労政事務所の歴史について
労政事務所って、何?(その2)

労政事務所(現、労働相談情報センター)について、当時、知名度は低かった。

現に私の生家から5分くらいのところに品川労政事務所があったが、東京都に就職するまで、その存在は知らなかった。
「近い職場は、定年前に異動希望しろ」と諸先輩から言われていたが、その前に廃止されてしまった。
その代わり、平成になってから、私は品川の歴史を受け継ぐ大崎労政事務所で働くことになる。
しかも退職前にその職場に舞い戻り、ま、ひどい目に遭った(詳しくは後述)。

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さて、労政事務所が出来たのは戦後間もなく、昭和22年4月17日である。

昭和22年といえば、労働関係の諸法制が整備された年だ(労働基準法昭和22年4月7日法律第49号、職業安定法昭和22年11月30日法律第141号)。
この法律の普及をどうするかが課題となった。

日本の民主化を進めるGHQは、労働組合の育成政策を進めた。
法の普及と組合の育成――労政事務所の最初の役割はそれだったようだ。

職員は紙芝居のようなもの(今ならパワーポイントなんだろうが)を持参して、従業員を集め、「労働組合を作らないと勤務条件は良くならないよ」、と諭して回ったらしい。

このルーツとその後の性格の変化が、東京都の労働政策の中では、長年に渡る議論の的となる。
昭和50年当時、古い労政マンは「労働組合育成こそ、所の重要な役割だ」と主張し、労政にいい印象をもっていない者は「未だにGHQの亡霊を背負っている」といって批判した。

自分たちが変わっていかなければならないのに、社会の方が一歩先んじて変わっていった。
「一昨日が正しいのか」「昨日が正しいのか」という議論が続き、「明日を先取りする」大切さを見失ってきた。その繰り返しの中で、労政は力を落としていく。

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事務所誕生後間もなく、日本は労働争議の多発期間に入る。ゼネスト等も企画され、一発触発の状況となった。それは、街中の中小企業でも同じだった。

会社は成長している。仕事は忙しくなっている。経営者は会社を大きくしたい。労働者は賃金を増やしたい。社会が成長する中では避けがたい現象だ。

賃上げ闘争で企業活動が休止すれば、企業経営に与える打撃は大きいし、収益も減る。経営者も労働者もそれは心得ている。したがって、どのあたりで手を打つか、腹の探り合いになる。
これを地域レベルでやろうというのが、労政事務所の次なる使命になった。

事務所内には「労政協議会」という会議が設置され、地域の有力な経営者と組合幹部が会して、議論を交わした。「労務研究会」なる、経営者向けの勉強会もできた。
また、刻一刻と変化する賃金交渉の状況を逐次調査するのも、労政事務所にとって重要な仕事になった。
交渉のためには会議室が必要だ。そこで、労政事務所には「労政会館」という会議室が併設された。
会社でできない内々の話し合いを、そこでさせようとしたのだ。

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時代が進むにつれて、賃上げ以外の労使紛争も増えてくるようになる。それだけ経済的にも豊になってきたということもいえよう。

昭和31年7月、私の生まれた年に、労政事務所内に労働相談所が設置された。
労働基準法の遵守に関しては、すでに国の労働基準監督署があった。しかし、監督署=警察である。

労使紛争には、法律解釈だけで云々できない要素も多い。したがって、もう少しマイルドな調整機関が必要となっていた。相談所設置前から、労政事務所にはそういった悩み事の申立てが寄せられていたらしい。

そこで、公式な相談窓口を置くこととなった。

当座は、労働基準監督署の職員が兼任していた。東京都の担当者が育成されるまでのつなぎとされていた。
国の監督官の下に、見習いとして都の若手職員が配属された。しかし、ここに一つの大きなウイークポイントがある。
国の労働行政職員は、生涯労働関係の仕事に従事する。しかし、都道府県の職員は人事異動によって、いろいろな職場を渡り歩く。
人事異動と専門家の育成は、矛盾するものなのだ。それが後年、仕事上最大の悩みになろうとは、思いもしなかった。

ゼネラリストかスペシャリストか――どんな組織にもついて回る課題である。
私は夜学の卒論のテーマにそれを選んだ。研究材料は目の前にいくらだってあった(参加型の観察研究をParticipant observationと呼ぶ)。
ずっと観察者でいたかった・・・・。

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相談所設置以降、労政事務所にとって「労働相談」は、ひじょうに大きな役割の一つになっていく。

労働相談所発足後1年間の相談件数は8,590件。それが平成になると5万件を超えるようになった。

いっぽう事務所の数は昭和31年9所、今では6所に減った(減った3所のうち2所に関与することになろうとは・・・)。1所あたりの負担は増え、相談担当は次から次からくる相談をこなすだけで、精一杯だ。

そのわりには、普及啓発や調査に比べると、相談業務はきちんと評価されていないように思う。
だから、私が局の総括担当のときに、「労働相談」を冠とする組織(労働相談情報センター)に名称が変わった。

私が「名前を変えよう」と言ったわけではない。
ところが、私が<歴史のある名前>を否定したごとく非難された。
そもそも「労政」というのは労務政策の略で、従業員管理の色合いが強い言葉だ。
正直なところ、「明日を先取りする」という機運を培うために、古い名前はもっと早く捨てておくべきだったと、思う。

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採用直後は仕事の中身を知らなかったので、「いつかは相談業務をやってみたい」と思っていた。
本当にやってみたら、一杯一杯だった(平成13年、14年。詳しくは後述)。
自分の悩みだけでも手一杯なのに、人の悩み事までかかえるなんて、よほどの人徳がなければできない。

かねてから私は、「労働相談業務はこれから管理職として成長する人に行わせるべきだ」と言っている。
あれほど世の中の実相を学ぶことのできる仕事は、ほかにはない。

例えばだ。私が相談をしていた当時は、景気が悪く、「突然の解雇や契約更新の停止」というのが目についた。しかし、景気が良くなり雇用緩和が進むと、「辞めたくても辞めさせてくれない」という相談が増える。そういう動きを、実に敏感に感じ取ることができるのが、第一線の相談窓口だ。

でも、最近は管理職を希望する職員も減っているので・・・、無理かなぁ・・・。

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