都庁を辞めようと思った(第1回目)(昭和54年)
心は特別区へ

昭和53年6月に、東京都労働局は、経済局と合併して労働経済局(現、産業労働局)となった。
その意義は、会社を部分的に扱うのではなく、全体として捉える。そのため、経営 のサイドから改善策を考える部門と、従業員サイドから改善策を考える部門とを一体化させることにあった。
この考え方は間違っていなかった。私は、そう思う。

しかし、この合併については、何かと批判が多かった。
「組織の縮小のために1局削減まずありきだ、その割には水と油のように馴染みにくい職場をいっしょにした」と言われた。
「都庁の組織改革の3大失敗の一つ」だという人もいる。
「労働」部門は名を取って、実を捨てた、という批判もあった。
一緒になってしまった以上、やはりお互いの協力関係を築こうとするのが第一なのだが、その後何年も、「旧労働」だの、「旧経済」だと言った不毛な物言いが続いた。

合併は失敗かと聞かれれば、事実、そうだと思う。

合併が失敗だったのは、それによってかえって組織間の壁を高めてしまったからだ。
お互いが「乗っ取られるのでは」と心配してガードを固めてしまったのだ。
このため、他局でどんどん改革が進む中、労働経済局だけが、旧態依然とした組織体制を維持していた。

旧労働局と旧経済局では、組合の政治志向も違っていた。同じ組織に労働組合が2つ併存し、お互いに考え方が違えば、双方とも張り合う。もし、東京都の当局が「共倒れ」を狙ったのだとすれば、かなり浅薄だ。

現場への影響も大きい。それまでの労政事務所は、中小企業の経営者とも密接な関係を保っていた。
しかし、合併後は逆に、経営者団体とは、どんどん疎遠になっていく。
「経営者と対応するのは、旧経済部門の仕事だ」という割り切りを主張する声にあらがえなくなった。
だが、経営者の協力が得られなければ、とても労使紛争など解決できない。
一度切れた関係を元に戻すのは、容易ではない。

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その後、労働部門でも経済部門でも働くことになって、双方がいらぬ心配を続けていたのだな、と感じる。
労働部門の職員が考えていたほど経済部門は強くなかったし、経済部門の職員が考えていたほど労働部門は強くなかった。

後の若手職員に聞くと、前提となった争いの論拠からして理解できないとのこと。
この局が、再度、名前を変えるとき、若手職員の意見を聞いたことがある。
若手の支持は、「産業局」だった。それほど「労働」の影が薄くなってしまっていた。最終的には当局側が、いろいろと配慮して「労働」の文字を残したようだ。

「産業労働局」は、彼らの世代も生き残る。
本当の意味での有機的連携は、彼らの世代に託さざるを得ない。
我々古い世代は、努力不足を反省しなければいけない。

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さて、労経合併と時を同じくして、都行政の一部が区市町村に移管された。

保健所等と一緒に、我が局では「勤労福祉会館」と「内職補導所」が移管されることになった。

労働組合(労働支部)は区移管反対闘争を組織した。
組合は「都に残りたいという人間がたくさんいる」と主張し、「家庭などの都合で区に行きたい職員もいるかもしれないから、局の全職員の意向を調査しろ」と、当局に要求した。
しかし、その結果、手をあげたのはわずか2人。あまりの少なさに、組合のメンツが潰れた。

さて、そのうちの1人が私だ。

今考えてみると、渋谷労政事務所はいい所だった。夜学にも行っていたし、都合もよかった。
しかし、奉職後3年が経つが、やる仕事やる仕事、皆廃止になってしまい、若さゆえの焦りは押さえがたくなっていた。

私の就職後、中学時代の友人Iが大田区役所に就職し、同じくWが農林水産省に就職していたが、それ相応に仕事を任されていた。しかし、私だけ「もうすぐ無くなる」仕事ばかりを与えられていた。
そのうえ、就職時の採用延期で「間違った職場に就職した」という気持ちが、トラウマのように心によどんでいた。
そんなこんなで、早く別の職場に行きたかった。

そうは言っても、自宅には年老いた祖母がいる。祖母にとって、私が堅実な仕事をしていることが唯一の生きがいだ。だから、再就職先といっても公務員以外は考えられない。
ここまで年寄りに苦労をかけて育ててもらった。だから、祖母が死ぬまでは、何をおいても祖母の意思を優先させる覚悟だった。

夜学は2年残っていたが、すでに4年生(都立大の夜間は卒業まで5年かかる)で、先が見えていた。
「渡りに船」とばかり、私は渋谷の「勤労福祉会館」に異動希望を出した。つまり、同じ建物の隣の部屋へだ。勤福で2年くらい不規則勤務をして、その後、区役所に異動しようという魂胆だった。

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実は先年、私は「職員文化」という小冊子にエッセイを投稿し、掲載されていた。
たいした内容ではない。
「渋谷という街は喧噪に溢れているが、その実、孤独を内在する。それは東京の縮図に過ぎない。丸の内が東京の頭脳なら、渋谷は東京の瞳である。渋谷に映し出されるものを見れば、東京の心を読むことができる・・・」といったような、きざったらしいことを書いた (二十歳の頃なので、許してほしい)。

ちょうどこの頃、駅前にスクランブル交差点ができた。昭和50年12月、西武パルコ2号館が開業し、昭和53年9月に東急ハンズ渋谷店が誕生して、西の東急、東の西武の競争が激しくなった。公園通りにたくさんの若者が押し寄せていた。

局では、若手職員が不足する中で、文章を書ける人間を求めていた。
私のエッセイが局で誰かの目にとまっていたらしい。そいつが、区へ行きたいといっている。何とかしろ、という命が上司に下ったらしい。

「ほかに手立てもあるし、大学のこともある。ここは急がない方がいい」とO所長に諭され、イカ南蛮とビール2本であっけなく懐柔されてしまった。

その後、祖母の介護などがあって、結果はその方がよかったのだが、その時のわだかまりは、第二、第三の「都庁を辞めようと思った」につながっていく。

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