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駅裏の屋台引き(昭和39年~昭和49年) | |
![]() 昭和40年代に入り、三つ叉商店街は区画整理することとなった。 東急大井町線下神明駅の改札を出ると、すぐ右脇に、駅の裏手に下る路地があった。 それと平行して、祖父の健康状態が、日増しに悪くなり始めた。 おでんの屋台を引っ張っていく仕事は、もっぱら私の仕事になった。 宇多田ヒカルの母親(藤圭子)の歌が流行っていた。 ************ 繁華街から駅裏に移転して、おでん屋の客層は大きく変わった。 たまたま来ていた近所のパン屋さんのオジサンが、「俺に任せてくれ」と言って、そのチンピラをどこかに連れて行った。 聞くところによると、パン屋のオジサンは、昔、極道の世界にいたらしい。 パン屋のオジサンもそういう人の一人だった。とはいえ、とても助かった。 ************ 勘定を踏み倒す客もいる。 そういうお客は頭がいい。 次に来たときは、開口一番「こないだは悪かったね。取りあえずツケを払わせてくれ」と言って、前回の借金を払い、飲んでいく。でも最後にはツケになる。 祖母は、「あの人、もう来ないからね・・・」と言った。祖母には何もかもお見通しだった。 小学生だった私は、「人は信用できない」と、肝に銘じた。 ************ ある独身中年は、テレビを4台持っていると、いつも回りの客に自慢していた。 今の人には分からないかも知れないので、説明を加えておくが、当時は白黒テレビでもかなりの財産だった。どこの家庭でも、苦労してお金を貯めて買った。それを4台ももっていれば、十分自慢ができた。 だから、おじちゃんは「オレはテレビを4台もっているんだぞ」と酔って、いつも女性客に言っていた。 ************ 休みの日に、我が家まで飲みにやってくる客もいた。祖母は丁寧に対応していたが、さすがに高齢であり、客が帰るとぐったりと疲れた様子だった。 いろいろな客が来たが、毎週のようにやってくるのは、決まって独身の中高年男性だった。 その後、労働相談の仕事をしてみて、やはり思った。 ************ おでん屋の屋台を引く小学生は、近所でも有名になった。「この子は偉くなるよ」と言われた。 とはいえ、小学校6年生のとき、私は「品川区立三木小学校三栄子供会」の子供会長に推挙された。 ************ 中学を卒業して就職するつもりだった。貧乏だから当然だと思った。祖母もそう思っていた。
私は中学で働きに出る。人生も「中学卒業でいったん終わりだ」と考えていた。 正直、「普通の人達のように生きたい」という気持ちはあった。 ベトナム戦争があり、学生運動が盛んな時代だった。 ************ 祖父が、旗の台の昭和医大に入院した。私が小学校6年生のときだ。 祖父はヘビースモーカーだった。「いこい」とカートンで買ってきて、すぱすぱ吸っていた。居間の天井は、鈍い黄色に染まっていた。当然といえば当然だが、食道癌になった。入院したが、全身に転移した後だった。 入院生活は半年以上も続いた。祖父は「死ぬなら自宅で死にたい」と言いだし、無理に退院することになった。身体のあっちこっちを切り、検査していることを、祖父は「実験材料にされている」とこぼした。 「身体が良くなったら、もう一度東京湾で釣りがしたい・・・」というのが、祖父の口癖だった。しかし、自宅に帰ってからは、痰が喉に絡むことが多く。祖父はほとんど口を聞かなくなった。 人が生きていくために苦労することはやむを得ない、しかし、死ぬためにこんなに苦労しなければならないのか、とつくづく思った。 私は祖父によく似ているといわれている。だから、死ぬのは69歳のときになると、取りあえず決めている。この年、東京に季節外れの大雪は降るはずだ。 ************ 下神明の屋台は、廃業後、その地の人に引き継がれた。 今では、そのスナックもやめてしまったが、先日通りかかったとき、その家の玄関の上に、ペンキで塗りつぶした「双葉」の文字を見つけた。 まだ、私の子供時代の痕跡は、消え失せてはいなかった。 |