駅裏の屋台引き(昭和39年~昭和49年)
下神明の二宮金治郎
おでん屋台

昭和40年代に入り、三つ叉商店街は区画整理することとなった。
屋台のおでん屋「双葉」は下神明へ根城を変えることになる。

東急大井町線下神明駅の改札を出ると、すぐ右脇に、駅の裏手に下る路地があった。
その先が、新しい営業場所となった。
新しい営業場で、カーバイトの灯りは、電球になった。
祖母は、ある宗教団体に入会することを条件に、そこの使用権を得たらしい。しかし、実際のところ、その宗派を信じてはいなかったように見えた。祖母にとって、生活のためには、どうでもいいことだったのだろう。

それと平行して、祖父の健康状態が、日増しに悪くなり始めた。

おでんの屋台を引っ張っていく仕事は、もっぱら私の仕事になった。
小学校6年生から、高校卒業近くまで、そんな生活が続いた。

宇多田ヒカルの母親(藤圭子)の歌が流行っていた。
相撲で人気の貴乃花は、先の貴乃花の親父だった。

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繁華街から駅裏に移転して、おでん屋の客層は大きく変わった。
若いチンピラに因縁をつけられたこともあった。

たまたま来ていた近所のパン屋さんのオジサンが、「俺に任せてくれ」と言って、そのチンピラをどこかに連れて行った。
心配して待っていると、「もう来ないから、大丈夫だよ」 と、オジサンは帰ってくるなりニコニコしながら言った。

聞くところによると、パン屋のオジサンは、昔、極道の世界にいたらしい。
組織というものは、ピラミッド型をしている。そうでないと指揮命令系統が混乱するからだ。極道の世界でも同じで、一人が出世すると同期は足を洗う習わしになっている、とのこと。

パン屋のオジサンもそういう人の一人だった。とはいえ、とても助かった。

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勘定を踏み倒す客もいる。

そういうお客は頭がいい。
勘定を最初から払わないわけではない。しばらくは、毎回、きちんと支払っていく。
しかし、あるとき、「しまった、財布を忘れた。次に来たときには必ず払うから、今日はツケにしてくれ」と手を合わせる。

次に来たときは、開口一番「こないだは悪かったね。取りあえずツケを払わせてくれ」と言って、前回の借金を払い、飲んでいく。でも最後にはツケになる。
そんなことが何回か続いた頃、仕事の仲間を大勢連れてきて、大盤振る舞いした。
「今度払うから・・・」と言って、手を振って帰った。

祖母は、「あの人、もう来ないからね・・・」と言った。祖母には何もかもお見通しだった。
「自分の送別会くらいは、オレにおごらせてくれ」と言っている客の姿が脳裏に浮かんだ。

小学生だった私は、「人は信用できない」と、肝に銘じた。

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ある独身中年は、テレビを4台持っていると、いつも回りの客に自慢していた。
何のこっちゃない、単に寂しいだけじゃないか、と心の中で軽蔑していた。

今の人には分からないかも知れないので、説明を加えておくが、当時は白黒テレビでもかなりの財産だった。どこの家庭でも、苦労してお金を貯めて買った。それを4台ももっていれば、十分自慢ができた。

だから、おじちゃんは「オレはテレビを4台もっているんだぞ」と酔って、いつも女性客に言っていた。
女性にもてなくなるから、こういう人になってはいけない、と思った。

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休みの日に、我が家まで飲みにやってくる客もいた。祖母は丁寧に対応していたが、さすがに高齢であり、客が帰るとぐったりと疲れた様子だった。
このままでは心配だったので、仕方なく中学生の私が「お店ならいいけど、自宅には来ないでくれ」と頼んだ。
それ以来、そのお客は店にも来なくなった。

いろいろな客が来たが、毎週のようにやってくるのは、決まって独身の中高年男性だった。
今、自分が同じ立場になってみると、彼らの気持ちはよくわかる。繋がりが欲しいのだ。

その後、労働相談の仕事をしてみて、やはり思った。
今の世の中、寂しい人が、あまりにも多い。

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おでん屋の屋台を引く小学生は、近所でも有名になった。「この子は偉くなるよ」と言われた。
私のことを「下神明の二宮金次郎」と例える人もいた。
「そんなはずないじゃん」と私は思った。

とはいえ、小学校6年生のとき、私は「品川区立三木小学校三栄子供会」の子供会長に推挙された。
今にして思うと、私の人生で、これが「一番偉い」ときだった。
小学校の友人にWがいた。通学路が同じで、いつもいっしょに帰った。連れション友達でもあった。そのWの死が、私の都庁退職のきっかけになる。

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中学を卒業して就職するつもりだった。貧乏だから当然だと思った。祖母もそう思っていた。
もちろん同級生の多くは、高校進学が当然だった。

私は中学で働きに出る。人生も「中学卒業でいったん終わりだ」と考えていた。
その先に何に希望も持っていなかった。

正直、「普通の人達のように生きたい」という気持ちはあった。
とはいっても、叶わぬ夢は、どんなに望んでも叶わぬことだ。
「人は希望があるから絶望も感じる。最初から希望など持たなければ、望みが叶わなかったときに落胆する必要もない」――それが、私の哲学だった。

ベトナム戦争があり、学生運動が盛んな時代だった。
「何不自由なく大学まで上げさせてもらって、それで社会に不満だというのか・・・」と、私は冷たく眺めていた。

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祖父が、旗の台の昭和医大に入院した。私が小学校6年生のときだ。
近所に品川区役所ができた。その一角が品川労政事務所だった。今の労働相談情報センター大崎事務所の前身だ。そして、そこが私の都庁最後の職場となった。奇遇である。

祖父はヘビースモーカーだった。「いこい」とカートンで買ってきて、すぱすぱ吸っていた。居間の天井は、鈍い黄色に染まっていた。当然といえば当然だが、食道癌になった。入院したが、全身に転移した後だった。
祖父が亡くなったのは、昭和44年4月19日。享年69歳。季節外れの大雪が降った年だ。

入院生活は半年以上も続いた。祖父は「死ぬなら自宅で死にたい」と言いだし、無理に退院することになった。身体のあっちこっちを切り、検査していることを、祖父は「実験材料にされている」とこぼした。
19センチの積雪の中、祖母と私は、祖父を抱えるようにして家にたどり着いた。
恰幅のいい祖父がげっそりやせ細っていたことは、少しばかりの思いやりだったのかも知れない。

「身体が良くなったら、もう一度東京湾で釣りがしたい・・・」というのが、祖父の口癖だった。しかし、自宅に帰ってからは、痰が喉に絡むことが多く。祖父はほとんど口を聞かなくなった。

人が生きていくために苦労することはやむを得ない、しかし、死ぬためにこんなに苦労しなければならないのか、とつくづく思った。
ある晩、祖母が寝ていた私を起こし、「おじいさんが死んだよ。私が先でなくて、良かったね」と言った。本当に気丈な祖母だった。

私は祖父によく似ているといわれている。だから、死ぬのは69歳のときになると、取りあえず決めている。この年、東京に季節外れの大雪は降るはずだ。
でも、ここんところ温暖化がひどいんでねぇ・・・。無理かなぁ。

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下神明の屋台は、廃業後、その地の人に引き継がれた。
お客がいるのに廃業するのはもったいないということだった。
固定客が付いたとみえて、しばらくしてから屋台をやめ、自宅の一部を改造して「双葉」というスナックを開いたらしい。

今では、そのスナックもやめてしまったが、先日通りかかったとき、その家の玄関の上に、ペンキで塗りつぶした「双葉」の文字を見つけた。

まだ、私の子供時代の痕跡は、消え失せてはいなかった。

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