都庁に就職できない(昭和50年)
進学できたのに、就職できない

高校も終盤になって、いよいよ真剣に就職を考えなくてはならなくなった。

そんな折り、高3の担任だったY先生が、都立大の夜学に行かないかと水を向けてきた。
Y先生も、都立大のOBだった。
「学費が安いから、受けてみるだけ受けたらどうか」と言われた。それなら受けてみようと思った。
行けるところまで行って、ダメなら退学すればいいや、教養教室くらいに考えればいい、と思った。
だが、運良く、合格した(※もちろん勉強はしたが・・・)。

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入学金は2,000円!(都内在住だと割引があった)、学費は1年間で1万5千円。入学当初に半年分の学費と入学金を払っても1万円でおつりが きた。今の新採に、この話をすると驚く。
もっとも、1万円といったって初任給が6万円の時代だから、貧乏暮らしの我々には楽に捻出できる額ではなかったのだが。

これを革新都政(昭和42年誕生)のすばらしい成果と見るか、世間水準を無視した人気取りとみるかは別として、安くてとても助かった。

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望んでも得られないものに対して、人は憎悪を抱く。

私の入学前に、デモ中の学生と相対するセクトの学生とが小競り合いになり、竹槍で目を刺されて失明するという事件があったと聞いた(※注:真偽のほどわからない)。
とはいえ私は、イデオロギーには関心がなく。
学生紛争に明け暮れる大学も、親のすねをかじってろくに勉強しない大学生も、軽蔑していた。
そして、そういった大学生の仲間に入ることには抵抗があった
私は今でも、自らを大卒だとは認めたくない。
単なるコンプレックスかもしれないが、根は深い。

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その後、学費はどんどん上がり、私の在学中に年20万円を超えた。
政治活動に熱心なクラスメイトの「大事な時なのでどうしても出てほしい」との誘いで、「学費値上げ反対」の学生集会にも出た。

論断に立った学生が「自分はほとんど大学に来てなかったが、今回、学費が上がると聞いて、立ち上がりました」と演説するのを聞いて、席を立った。
「おい、帰るなよ」という声が、背中から聞こえた。耐えられなかった。そういうヤツが、大学をダメにしてきたんだ。
世の中には、進学したくてもできない人もいる。だがら、運良く大学に行けたなら行って勉強をすべきだ。それは権利ではない。義務だ。

学生と大学側との集会にも出たが、学生部長の籾井常喜教授は、さすがに労働法の専門であり、学生側の首長に微動だにせずに言った。
「この中に、学費が安いからといって、本学を選んだ学生はいるのか。あれこれ受けて、最終的に、ここを選択しただけではないのか。」と、我々を見据えた。

私はそこで手を上げてもいいのだったが、教授の勢いに押さえれたのと、私自身、その通りだと思っていたのとで、挙手しなかった。 都立大跡地

(←写真は今の都立大跡地。目黒区民の学習センターになっている)

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祖母がこれまで不安定な生活をしてきたので、私には「安定」を求めた。

祖母の余命は、長くても後、数年。だったら、その間は祖母の意思を尊重しよう。それが、ここまで育ててもらった者としての、最低限の償いだ、と思った。

安定した職業は何か?――公務員だった。だから、都庁に就職しようと思った。

今でこそ公務員は就職先として憧れの職場だが、当時は、そういう高い評価は受けていなかった。
「おまえは融通が利かないから、公務員にでもなったらいいんじゃないか」と、よく言われた。
いつしか、私は当然のように「公務員くらいにしかなれない」と、心を決めていた。

それに、民間企業には大卒のエリートがたくさんいるはずだ。とても太刀打ちできないとも、判断していた。

諦めたあげくに、残った選択肢「都庁」だった。
東京都には、たいへん失礼かと思うが、要するにここしか残らなかったのだ。

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昭和49年以前、東京都と特別区の採用試験は一体で運営されていた。
受験生は最初の職場が「都」になるか「区」になるか、わからない。
合格した者が、都と区に割り振られた。
都の方が広域行政なので、区に行った者には不満が残る。

そして、こうした方法ではいけないという機運が、当時の地方自治の拡大の中からも、生じるようになった。
私が就職試験を受けた昭和50年に、地方自治制度の拡充強化の結果として、都と区の試験が分けられた。
試験日は同じ。だから、どちらか一つしか受けられない。

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私は、東京都に決めた。より広い範囲をカバーする自治体の方が、自分の可能性が広がるのではないかと思った。
この判断は半分正しく、半分間違っていた。

運良く採用候補者名簿には載った。
しかし、昭和50年2月、都庁から「4月には採用できないが、どうするか?」という、往復はがきがきた。

都庁の財政状況は急速に悪化していた。その反面、高度成長期にたくさん採用したため、職員はだぶついていた。
役所は採用候補者の名簿登載方式であって、採用試験に合格したからといって、採用内定したわけではない。これが簡単に採用延期にできるという論拠となっていた(個人的には、かなり無理のある論理だと思う)。

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おでん屋はもう廃業していた。
ひどい。生活できない。

正直なところ、都庁を恨んで首をつってやろうかと思った。
そうすればニュースになって、都庁も考えを改めるだろう。
私はちっぽけな人間であり、このまま都庁に入っても、ただの無名の職員として消えていくだけだ。しかし、ここで一発、派手な抗議行動を取ってニュースになれば、自分の存在は歴史に刻まれる・・・。
かなり本気で、そう考えた。

だけど、高齢の祖母を残してそんなことはできなかった。

後日、「東京都人事委員会30年のあゆみ」という本を読んだとき、当時の私たちのことが書かれており、「あまりにもひどいという意見が多かったことから、このとき1度だけの取り扱いになった」 という、事情を知った。
今後の東京都の歴史にも、ずっと「1度だけ」の記述で、残っていってほしいものだ。

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何とか食いつないでいかなければならないので、私は知り合いの何人かに相談した。
たまたま高校時代に私が受けていた奨学金は「安井育英会」というところからのものだった。

安井とは、何代か前の都知事、安井誠一郎のことである。
安井知事は退職に際して、自分の退職金を基金として育英会を立ち上げていた。それが、安井育英会だ。
単にお金を配るというのではなく、あれこれ精神的な面や生活などに目配りをしようという育英事業だった。

その理事の一人が「どうせ都庁に勤めるのだから、都庁関係の仕事でアルバイトしてみないか。たまたま、芝浦の屠場で空きがあるから、紹介しますよ」と、手をさしのべてくれた。

こうしたことから、私は芝浦の東京都食肉供給公社でアルバイトをすることになる。

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