家内労働係に配置された昭和54年、祖母はもう90歳近くになっていた。 私は、自宅→仕事→大学→自宅、という生活だったので、帰宅するのは夜遅くになっていた。
職場でも学校でも、飲み会は多く、祖母と話す時間はほとんどなかった。 ある日帰ると、祖母は、頭に包帯を巻いていた。
自宅の土間で倒れて、ケガをしたという。血だらけのままで医者に行って、数針縫ってもらった。頭蓋骨にもびびが入るくらいのケガだった。
気丈だとは知っていたが、何てすごいんだ。
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しかし、その後、祖母の精神はどんどん正気を失い、妄想のようなことを口走るようになった。
錯乱して絶叫することもあった。
私の目を見据えて「苦しいから殺してくれ」と懇願された。
ほんとうにそうしなかったのは、私の正常心か、それとも保身か・・・。今でも分からない。
医者は、入院させるしかないと言った。
入院先は、北品川(新馬場)の病院だった。
それからの私の生活は、自宅→職場→病院→自宅になった。もう、大学に行くどころではなかった
付添時間が終わって家に帰ると、病院から「アブナイ」という電話が入り、タクシーを飛ばして駆けつけた。翌日は、病院から職場に出勤した
病院に行ったところで、何もすることはない。ただ、最後を待つだけだ。そんな期間が、半年くらい続いた。付添のおばちゃんが、いろいろと世話をやいてくれていた。
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祖母はほとんど寝たきりだったが、時たま、意識が戻った。
付添のおばちゃんが、「この人、誰だかわかる?」と聞くと、大概は、若くして死んだ「夫の弟」だと答えた。いろいろな時代の記憶が、混濁していた。
祖母は毎日病院の天井を眺め「ここは駅の待合い室だから、自宅に帰してくれ」と言った
脳の障害で、左手が動かなかった。
私が自分の孫だとわかると、「孫が自分の身体の上に乗っている。だから、身体が動かない。ここまで育ててやったのに、この仕打ちだ。この子は、悪魔だ。」と言って、
私を罵倒した。ツバをはきかけられたりもした。
ただただ辛かった。
医者はくせになるからといって、なかなか、痛みをとる薬(麻薬)を注射しなかった。
そんな毎日だったが、病院に行かないわけにはいかない
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付添のおばちゃんは、とてもいい人だった
ある時、「どうしてこの仕事を始めたのですか」と聞いた。
「九州の出なんだけど、亭主が賭け事が好きでね。一財産、はたいてしまってね。別れはしたが、生活費は必要でしょ。それで今の仕事を始めたんよ。」と語った。
祖母が亡くなった日の深夜に会った以来、1度も会うことがない
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正月が過ぎたが、祖母の容体はいよいよ怪しくなった
そんなある日、突然、祖母の意識が戻った。付添のおばちゃんが「この人誰だかわかる?」といつものように尋ねた。
「孫です・・・」と答えて、祖母は一筋涙を流した。
おばちゃんの方が、ドアの外で、泣いていた
それ以来、祖母の意識は戻らなかった。昭和55年3月21日、祖母は他界した。数えで90歳だった
死に目には会えなかった。
連絡はあったが、またいつもの事だろうと思って、タクシーに乗らず、とぼとぼと病院に歩いていった。
病院の入り口で「残念だったけど、会えんかったよ」と付添のおばちゃんから言われ、「おばあちゃんは、とうとう死しんだんだな」と悟った。
(写真は、本人が生前に遺影にしてほしいと言っていたもの。どこまでも気丈な人だった)
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春分の日というのに、東京に雪が降った
「大変だから、私の葬式は葬祭場でやってくれ」という元気な頃の祖母の遺言を無視し、私は西品川の自宅で葬式を行った。
気丈な祖母の言葉は、本意ではないと思った。夫を送ったこの家から旅立たせてやりたかった
自宅の前が空調設備の製作所であり、「こんな横丁にテントを広げられちゃ営業妨害だ」と苦情が来た。
近所のおばさん達が「あんたたち、どういう時だと思っているのよ!」と一喝した。
私は葬儀社に連絡し、「このままじゃ、なめられる。費用はこっちで持つから、親戚の名前で花輪を並べてほしい」と依頼した
寒い日だったが、渋谷労政の同僚が大挙して手伝いに来た。受付担当は、震えながら名簿を書いた。
まったく無名の年寄りの葬式に、100人を超える参列者が来た。
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