空想世界への逃避(昭和44年~)
ワープワンで前進

空想好きな私は、日曜午後4時からの宇宙大作戦(スタートレック)にはまっていた。日曜の4時からの放送枠だった。私は、家業の手伝いをそっちのけで、テレビに釘付けになっていた。
現代では、この種の人を、“トレッキー”と呼ぶ。

************

enterprise

宇宙船エンタープライズ号のカーク船長は、いわゆる鈍感力を持ったアバウトな人で、女ったらしだった。
科学士官のスポックは理論好きで皮肉屋だった(実は情に流されやすい)。
医者のマッコイは、頑固親父だった。
この3人のやり取りは、すばらしい。

例えば、こうだ。

カーク:「ミスタースポック。現状から判断して、脱出する可能性はあるか?」
スポック:「私の計算では、本船は99.97パーセントの可能性で、惑星と衝突します。」(右の眉毛を上げる)
カーク:「では、0.03パーセントで助かる可能性があるというのだな。」
スポック:「正確には、0.0254パーセントになりますが・・・。」
マッコイ:「スポック。オマエってヤツは、どうしてこんなときに、そんなに冷静でいられるんだ。」
スポック:「ドクター、私は、あくまでも論理的に計算した結果を提示したまでです。」
カーク:「まぁいい。その0.025なんとかに、賭けようじゃないか。ミスターカトー、惑星回避コースに進路をとれ。」

************

また、機関部門には天才的なエンジニアといわれていたチャーリー(原版ではスコット)がいた。
彼ははったり屋である。
例えば、船が敵の攻撃でダメージを受けた。

カーク:「チャーリー、航行可能になるまで、どれくらいかかる?」
チャーリー:「船長、かなりやられています。どうにか動くようになるまでに8時間は必要です。」
カーク:「よくわかった。だが、何とかそれを4時間で、やってほしいんだ。」
チャーリー:「わかりました、船長。何とか努力してみます。」
(通信を終えて、周囲の部下に)
チャーリー:「おい、お前達。船長の言葉を聞いたな。それじゃあ、“2時間”でやっつけろ。」
(2時間後)
チャーリー:「船長、何とかエンジンは復旧しましたが、まだ、完全ではありません。」
カーク:「よくやった、チャーリー。感謝するぞ。ミスターカトー、予定のコースをワープワンで前進。」

チャーリーのハッタリは、船中皆が知っている。
しかし、外部の者が見れば、手品師のような天才エンジニアということになる。

************

彼らの行動パターンは、私に強く影響を残している。

今でも、何かの判断を求められるとき、カークだったら、あるいは、D型エンタープライズのピカードであったらどう判断するかと、考えることがある。

************

なお、スタートレックの「キャプテン」は、最初の吹き替えでは「船長」となっているが、その後は、「艦長」と直された。
あの時代には、反戦運動が盛んで、横須賀に“エンタープライズ”(本物の原子力空母)が来るということで、デモが起こっていた。
軍隊的なイメージを薄めるため、あえて船長としたとのことである。

空想の世界に、紛れもない現実が、影を落としていた。

************

アルカディア号

松本零士にも、はまった。
まだ、ヤマトと999でブレークする前だ。
戦記物も良かった。とくに、メカの描写が細かいところが、量産型の漫画家とは違っていた。

キャプテンハーロックは、男の理想だと思った。
あんな風になりたいと、いつも思ってきたし、今でも憧れる。しかし、気がつくとヤッタランになっていた (これが分かる人はオタクだ。写真はハセガワクリエーターワークスのプラモデルを実景に合成したもの)。

一連の四畳半ものも、よく読んだ。
作者ご自身の分身と思われる主人公が、理由はよくわからないものの絶世の美女に、なぜかモテる。そして、最後はフラれる。
私にとってはSF以上に現実離れしていたが、その主人公に自分を重ね合わせ、「こんなだったらいいなぁ」と思った。

************

モンローとヘップバーン。

私たちよりも少し年上の世代になるが、男性陣の好みは、おおよそこの2つのタイプに分かれる。
とりわけ、日本人にはオードリー・ヘップバーンの支持者が多いようで、私もその一人だった。
部屋のカレンダーは、ヘップバーンと決めていた。

中学の卒業式の後の休みに、はじめて「ローマの休日」を観た。感動だった。
そして、心に決めた。
「やっぱ、ラストシーンで、男は、愛する女性のため、後ろ姿で去って行かなきゃならない」

その後、カサブランカを観て、それを再確認した。
以来ずっと、私はこの誓いを励行し、いつも後ろ姿で去っている。もちろん、だれも呼び止めてはくれない。
おかげで、背中を丸めて、両手をポケットに入れたままトボトボ歩くくせが、抜けなくなった。

そんな流れで、映画館に通うことが多くなった。
退職後も映画はよく見る。1年で20本は越える。

当時、渋谷には東急名画座と全線座という安い映画館があり、名画座は200円、全線座は300円で古い映画が観られた。 まだ、世間のこともよく分からない時代だったが、「愛情物語」とか「慕情」とかを、そこで観た。
就職後も、夜中のスナックでよく「Love Is A Many-Splendored Thing」を歌ったが、その頃の影響である。

そして関心事は、映画そのものから映画音楽に移り、「エデンに東」「ララのテーマ(ドクトルジバゴ)」「アラビアのロレンス」「見果てぬ夢(ラマンチャの男)」「タラのテーマ(風と共に去りぬ)」「虹の彼方に(オズの魔法使い)」など、好んで聞いた。

************

テレビでは、「奥様は18歳」というのが放送されていて、岡崎友紀がお気に入りだった。とはいえ、自分よりは少し年上。ぼちぼち同年代のアイドルが出てくるなと期待が膨らんでいたが、どっと年下の山口百恵らに乗り変わった。私たちは、同じ年のアイドルがいない、悲しい世代だ。

空想の世界では羽を伸ばして、厳しい現実との間のバランスを取っていた、ともいえる。

次のページへ→

自分年代史に戻る→

トップページに戻る→