたら、赤ちゃんが1歳半になるまで母親から十分な愛情を受けないと、「不安型の愛着スタイル」になり、対人関係を求めず、昇進にも無関心で、結婚や子どもを持つことにも不安を感じるようになる、ということを知った。それってまさしく、私だ。 その母親は、私が4歳のとき突然他界した。 だから私に母の記憶はない。 葬式の断片的な残像だけがかろうじて残っている。 ************ 長年に渡って母の死は、「事故で湖に転落した」と説明されてきた。 後日、子供を寝かしつけるときに「夕焼け、こやけの、赤とんぼ・・・」と歌っていた、と知人から聞かされ、赤とんぼの歌だけが、私にとっての母親のイメージとなっている。 ************ 都庁に入ってからずいぶんした頃に、B氏から「一度会いたい」という連絡があった。 何を話したいんだろうといぶかしげに出かけた。 「事故で死んだと聞いています。」と返す。 私は「やっぱりな」という印象だった。 B氏:「この話をしようか、どうしようかと私も迷ったんだ。しかし、もうこんな歳になって、当時の事情を知っているのは、私一人になってしまった。私が話さなければ、君は生涯知らないままになる。その方が良かったのかもしれないが、どうしても自分が生きているうちに話しておかなくてはならないと思った。」 母の記憶すらないくらいだから、その“ヒト”が誰と死のうと、私には知ったことではない。 戸籍には、「昭和35年10月3日時刻不詳 宮城県宮城郡宮城村大倉字空沢で死亡」との記述がある。仙台市にある大倉湖のあたりらしい。 |