最初の職場は渋谷公園通り(昭和50年)
遊びに来る街が、仕事場だなんて・・・
渋谷勤福

私の最初の職場は、渋谷労政事務所だった。当時、事務所は、東京都渋谷勤労福祉会館の1階にあった。
その建物は、今では「トーキョーワンダーサイト渋谷」となり、 さらに「Tokyo Arts and Space」となって現在に至る。

国鉄渋谷駅から、渋谷区役所・渋谷公会堂・NHKへ至る道に、西武パルコの1店目ができた。
区役所通りが「公園通り」に名前が変わった頃だ(PARCO=公園から来た名前だという説がある)。
渋谷の街は高校時代から知っていた。当時、東急名画座と全線座という安い映画館があって、何回か行ったことがあったからだ。300円くらいで、リバイバル映画の2本立てが見られた。

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私が都立大の夜学に通っているので、人事当局が、近くの職場を提供してくれたらしい。
同期のI君は、変則勤務職場の東京都勤労福祉会館に配属された。普通だと高卒の新採はそういったところに張り付けられたらしい。
ある意味、都庁の採用が遅れたのが幸いしたともいえる。

私はまだ18歳。遊びたい盛りだ。そして、道歩く人は皆同年代で、遊びに来ている人たちだ。
同じ年齢層なのに・・・と、ギャップを感じた。
襟のない事務服がダサいので、目の前のポストに郵便物を出しに行くときでも、事務服を脱いで行った。当時は、事務服や制服というのが、官給品で支給されていた。

余裕のある時代だった。その後2人に減らされた係に、当時は6人も職員が配置されていた。
仕事の奪い合いだ。だから、一番新米の私に、ちゃんとした仕事なんてこない。
とはいえ、休暇は少ない。中途採用の私の休暇は10日だけだった。
職場の先輩から、「最初はできるだけ休暇は残した方がいいよ」と言われ、10日全部残した。3年目には使わずに捨てる休暇がでるとは思わなかった。
でも、休んでもお金がかかるだけだ。クーラーの効いた職場にいる方がいい。 代々木

昼休みには代々木のプールにダッシュして行き、一泳ぎしてから地下のボイラー室に海水パンツを干し、午後は事務室でぐったり・・・と、かなりきわどいこともした。
今じゃとても許されない。

宴会で余興をやれと言われた。これといった芸のない私は。およげたいやきくんを歌ったら、ウケた。ピンクレディーのペッパー警部が流行っていたので、振り付きで歌ったら、もっとウケた。
次はUFOだね、次はサウスポーだねって言われて、振りがだんだん難しくなってくるので苦労した。
この時代は、まだビデオというものが出回っていない。したがって、テレビのレギュラー番組を見て、覚えるしかないのだ。

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私の仕事は庶務。いわゆる雑用だ。日課は出勤簿管理。
実はこれがかなりややこしい仕事だった。
まず第一に「出勤整理時間」というのがあって、本来の出勤は8時45分なのだが、8時45分から9時までの15分間は公然と遅刻が認められていた。出勤整理時間に出勤した職員は、出勤簿に押印することは許され、賃金はカットされなかった。
その代わり、出勤簿に鉛筆でチェックが入れられ(ヒゲと呼ばれた)、「もっと早めに出勤しろよ」という無言の圧力がかけられた。だから、出勤簿担当の私は、他の職員からかなり煙たがられたわけなのだ。

当時は労働組合がとても強くて、“既得権”というのが幅をきかせていた。
既得権を事実上容認させ、制度化させるというのが、労働組合運動の基本となっていた。
えらく古い法律(大正11年閣令第6号)で官庁執務時間は8時30分から5時と決められていて、それ以外はかなりルーズな管理がなされていた。
規則では午前・午後に15分間の休憩時間が取れることとなっていたが、これが事実上取れない。だから、その配分を変えて、やりくりできるようにしたのである。

しかし、これには別の背景がある。
東京都も含め、公務員には残業代が全額払われなかった。つい最近まで、そういう実態であった。
これは明らかに法律違反である。まったくもってブラック職場である。労働問題に携わる者ならば、誰でもそのことを知っている。だから、こうした実態を背景に、労働組合は当局に、いろんな要求を突きつけたのだ。
当時の私は、「残業代が全額出ないなんて、当たり前」だと思っていた。だから、ルーズな時間管理が許せなかった。(後日、サービス残業の洗礼を自分が思い切り受けることになるとは、思ってもみなかったが・・・)

なお、現在の勤務時間管理は、きわめて多種多様になってしまっていて、曖昧さは排除されている。むしろ、融通が利かなすぎるくらいだ。
超過勤務手当もちゃんと出るようだ(たぶん。そう信じたい)。

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その他、「母の家・福祉リーダー」が担当だった。

どんな仕事だったかを説明する前に、当時の社会事情を話さなければならない。
昭和30年代以降の高度成長期、地方から東京に多くの集団就職者が来た。「若い根っこの会」(昭和32年設立)などができたのも、この頃だ。
集団就職の若者たちは、個々の中小企業に就職したが、若い人達が集う場所がない。
そうした状況から、都内各地に「勤労福祉会館」が建設された。
八丁堀に大講堂や宿泊施設の併設された東京都勤労福祉会館が出来たのが昭和40年代初頭。
当時、都の財政状況の良く、次々と勤労福祉会館が建設された。
「労働省」が、とても元気だった頃で、週休二日制の普及が強く求められていた。
ボウリングブームもあって、ボウリング場を併設する施設(目黒・五日市・新島など)もあった。
計画では、勤労福祉会館は各区市町村に1つずつ作られるはずだった。

街の慈善家には、こうした若人の世話焼きを買って出る人もいた。自宅を開放して、打合せなどに利用させてくれていた。
母の家・福祉リーダーは、役所が公式にそれを認め、費用面での援助をしようとしたものだ。
活動状況の報告を受け、応分の薄謝を支払う。

しかし、私が就職した50年には、すでに集団就職組も家庭を持つ年齢に達しており、一方、東京都の財政も悪化していた。
母の家の活動も少なくなっていた。だから、この事業も廃止対象となっていた。
最初に仕事の説明を受けた後、「この仕事は、今年度でおしまいだから・・・」と言われた。 

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中小企業集団の援助というのもあった。
区の商店街連合会や工業会を、“中小企業集団”に指定し、補助金を交付してセミナーなどを開催してもらい、勤労者の労働条件向上に繋げようとするものだ。
その仕事も、数年後の廃止が見込まれていた。

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勤労者レクリエーション大会というのもあった。
日頃交流の少ない中小企業の勤労者を集めて、元気回復を図ろうというものだ。
オリエンテーリング、ボウリング大会、版画教室、山歩き、折り紙教室、木目込み人形・・・いろいろやったなぁ。
オリエンテーリングの下見に高麗まで行って、道に迷って、やっとの思いで帰宅したり、運動が苦手なのに山歩き会で参加賞を背負って同行しなくてはならないはめになり、事前に足腰を鍛えたりした。
中小企業の従業員をレクリエーションに誘う事業には、もうひとつ隠された効果があった。他社の従業員と交流を持たせることで、労働条件の情報交換になることである。そうすることで、相対的に条件が低い会社の底上げを図ろうというのだ。
しかし、その仕事も廃止の流れになっていた。

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どうも私の担当する仕事は、近々、廃止になるようなものが多い。

廃止が決まった仕事を、やりたがる職員はいない。
だから、新採の私にまわってきた。
当時は「新採だから文句は言えないな」と思った。しかし、その後も、同じようなことが度々ある。
仕事が廃止されると、経験によって培ったノウハウは、大半が無駄になる。
私は、だんだんと仕事をするのが嫌になった。

実は、都庁の職員構成で、ピークになるのは2008年の退職者、つまり1948年生まれ。私はその8歳下だ。この団塊が、かなり大きな固まりになっていた。その反動から、私の後、10年くらいは職員採用がひじょうに少ない。
実際、私は採用から9年もの間、職場で一番若い職員だった。
そして、いちばん下っ端には、半端仕事しか、与えられない構造になっていた。「もうすぐ廃止」となる事業担当にはうってつけだ。

その後は、もっとひどくて、自分が最初の担当者であり、最後の担当者でもあることもある。
部下から、「きっとその仕事、係長一代限りですよ」と言われると、情けない。まるで私は、疫病神だ。私は、団塊の世代の後始末に苦しめられた。このことは、退職までの間の都庁生活に、何回も繰り返されることになる。

なお、一つだけ廃止されていない事業がある。
勤労者に対する施設利用や映画鑑賞の割引制度だ。今でも「JOY LAND事業」という名前で、続いている。

渋谷

それでも、振り返ってみると、渋谷での4年間は楽しかった。

最初のT所長は噂では名家の方という噂で、車で出勤することもあった。
次のk所長は病気がちで、すぐに異動になった。
毎週土曜日に、ミドリヤのボウリング場に誘ってくれたA所長。カラオケの楽しさを教えてくれたO所長(後に労働経済局長になる)。ずいぶんお世話になった。

上司のY係長は、子供がいないため、我が子のように可愛がってもらっていた。
Y係長は仕事のサボり方も教えてくれた。
当時、交換便といって、都庁に書類を取りに行くという仕事があった。私は進んでこれを買って出た。
帰り道、喫茶店に寄って仕事をサボった。サボったといっても、夜の授業の英単語を調べたりしていたのだが、もちろん今じゃ許されない。

「係長、ボクはいずれ日本の労働界に、年功序列制度も終身雇用制度もなくなると思いますよ。」
「そんなことはありえない。そうなれば社会が維持できなくなる。」
そんな議論を酒を飲みながら交わした。
Y係長は、数年前に鬼籍に入った。私があの世に行ったら、Y係長に会って言いたい。
「どうです、私の方が正しかったでしょう」と。

高卒の私にとって、中央、早稲田、一ツ橋と有名大学出がきら星のように居並ぶ職場は、壮観だった。
「この人たちの足下には、とても及ばないな」と思った。
よもや、この人たちより上役になることがあろうとは、想像だにできなかった。

隣に労働教育係というのがあり、30歳の中山弘子係長は管理職候補の才媛だった。
その後の新宿区長である。私の知人で、いちばん出世したのはこの人だ。

職場の暑気払いで「おでん会」をやる、ということになった。
すでに仕事を辞めて自宅にいる祖母が、「どうしてもウチのおでんを職場の皆さんに食べさせる」と言い出した。そうして振る舞ったおでんが、「双葉」最後の一食になった。

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「所のリーフレットのデザインをしてほしい」 ある日突然言われた。

前年まで事務所にはデザイナーとして玄人はだしのH主事がいたが、その年で退職し、独立開業という動きになっていた。H氏は今でも活躍中だ。
高卒、新採の私に、その大役はいささか酷だった。

「フレッシュな感覚で考えてほしい」――今ではかなりダサい表現だが、当時としては、新人に仕事を頼むときの“決まり文句”だった。

当時のPRリーフは三つ折りで、3つの係の事業が、それぞれ縦長で均等に記載されていた。これはこれで完成品だ。
無理して変える必要はないと思ったが、「変えろ」とのご用命だった。

そこで、係の事業内容を横長に記載することにした。
利用客の視線で考えると、利用頻度の高い事業を上に持っていった方がよかろう、と考えた。
当然、上に記載される係、中央に記載される係、下に記載される係が出る。
一番上が、労働相談を担当する係だった。

すると二番目に記載された労働教育係から、クレームが出た。
自係が一番上に来ないのに、納得できないらしい。

所長室から、「なんでこんな仕事を、新人に頼むのですか」、という声が聞こえてきた。
ん・・・そこまで言うなら、はなっから若造に頼まなければいいのに。

上司のY係長からあれこれ弁明をうけ、「まぁ、今日くらいはオトナの付き合いをしようじゃないか」と、飲み屋に連れていかれ、リーフレットは元のタテ割り型に戻った。

自分はどっちだってよかったが、「こんなことでもめている組織は長くはないな」とも感じた。
もちろん、将来自分がその事務所廃止に加担することになるとは、まったく思わずにいた。
まだ20歳前だったが、私の都庁嫌いがさらに進んだ。

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