食肉供給公社は、東京に住む人に牛・豚の食用肉を供給する仕事をしている。
他県で肉にされて運ばれるものもあったが、当時は、芝浦へ生きたまま運ばれるものも多かった。
ここでアルバイトの空きがあったのは、新規採用職員が、採用初日に辞めてしまったからだ。
朝、採用辞令をもらって、現場見学をした際、豚の死体が並んでいるのを見て、「私はここでは働けません」と言って、辞めてしまったということだった。
完全週休二日でアルバイト賃金は月9万円。昭和50年当時としては、収入面ではひじょうに良い待遇だった。
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私の仕事は、前室で、「と殺」されてきた豚肉の重さを量る仕事だった。
現場では“カンカン”と呼ばれていた。
前室では肉の鑑定が行われていて、特上・上・並・等外の検印が押されていた。
豚は頭・内臓・足先・皮を除かれ、左右2枚の肉になって、天井のレールにぶら下がって流れてくる。さわると、まだ体温が残ったままだ。
私の前のレールには、一部凹みになっていて、流れてきた豚肉がガッタンとそこに乗ると、目の前の計量計の針が重さを示す。
量りの針が示した重さから、水分相当部分(“水引き”と呼んでいた。70kgの豚で1.5kgくらいだったと思う)を引いた重量を、
藍色のインクで、胴体の内側に書き込むのが私の仕事だった。
当時は、このラインが4つあって、私はの一つを担当していた。
昭和50年4月~6月に東京都に住んでいた人なら、たぶん、私の手を通った豚肉を食べていたはずだ。
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このカンカンが午前の仕事で、午後は事務作業になる。
他県から送られてくる枝肉の頭数を表に書き込み、そろばんで計算して集計していた。
コピー取りもした。ジアゾ湿式(いわゆる青焼)のコピーで、1枚1枚焼かなければならない。
コピー機に付きっきりで何時間も過ごしたこともあった。
仕事が5時に終わると、そこから夜学だ。家に帰るのは10時過ぎ。ここから、翌日の語学の予習になる。
いやぁ、なかなか辛い毎日だった。肉の臭いが身体にまとわりついているような気がして、食欲が失せた。 3か月のアルバイトで、体重は6キロ減った。
職場の人たちがいい人で、それが救いではあったが・・・。
「いっそのこと、食肉公社の正社員になったらどうか。ボーナスも出るし」と勧められた。
「あくまでもアルバイトでいたい」と言って、断った。
(この感覚は、最後の職場での「あくまでも非常勤職員なので」という意識に近い)
それだけに、都庁から採用するという通知が来たときには、うれしかった。
7月の第1週でアルバイトを終え、最後に芝浦の公社の門を去るとき、涙が出た。
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私が都庁に就職したのは、昭和50年7月16日。
行ってみてびっくりした。職員があまりにも、のんべんだらりとしていたのだ。
後になってわかったが、当日は給料の支給日。当時は現金支給だった。
一息ついて談笑していたのだろう。
しかし、私は腹が立った。
「こんなに余裕があるのに、どうして自分たちは今日まで採用延期だったのだろう」
そのうえさらに、(1)大卒の人間は4月に採用されていたこと、(2)わずか1日の違いで冬のボーナスが1割減らされることになっていること、(3)同日の試験で特別区を受ければ採用延期にならないですんでいたこと、などを知った。
私は「役所は弱い人を助けてくれるところ」だと思っていた(事実、両親がいないということで、品川区の社会福祉部門にはたいへんお世話になった)。
しかしその頃はまだ右も左もわからず、いろいろなことを知るにつれ、立場の弱い「もの言えぬ」人に負担をかぶせるのが役所だ、と感じた。
「間違ったところに就職した」と思った。
そして「いつかは辞めてやる」とも考えた。実際にそうできたのは36年後だったが・・・・。
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都庁の就職は、なかなかうまくいかなかったが、大学での勉強は順調だった。
友人は、海だスキーだといって青春を謳歌していたが、お金がない私にとって、勉強していることが、一番の節約だった。
大学1年の学園祭、クラスでも演劇をやろうということになり、主役に抜擢された。
小学校1年生以来の主役だった。
題目は、筒井康隆作の「四谷怪談」。原作でいう田宮伊右衛門の役。何のことはない、たたられる役どころだった。
昼間仕事をし、夜授業に出、その後、クラスの仲間と台詞の読み合わせをした。
今じゃ、とてもできない。
役回りで、前妻にクラスメートのS子、後妻にK子が配役された。
二人ともなかなかの美人だった。それが役得だった(注:こう書かないと怒られそうだ)。
でも、まぁ、今振り返ると、このときが「青春」といえば「青春」だったのかな、と思う。
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