下町の我が家(昭和30年代)
南品川六丁目

大井町は国鉄の大井工場によって繁栄したところだ。
私たちが住んでいた長屋は、“国鉄線(当時)”大井町の駅から徒歩8分、“東急田園都市線(当時)”下神明から徒歩5分のところにあった。国電はチョコレート色の電車、東急は緑色の電車が走っていた。祖母は、国電を省線と呼んでいた。

ひじょうにおぼろげな記憶だが、現品川区役所の消防署のところには、火の見櫓があったように思う。

我が家のすぐそばには、「ダイヤチタニット」と書かれた三菱金属大井工場があり(旋盤の工具やドットプリンターの針を作っていたらしい)、近所にも町工場がたくさんあった。いつもグラインダーの音が聞こえていた。それが当たり間であって、けっして騒音だとは思わなかった。

南品川六丁目1,277-2(その後、西品川一丁目20番地になる)。
ちょっとした横丁があり、2軒目が我が長屋である(横丁と呼べる横丁が、ホントに少なくなったなぁ・・・)。
玄関は引き戸で、広めの土間があり、1階は4畳半。2階は6畳。長屋には3世帯が住んでいた。
貧乏だったが、私の家には早くからテレビがあった。隣の家の奥さんが「テレビの音が大きい!」と、怒鳴り込んできたこともあった。

東京オリンピックのときは、自衛隊の飛行機が空に五輪を描いた。家の前からもよく見えた。「3丁目の夕日」そのものだった。

当時我が家があったところには、現在、ミルフィーユ下神明という24階建てのマンションが建っている。地形もすっかり変わってしまった。
三菱の工場もきれいな公園になってしまった。

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私の家には風呂がなかった。
「沢の湯」「宮城湯」といった銭湯に通った。

宮城湯」は、今では温泉になっている。(右の地図は宮城湯のホームページより加工)

銭湯は、下町の必須アイテムだ。
「時間ですよ」という人気ドラマがあった。子供の私にとっては、入浴シーンをドキドキしながら、見た。時間ですよの松の湯の設定は、品川区大崎だった。

町中に、まだ人情が溢れていた時代だ。

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当時の下町は、みな顔見知りだ。
近くの工場の社長の二号さんと、三号さんが、軒を並べて住んでいた。

子供たちが集まって、市場を開いた。
手作りのコリント遊びなどをした。近くの工場の廃材チップがお金代わりだった。秘密基地(=原っぱの建設資材置き場)を作って、銀玉拳銃で撃ち合いをした。

メンコ、ビー玉、チェーリング、コマ回し、凧、ゴムだん、だるまさんがころんだ、缶けり、土団子づくり、とりもち、四つ網――、そんなところが、私の子供の頃の記憶にある。
ただし、私自身は、何をやらしても、へただった。

近くの品鶴線(今は東海道線)の線路に入って、モンシロチョウやアゲハチョウを追いかけた。
線路に人が入った・・・って状況だ。今にして思えば、危ない遊びをしていた。でも、本当に夢中だったな。

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近所の「よろづや」という店があった。今でいうコンビニだったが、三畳程度の広さのお店を、おばちゃんが一人で切り盛りしていた。 よろずやには日常生活に必要なものが、何でもあった。
そこのお兄ちゃんには、3つ上で、よく可愛がってもらった。
お兄ちゃんは、高校を出てすぐ亡くなった。よろづやのおばちゃんは、その後、あまり笑顔を見せなくなった。

よく「コーヒー牛乳」(当時は、カフェオーレとかカフェラテとかいう洒落た飲み物はない)を買っていた。
ワタナベのジュースのもとや、あんみつ姫の甘納豆も好物だった。なめると当たり外れがわかるクジがついていて、風船やバッチがもらえた。私はトンボやバッタのバッチが欲しかった。でも、いつも「スカ」とか「はずれ」ばっかりだった。

オレンジジュースをサイダーで割って飲んだ。こんなおいしい飲み物を発見したのは自分だけだ、と自画自賛していたが、その後すぐに「ファンタ」という飲み物が出た。

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楽しみといえば、電車に乗ることだった。
下神明から戸越公園まで、歩いてでも行けるのに、電車に乗った。
戸越公園駅のそばには映画館があり、怪獣映画のスチール写真がそこに飾ってあった。それを見るのが楽しみだった。

戸越公園の入り口には、名物の「お好み焼屋」がいて、いつも私は「チョコレート天」というのを買って食べた。お好み焼きの地にココアを塗り、黒蜜をかけて、ゴマをふったものだ。今でいうなら、まさしくクレープである。今売っても、十分通用すると思う。
屋台のお好み焼屋のおっちゃんがクレープを知っていたとは思えない。創作料理の天才だ。
そのほか、オバQ天(ウインナーがオバQの口になっていた)、超特急天(辛いカレー味で、食べると水飲み場に超特急で走るが名前の由来。さらにきついウルトラ超特急天もあったが食べる勇気がなかった)というのもあった。

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貸本屋にもよく行った。月刊誌で35円くらいだったかと思う(週刊の漫画誌はまだない)。
当時人気だった「少年」は買っていたが、その他の「冒険王」「ぼくら」「少年画報」などは貸本屋で借りた。
「少年」には、手塚治虫の鉄腕アトムが連載されていた。
だが私のお気に入りは、横山光輝の鉄人28号だ(最近リメイクされ、しかもひじょうにクオリティが高く、大満足している)。

子供向けのマンガを借りる折に、大人向けのマンガ雑誌も立ち読みした。
ませたガキだったが、ま、フツーだった。

何と言っても引かれたのは、松本あきら(後の、松本零士)という新人漫画家の「スーパー99(ナインナイン)」という潜水艦ものだった 。小沢さとるのサブマリン707が、当時、潜水艦ものとしては人気だったが、私は「99」の方が好きだった。潜水艦でありながら、豪華客船のような「華」があったな、「99」には。
当時、テレビドラマで「原潜シービュー号」というのもやっており、ディズニーも映画で海底二万哩を作った。これらのデザインも秀逸だ。
すっかり私は、潜水艦フリークになってしまった。

床屋の書棚には、「墓場の鬼太郎」というマンガが、ボロボロになって置いてあった。
今の鬼太郎とは違って、とてもオドロオドロしいストーリーで、子供にはコワくて読むことができなかった。
水木しげるは、ホントにすごい。4世代に渡って現役だった。近年、朝ドラになって、戦争で片腕を失ったことを知った。

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プラモデル作りも、楽しみの一つだった。

当時の子供といえば、外に出て野球(といっても「ほうきがバット」だったりしたが・・・)をする類と、家の中でプラモデル作りをするのとがいた。今ならさしずめ、サッカーとテレビゲームといったところか。

風邪をひいてお医者に行き、注射をされても泣かなかったら、50円のプラモデルを買ってもらえた。だから、医者に行くのが楽しみだった。
当時のプラモデルといえば、やっぱり人気は零戦。
飛燕や紫電改もよかったが、偏屈な私は震電がお気に入りだった(こういう話は、今の若い人に言っても通じない)。

はじめて磁石を手にしたとき、これを線路の枕木にして、同じ極を電車の車両の下に張り付けたなら、反発力で宙に浮く。これで車輪のない高速鉄道が作れると直感した。
そのまま行けば、リニアモーターカーの研究者になれたかもしれない。
ただし、前に進む仕組みについては、まったく思い浮かばなかったが・・・。

ビッグモグラス

プラモデルといえば、小学生のとき、主力メーカーだった緑商会に手紙を書いたことがある。
当時「キングモグラス」というプラモデルを作ったのだが、「こんな小さなドリルで地中を進めるハズはない」とか、「出っ張った部分や翼は格納式がいい」とか、言いたい放題の意見 と、自分で書いた地中戦車の絵を送った。
後日、お礼として「バンガード」という模型が送られてきた。
そのうえ、私の提案をそのまま採用して「ビッグモグラス」というプラモが発売されたではないか。すごく、うれしかったぁ。 なんたって箱絵がすばらしかった。上のイラストより当時の箱絵は精緻だった。
でも、悲しいことに、私はビッグモグラスのプラモを買わなかった。値段もビッグになってしまい、私の小遣いでは買えなかった。はじめて自分は貧乏だと思った。
そして、プラモデルを作ることをやめた。何も欲しがらなければ、貧乏も苦にならないことを知った。

今では、プラモデルは作る。大スケールの宇宙戦艦ヤマト(5万円もした)を作って、部屋に飾っている。バンダイさんは偉い!

なぜ、こんな年齢になってプラモ作りを始めたか。
実は、労働関係の仕事をしていたとき、就労相談の事業を企画したことがある。そのとき、いろいろと文献を読みあさった。
そのうちの一冊に、「就職相談の対応の仕方の一つとして、相手の年齢が高いときは『子どもの頃、どんな遊びをしていたか』を聞くとよい」と書かれていた。
高齢者が再就職の際、「本当に自分のやりたい仕事が何か見つからない」というケースはよくある。そうしたとき、「子どもの頃の遊び」を聞くと、それが「本当にやりたい仕事に近い」とのことである。
その頃の自分も、同じような立場に置かれていた。ぼちぼち退職が迫ってきた、でも、その後、自分が何をやったらいいかわからない。「これだっ!」と思った。

とはいえ、プラモデル作るには、もう、老眼がきつくて・・・。飛蚊症も出て、なかなか満足できるようなものは作れない。悲しい。

最近、ビッグモグラスの復刻版のプラモが発売された。買ったのはいうまでもない。
しかし、このプラモに金属製の部品はついていなかった。もう、そういう部品を作れるメーカーがないのだという。
大丈夫なのか、「もの作り王国、日本」。

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中学時代になると、自分の貧乏さを痛感するようになった。

自宅にはエアコンがない。
とても勉強できる環境ではなかった。お金持ちの子は、冷暖房完備のところで、快適に勉強している。なんて理不尽なんだ。

暑い夏は、近所の図書館で勉強するのが日課だった。
ずっと図書館にいるのも疲れるので、本を持参して山の手線に乗った。冷房車で一周すると約1時間。
ちょうどいい読書場所だった。※今、こういうことをすると叱られるので、注意!

冬の寒いときは、家の中で無意味に身体を動かして暖を取った。
布団乾燥機を買い、布団といっしょに自分も乾燥してもらった。暖かくてとても良かったが、そのまま寝入ってしまい、低温火傷した。

ともかく、品川時代は、貧乏な記憶ばかりだ。
この西品川の地で、30代半ばまでを過ごすことになる。そんなに長くここに居るとは思わなかった。

祖父も祖母もこの地から鬼籍へ送った。
今も昔のような場所ならばもう一度戻りたいと思うが、すでに昔の面影はまったくなくなっている。

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