母の死(昭和35年)
真相

すでにご紹介したように、私の母は我が家が最高に反映していた頃に育った。そのため、没落し貧乏になった現実を受け入れられなかったようだ。

母はある日、「この人と結婚したい」という男性を、祖父母に紹介した。祖父母はこの結婚を無理矢理引き裂いたらしい。その男性は肺を病んでいた(当時としては珍しいことではなかったが)。
祖父母は、「家が以前のように裕福ならばいくらでも何とかなるが、こんな状況になっては、病人を抱え込むことはできない」と突っぱねたらしい。

それが不満で、母親はプィと家を飛び出し、旅行三昧の日々を過ごすようになった。
もともとがお嬢様育ちだったので、貧乏暮らしは受け入れることができなかったのだ。

そして、突然、自宅に舞い戻り、「この人と結婚します」と紹介したのが、私の父である。

母と父とが、どういうぐあいにめぐり合ったのか、今となっては何もわからない。
入籍日は私の誕生日である。できちゃった婚なのかもしれない。
父親についても書いておきたいが、実際、詳しくは知らない(理由は後述)。

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母親は私が生まれてから後も、日本全国を旅行しまくっていたようだ。
「お母さんが生きていた頃から、人から、『この子のお母さんはいないのですか・・・』と、言われてねぇ・・・」と、祖母は語った。
母親と祖父は仲が良かったようだが、祖母とはいつも対立していたらしい。

先般、「働く人のための精神医学」(岡田尊司著 PHP新書)という本を読んでいたら、赤ちゃんが1歳半になるまで母親から十分な愛情を受けないと、「不安型の愛着スタイル」になり、対人関係を求めず、昇進にも無関心で、結婚や子どもを持つことにも不安を感じるようになる、ということを知った。それってまさしく、私だ。

その母親は、私が4歳のとき突然他界した。

だから私に母の記憶はない。

葬式の断片的な残像だけがかろうじて残っている。
私は、自宅前の電信柱の陰で葬儀を眺めていた。怖かった。母親が死んだことについて「悲しい」という感情はまったくなかった。ただ、「人が死ぬ」ということに対し、何かしか畏怖の念を抱いていた。お化けになって出てくるのではないかと、不安だった。
情けないことだが、「母親の葬儀」が、自分の人生にとっての、もっとも昔の記憶だ。

葬儀の折、棺桶の釘を石でたたく儀式がある。子供の私もやらされたが、ガンガンと釘をたたいて、止められた記憶がある。 ただただ、生き返ってくることが怖かったのだ・・・。

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長年に渡って母の死は、「事故で湖に転落した」と説明されてきた。
祖母は「母親らしいことはなにもしなかった」と、いつも吐き捨てるように言っていた。

後日、子供を寝かしつけるときに「夕焼け、こやけの、赤とんぼ・・・」と歌っていた、と知人から聞かされ、赤とんぼの歌だけが、私にとっての母親のイメージとなっている。

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都庁に入ってからずいぶんした頃に、B氏から「一度会いたい」という連絡があった。
B氏は新宿の通称「思い出横町」に「カネソ」というたばこ屋を経営していた。B氏と我が家と、どのような係わり合いがあったのか、詳しくは知らない。

何を話したいんだろうといぶかしげに出かけた。
B氏は言う、「君はお母さんの死因を知っているか?」

「事故で死んだと聞いています。」と返す。
B氏:「お母さんは、男の人と情死したんだ。入水自殺だった。新聞にも載って、ちょっとした騒ぎだったんだよ。」

私は「やっぱりな」という印象だった。
母の死については、誰も確たる説明をしてくれなかったから、「何かあるな」とは思っていた。

B氏:「この話をしようか、どうしようかと私も迷ったんだ。しかし、もうこんな歳になって、当時の事情を知っているのは、私一人になってしまった。私が話さなければ、君は生涯知らないままになる。その方が良かったのかもしれないが、どうしても自分が生きているうちに話しておかなくてはならないと思った。」

母の記憶すらないくらいだから、その“ヒト”が誰と死のうと、私には知ったことではない。
しかし、そんなことで、長年B氏を悩ませてきたのは、申し訳ないと思った。

戸籍には、「昭和35年10月3日時刻不詳 宮城県宮城郡宮城村大倉字空沢で死亡」との記述がある。仙台市にある大倉湖のあたりらしい。
一度はそこに行ってみたい・・・、と思う。

(母 津田治子 昭和7年1月16日生 昭和35年10月3日死亡 享年28歳)

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