高校時代(昭和47年~49年)
集団の中の孤独

中学の時、ちょっとしたイジメに会っていた。
担任が何かと私を特別扱いした。座席表の私の名前には「天領下」と書かれた。「津田迫害同盟」というのができた。いわゆる悪ガキではなく、成績の良い子たちが、そのメンバーだ。
そんな折、同級生Sに急に背中から飛びかかられ、倒れた拍子に、彼がケガをした。唇を数針も縫った。けれど、私は謝らなかった。謝る理由がないと思った。
別の同級生からは、「オマエがそんなヤツだと思わなかったよ」と、言い捨てるように言われた。
自分にとって、生涯の後悔になっている。
人を傷つけたのは、このときだけだ。しかし、やっぱり、謝る理由はないと思っている。

なぜ担任が私を特別視していたかを知っていた生徒は、私をイジメはしなかった。
その仲間とは今でも交流がある。

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高校進学は考えていなかった。
私も、私の祖母も、大崎中学校を卒業したら仕事に就いて、お金を稼ぐ気持ちになっていた。
昭和40年代といえど、中卒で働く者はほとんどいない時代だ。
中学校3年の担任だったF先生は、わざわざ我が家まで出向いてくれて、「せめて高校まではいかせてあげてください」と、祖母を説得した。私にとっては青天の霹靂だった。
正直言って、高校へは行きたかった。しかし、そういうことを考えるとつらいので、あえて考えないようにしていた。

「我が家にはお金はない。都立高校なら行ってもいいが、どこまで頑張れるかはわからない」というのが祖母の返答だった。

以来、私は、しこしこ勉強をし、都立の14群の田園調布高校(当時は、学校群制度だった)に入学した。
後に歌で有名になった「桜坂」の近くの高校だ。

新幹線の線路が近いということで優遇されていたのか、私たちの校舎はすべて冷暖房完備だった。
当時は新築の校舎だったが、今ではもうない。
随分時が流れたことを実感する。

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回りから応援されて入学した高校だったが、私にとっては、ここでも、どこか異国に来たような毎日だった。
高校1年の担任だったK先生は、早々に、私たちにこう訓話した。
「皆さんは、例年にない高い倍率の中を合格した。ほっとしていることだろう。しかし、競争は今日から始まっている。気持ちを引き締めて、頑張って欲しい」

それを聞いて、私は「間違った所へ来た」と感じた。私には、大学進学という選択肢はないのだ。
(この「間違った所へ来た」という感覚は、都庁に採用されたときも感じた。詳しくは後述)

実際、卒業後就職を予定していたのはクラスの中で2人だけだった。
本当なら、高校は青春のまっただ中だ。
しかし、私の居場所はそこにはなかった――、それが高校の3年間だ。

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周囲から隔離されたような状況だった。
SFで、ある日突然、街中が宇宙人になってしまう、そんな話はよくある。これとよく似た感覚だった。

クラスメートは、やれクラブ活動だ、やれサークルだと、浮かれていた。

高校には男子より女子の方がたくさんいた。色恋沙汰の一つもあっていいのだが、女子高生を恋愛対象と認識できなかった。彼女らは大学へ行く、私は、ここで終わりだ。
しょせん身分が違うのだ。「ローマの休日」のラストシーンが、頭の中でリフレインしていた。

勉強も試験も特段好きな方でもなかったが、「いずれは、クラスメートから置いていかれる。同等に競えるのは今だけだ」という悲壮な思いから、私は勉強した。
「せめて今のうちだけ、一歩でも二歩でも、クラスメートより前に出たい」という切迫感が、私のエネルギーだった。
結果、そこそこの成績をあげられた。

クラブ活動もせず、毎日定時に下校する私に対してクラスメートは「進学最優先のガリ勉」と、冷ややかだった。
「アイツはいい大学を狙っているんだぜ」という陰口が、今にも聞こえてきそうだった。
こっちは、これから帰って、屋台をひっぱるんだよと言いたかったが、プライドが許さなかった。

中学の同級生は皆地元人だったから、弁解しなくても何となく皆、私の実情を知っていた。
高校の友人には立ち入った話をする相手は少ない。

改めて中学時代の良さを実感した。

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高校の卒業旅行で、私たちは山口県に行った。

宿の屋上で、数人の男子生徒が夜空を眺めながら、「オレたち、これからどういう生き方をするんだろうな」と話合った。
「オマエはどこの大学に行く?」という話になったので、そのときはじめて、私は、自分の実情を周囲に告白した。
彼らは少なからず驚いたようだった。

その中に親交を深めた友人もいる。
後日、東急リバブルに勤務するようになるTには、たいへん助けられることになった(詳しくは後述)。

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私が高校へ入ることになると、祖母も80歳を越えていた。
さすがに病気がちになり、おでん屋もやったりやらなかったり、という日々になっていた。
卒業が間近になったころ、下神明の屋台のおでん屋「双葉」も、店をたたむことにした。

昭和46年、円が変動相場制になり、高度成長にブレーキがかかった。それが、私の就職に影を落とした。

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