父の記憶(昭和37年~昭和41年)
別離

私の父親(喜盛)は、昭和10年2月8日生まれ。五男だった。
出身は兵庫県である。母よりは3歳年下になる。

父はアル中だった。酒好きの例えとしてのアル中ではなく、病としてのアル中であった。
禁断症状から、赤ん坊だった私を窓から落とそうとしたこともあった、という。
どうやら、母にとっても父にとっても、厄介者の赤ん坊だったらしい。

父方の祖父も、韓国から日本に帰る船中で、メチルアルコールを飲んで死んだというウワサだった。

私も年365日酒を飲んでいるので、血は争えないといったところか・・・。

父の母親(私の父方の祖母)は、「心根の優しい子だった。それが婿養子に行ったら、あんなになった」と言っていた。

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父が荒んだ背景には、間違いなく母の影響がある。

母の死後、父は後妻を迎えた。
新しい妻を娶れば、少しは更生するかも知れないという母方の祖父母の配慮からだった。が、うまく行かなかった。

新しい母は「あの子は私の手で育てますから、亭主を追い出してください」とまで、言ったという。
気持ちはありがたかったが、祖父母としては、父を見放すことはできなかった。

継母は私が8歳のとき、出身地の北海道に戻った。

1年半の結婚生活だった。思えば、気の毒なことをした。以来、再び会うことはなかった。
どういう経緯で父の後添えになったか、事情は知らない。

この二人目の母について、記憶を探っても、顔を思い出すことができない。
その後、どんな人生を歩んだのだろうか。
健在だとしても、80歳くらいになる。ひょっこり現れたとしても、それはニセモノと判ずるしかない。
よって、名前は伏せる。

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父はその後に、我が家を出て、兵庫県の実家(西宮)に戻った。

高齢だった母方の祖父母は、私を父の実家に預けようか、ずいぶん迷ったらしい。

父の実家は魚屋だった。
父には兄弟が多かったが、好きこのんで親戚の子を面倒みてくれる人がいるわけはない。
使用人としていいように扱われるに決まっている、それは孫のためにならないと、祖父母は判断し「育てられるところまでは自分たちで育てよう」と、心に決めたという。

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その後、父と再会したのは、私が小学校5年生の夏だ。
いきなり祖父母から、「兵庫へ行って、お父さんの家へ泊めてもらいなさい」と言われた。
行きたくなかったが、しかたなく言いつけに従った。

当時の父は30歳。今思えば、ずいぶん若かった。一人暮らしをしていた。
いきなり息子を託されて、さぞ戸惑ったことだろう。
親子がもう一度やり直せるか、ひとつの実験だったのかもしれない。

いっしょに海で「鯒(こち)」を釣ったことが、唯一の思い出か。
帰る日になっても、名残惜しさは感じなかった。ようやく東京に戻れると思った。父との数日は苦痛だった。

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その後に、父と出会ったのは、中学校2年生のとき・・・。父の葬式でだ。
骨を骨壺に入れるとき、葬儀場の人は、「故人は肝臓が悪かったのですね。骨の色でわかります」と言った。図星だった。

父親には、母方の祖父母が保険金をかけていた。受取人は私だった。
父の死語、叔父が来訪し、「いろいろと病院代も嵩んだので・・・、その保険金代をいただければ・・・」と申し出たという。
祖父母は「手切れ金だと思って受け取ってほしい」と手渡した。

そんなわけで、以降、私と父の実家との関係は絶たれたままとなっている。

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父が死に、ようやく私は、晴れて「親なしっ子」になった。

生まれてこの方、両親から親らしい扱いは受けてきていなかったので、別段、何の思いもなかった。母との死別も、父との死別も、その前後で何も変わったことはなく、同じように日常が流れていった。

後日、よく人からは「両親がいなくて苦労したろぅ」と言われた。
しかし、「家族を失って苦労している人」の数よりも、「家族がいるが故に苦労している人」の数の方が、世の中には多いのではないか。
昨今の惨いニュースを見るにつけ、実感する。

近年、自殺する人が後を絶たない。たぶん、彼らは遠くにある死に憧れて、手を伸ばすのだろう。
両親の死は早くであったためか、私は、何となく死ぬことに親近感を感じていた。死はきわめて身近にいる隣人だった。だから、それを強く求めたりしなかった。

今、還暦を越えてみると、人生は意外に短い、と感じる。
子供の頃に思っていたよりも、さらに死は近い存在になった。

世の中に、死に急いでいる人は多いようだが、「焦ることはない」と言ってあげたい。
人生は、そんなに長くはないのだ。

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付記:2013.12.29
古い手紙の整理をしていたら、その奧から父親からもらった封書が出てきた。消印は昭和44年7月7日。私が中学校に入学した頃のものだ。私の入学写真を送った返礼のようだが、私にはその記憶がない。
当時、父は33歳。どんな思いで、この手紙を書いたのだろうか。しきりに連絡を求めているが、私はそれを無視し、生前、父と会うことはなかった。
父の死は、この手紙の1年後だ。

前略
お手紙遅くなり すみません。
隆志君、元気ですか 何から書いてわからずお手紙おそくなり、すみませんでした
おじいちゃんの事やその後の事も心配になり なんとかしなくてはと思っていますが、父さんも4月の10日から「ムネ」に水がたまり入院したり、どうする事もできずすみません。
入学式の時はぜひ東京に行こうと思って、いたのですが かぜがもとで「ムネ」に水がたまり、いけなかったのです
7月の10日ごろには出られると思いますが また手紙を書きます
それからそちらの事が何にもわからないのです 手紙か電話 どちらでもいいからようすをしらして下さい
隆志の夏休みのころには元気になって 仕事もできると思います。 一度たよりを下さい
父さんと隆志とは一人一人ですから心配な事があったらいつでもいらして下さい
それから夏休みには一度きてください 父さんも話したいことが色々とありますのでまっています

                  手紙をまっています
                  では体に気をつけて
                おばあちゃんによろしく


それから写真ありがとうよくとれていました

(父 津田喜盛 昭和10年2月8日生 昭和45年11月5日死亡 享年35歳)

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