モスラ(昭和36年)
空想と現実の同居

幼年時の私は、「引きこもり」だった。今ならニートと呼ばれる人の仲間入りをしていただろう。
幼稚園の頃から、他人と遊ぶことを忌避した。

自分はどこかしら他人とは違うという感じを持っていた。
実際にそうだったのだが、子供の感性で、それを感じ取っていたのだろうか。

架空の友人(チョウだったり、カブトムシだったりした)を作って、自作自演で遊んでいた。
積み木に、虫たちの絵を描いて、一人芝居をしてた。
私のアバターは、カタツムリだった。

それが高じて昆虫には詳しくなった。いつも手元には、ポケットサイズの昆虫図鑑があった。
小学校に上がる頃には、「みゃくしもく(脈翅目)」とか「りんしもく(鱗翅目)」とか「こうちゅうるい(甲虫類)」とか、大人相手に解説していた。
アゲハチョウの幼虫がサナギになるのを見たくて、徹夜をした。が、肝心の瞬間に眠ってしまった。

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親モスラ 昭和36年、私が5歳のとき、はじめて映画というものを見た。劇場は、大井町一本橋通りにあった大井武蔵野館だった。
「モスラ」である 。「総天然色」と書かれていた(カラーという言葉はまだない)。

小学校入学前のことだから、筋立てはよく分からなかったが、とにかく圧倒された。
大好きな“虫”だったかもしれない。 子モスラ

今でも東京タワーを見ると、モスラが取り付いた姿がダブって見える (そういう人は、少なくないらしい)。 ちなみに東京タワーを初めて倒したのはモスラである。ゴジラは昭和29年に映画デビューしたが、その年に東京タワーはなかった。

奥多摩から青梅街道を東進してきたモスラは渋谷を破壊する。当時のシャシン(=映画)を見返すと、東急百貨店はあるが、その他の商店はほとんど木造2階建てだったことがわかる。
同じ頃、宮崎駿も渋谷の映画館でモスラを見ていて、「すごい、映画館の外の様子がすべてミニチュア化されている。こんな作品を作りたい」と思ったそうだ。
(ちなみに、写真のモスラは私が所有するミニチュアを実景と合成したもの)

とはいえ、私は子供だったから、渋谷がどこにあるかも知らなかった。
もちろん、その渋谷が、14年後に私の最初の勤務地になろうとは、知るよしもない。

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モスラの影響で、虫好きは怪獣好きに進化(?)した。

そんなわけで、小学生低学年の頃の就職希望先は、断然「円谷プロ」だった。
一人遊び→虫を擬人化→虫好き→モスラ→怪獣好き→円谷プロ。自然な成り行きだろう。

最初は着ぐるみに入りたかった。しかし、いろいろ研究すると、とても体力が必要だということがわかった。
解説本には「ゴジラの着ぐるみは石膏でできていて、重さ100キロだ。一回撮影すると、足元に汗がたまる」と書かれていた。

当時の私は肥満児(今もそうだが、こんなもんじゃなかった)だった。しかも、運動オンチだった。
そんなわけで、体育会系の仕事は、諦めることにした。

ちなみに、中学1年生のとき1,000m走があったが、完走はしたものの周回遅れであった。
ゴールに入ると、クラス全員が拍手で迎えてくれた。
恥ずかしかった、あんな屈辱はなかった(以来、短距離のビリはいいとして、長距離はビリにならないよう、練習した)。

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せめて、ミニチュアの仕掛けの担当でも・・・と思ったが、たぶんそういうのに堪能なのはお金持ちの出だろうと、これもあっさり断念した。

「何事にも無理をせず諦める」というのが、生き方のスタイルとなってきた頃だ。

今でも円谷に引かれるものはある。伊福部の音楽、小松崎の造形。わくわくするものばかりだ。(※小松崎茂氏は、三丁目の夕日の茶川氏のモデルだと思うが、いかがだろうか)

轟天号 とりわけ海底軍艦は凄い。
潜水艦にドリルがついているのだが、それが回転しても少しもぶれない。回転軸がきちっと定まっているからだ。 それは、日本の小さな製造業の技術力の高さを物語っている。しかも三重螺旋だ(って言ったって、たぶんわかる人は少ない。写真はハセガワ社のプラモデルを実景と合成)。

多少のピアノ線が見えたとしても、やはりデジタルにはない暖かみがある。
特撮の神様と呼ばれた円谷英二は、弟子達に言ったそうだ。
「テレビの放送でピアノ線が見えたら、昼飯はごちそうしてもらうよ」 
そして、そのたびに昼飯代を出してもらい、「君達がいるから、私は昼飯には不自由はしないな」と、いい放ったとのことだ。
そんな円谷だが、子どもに夢を与えることには熱心だった。
あるとき新聞記者が映画の取材にきたのだが、撮影現場の写真を掲載した折にリアルさを付け加えようと、実際には見えなかったピアノ線を掲載写真に付け加えた。これには円谷も烈火のように激怒したそうである。
円谷は、少年漫画に怪獣の内部構造の想像図などが掲載されることにも怒って、関係者を出入り禁止した。
また、デパートの屋上で怪獣ショーが行われるのにも、反対だった。怪獣はファンタジーであり、巨大な存在でなければならない。等身大の着ぐるみで街を闊歩することは、嫌いだった。

私はそんな円谷英二を尊敬している。
余談だが、街角に設置されているスピード証明写真、あれを発明したのも円谷英二である。

特撮の夢、私は断念したが、同年代の庵野氏や大森氏は、それなりの仕事をやり遂げた。うらやましい。

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一人遊びは好きだったが、「貧乏」だったため、いつまでも引きこもっていることはできなかった。

小学生の私は、ウケを狙って「鉄人28号」なんかの絵を描いた。
「僕にも書いて」という子もいて、自分の存在価値を感じるようになった。これで、少しずつ周囲に心を開くようになった。

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小学校1年生のとき、学芸会で主役を演じた。「まちがいピノキオ」という劇だった。
最初は「少年C」の役だったが、台詞回しが上手いということで、メインに抜擢された(ちなみに、主役のピノキオには、ほとんど台詞がない)。
それまで自作自演で一人遊びをしていたのが、役に立ったのかもしれない。
「キミってピノキオだろ? そうだ、きっとピノキオに違いない。」といった台詞は24もあった。必死で覚えた。

近所のYさんに初恋をした。しかし、今は、どんな娘だったかも覚えていない。

今から見れば、かなり純真な子供だった。
こんなオヤジになるとは、これっぽっちも考えていなかった。

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あの頃は「働かざる者食うべからず」というフレーズが生きていた(今だってこの言葉は生きているはずだと、個人的には声を大きくして主張したい。何でそんなことも言えなくなったのだろう)。

ただし、昭和30年代~40年代のことだ。私も貧乏だったが、世間もそう金持ちではなかった。

漫画家の赤塚不二夫氏が、「昔はおでんを奪い合うだけでそれがギャグになったが、今の子供達には理解してもらえない。」と言っている。なんだかんだ言っても、今の方が豊かだ。
今は、貧乏自慢がギャグになる時代だ。
当時は、抜け出せるはずもない貧乏生活から、抜けだそうとしてあくせくする行為の滑稽さがギャグになる時代だった。

小学生時代は、「即席長崎チャンポンの具なし」が定番。
場合によっては、ご飯に味噌をつけて、それだけ。
長じてからは、炒り卵、メンチカツ、アジフライを各1品おかずにして、飯を流し込む。
それが普通だった。
今でも、食事とすると、おかずよりご飯の方が先になくなる。少ないおかずでご飯をたくさん食べた頃の名残だ。

面倒くさいので毎日同じ食事をすることが、当たり前になってしまった。
食事に選択肢があるという生活をしてこなかったために、あれこれ選択するのが、おっくうである。

同じ生活パターンのオジサンは、たぶんたくさんいる。

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あの頃は、誰もが何とかして一歩でも二歩でも、現在の状況を良くしたいと思っていた。
社会変革とか、そういう大きな話でなくてもいい、とにかく、来年の収入は今年よりも多くしたいと思った。しかも、それが実現できる時代だった。

九ちゃんの「上を向いて歩こう」が流行った。大鵬が横綱になった。
ウルトラQが始まり、ウルトラマン、キャプテンウルトラ、ウルトラセブンと続いた。
テレビにかじりついて見た。
東京と大阪を結ぶ弾丸列車が間もなく開通する、少年雑誌には書いてあった。新幹線のことだ。

<アメリカは月着陸の計画を進めている。1999年には、人類は火星に着陸するだろう>とも書かれていた。「その頃は、もうオジサンになっているじゃないか・・・」と、落胆した。予定どおりオジサンになったが、人類はムーンベースすら満足に作れない。

実現できたものもあれば、できないものもある。
しかし、「はやぶさ」は見事に小惑星イトカワに着陸した。
あの頃の少年雑誌には、そのうち原子力推進で飛ぶロケットが開発される。その次に来るのは、イオン推進だ、と載っていた。原子力ロケットは未だに実現できていない。しかし、「はやぶさ」はイオン推進で飛ぶ。しかも、日本の技術だ。
そういう話を聞くと、今でもわくわくする。
そういった“わくわく感”を、当時の人間は皆持っていた。

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リヤカーのおでん屋「双葉」は、当時、大井町三つ叉商店街で開業していた。
大きな家具屋の筋向かいだった。

今では住宅地になってしまったが、三つ叉商店街は、映画館などもあって、ちょっとした歓楽街だった。
映画の「三丁目の夕陽」や「メトロに乗って」そのままの時代だった。
商店街の入り口に古道具やがあるのを知ったのは後年だが、それは「時代屋の女房」の時代屋である(今はもうない)。

カーバイトの灯りの下で、けっこう有名人も来たらしい。
関脇の玉の島(後の横綱)から、提灯のマスコットをもらった。
「今日は長門勇が来たよ」とか「今日は女優の○○○子が、男にふられたといって泣いていたよ」とか、祖父母から聞かされた。

小学生だった私は、屋台を後ろから押すという分担で、品川区役所から一本橋商店街の坂を、えんやこらやと後押ししていた。

思えば、一番いい時代だった。

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