都庁に就職できない(昭和50年) | |
高校も終盤になって、いよいよ真剣に就職を考えなくてはならなくなった。 そんな折り、高3の担任だったY先生が、都立大の夜学に行かないかと水を向けてきた。 ************ 入学金は2,000円!(都内在住だと割引があった)、学費は1年間で1万5千円。入学当初に半年分の学費と入学金を払っても1万円でおつりが
きた。今の新採に、この話をすると驚く。 これを革新都政(昭和42年誕生)のすばらしい成果と見るか、世間水準を無視した人気取りとみるかは別として、安くてとても助かった。 ************ 望んでも得られないものに対して、人は憎悪を抱く。 私の入学前に、デモ中の学生と相対するセクトの学生とが小競り合いになり、竹槍で目を刺されて失明するという事件があったと聞いた(※注:真偽のほどわからない)。 ************ その後、学費はどんどん上がり、私の在学中に年20万円を超えた。 論断に立った学生が「自分はほとんど大学に来てなかったが、今回、学費が上がると聞いて、立ち上がりました」と演説するのを聞いて、席を立った。 学生と大学側との集会にも出たが、学生部長の籾井常喜教授は、さすがに労働法の専門であり、学生側の首長に微動だにせずに言った。 私はそこで手を上げてもいいのだったが、教授の勢いに押さえれたのと、私自身、その通りだと思っていたのとで、挙手しなかった。 (←写真は今の都立大跡地。目黒区民の学習センターになっている) ************ 祖母がこれまで不安定な生活をしてきたので、私には「安定」を求めた。 祖母の余命は、長くても後、数年。だったら、その間は祖母の意思を尊重しよう。それが、ここまで育ててもらった者としての、最低限の償いだ、と思った。 安定した職業は何か?――公務員だった。だから、都庁に就職しようと思った。 今でこそ公務員は就職先として憧れの職場だが、当時は、そういう高い評価は受けていなかった。 それに、民間企業には大卒のエリートがたくさんいるはずだ。とても太刀打ちできないとも、判断していた。 諦めたあげくに、残った選択肢「都庁」だった。 ************ 昭和49年以前、東京都と特別区の採用試験は一体で運営されていた。 そして、こうした方法ではいけないという機運が、当時の地方自治の拡大の中からも、生じるようになった。 ************ 私は、東京都に決めた。より広い範囲をカバーする自治体の方が、自分の可能性が広がるのではないかと思った。 運良く採用候補者名簿には載った。 都庁の財政状況は急速に悪化していた。その反面、高度成長期にたくさん採用したため、職員はだぶついていた。 ************ おでん屋はもう廃業していた。 正直なところ、都庁を恨んで首をつってやろうかと思った。 だけど、高齢の祖母を残してそんなことはできなかった。 後日、「東京都人事委員会30年のあゆみ」という本を読んだとき、当時の私たちのことが書かれており、「あまりにもひどいという意見が多かったことから、このとき1度だけの取り扱いになった」
という、事情を知った。 ************ 何とか食いつないでいかなければならないので、私は知り合いの何人かに相談した。 安井とは、何代か前の都知事、安井誠一郎のことである。 その理事の一人が「どうせ都庁に勤めるのだから、都庁関係の仕事でアルバイトしてみないか。たまたま、芝浦の屠場で空きがあるから、紹介しますよ」と、手をさしのべてくれた。 こうしたことから、私は芝浦の東京都食肉供給公社でアルバイトをすることになる。 |