都庁を辞めようと思った(第2回目)(昭和56年)
都区間交流を希望

祖母を失い、天涯孤独となった。ある意味、気楽になった。
それまで、あれこれ制約の大きい状況だったが、ここで、一気に解放された。

大学には籍を置いていたが、祖母の看病で留年は必至だった。でも、どうでもいいじゃん。
仕事の打ち込もうという気持ちも起きなかった。
確かに家内労働の仕事は外部との折衝が多く、係長が指摘したように、私のような若輩者が手を出せる部分が少なかった。
係内の人間関係も、あまりよろしくなかった。酒の席でお互いに言い合いになるという場面がしばしばあった。「居場所がない」という気持ちが募っていった。

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そんな折、庶務担当の女性職員が退職した。
彼女の業務は、庶務・経理・雑務と勤労福祉会館の利用実績の資料作りだった。
彼女は弁護士志望で都庁に入った。だから、それにつながらないような地味な仕事を与えられるのは不本意だったようだ。年度途中でプイッといなくなった。

当時、庶務は3人。その1人が欠けたのだから、仕事は行き詰まった。
庶務担当の次席が、課長に善処を申し出た。庶務係の次席はM主査は、後年、私の上司となる。
「家内労働係に1人、余った職員がいる」と、私が名指しされた。これが、もめ事の種となった。
課長が納得したので、私にもM主査から「引いてもいいか」との打診があり、私も了解した。

ところが、これに噛みついたのが、家内労働係長だった。
部下を引き抜かれる方の係長の立場としては、「はいそうですか」というわけにはいかない。課長に猛烈に抗議した。
管理職は、一旦自分の下した結論を安易に翻してはならない。
しかし、このときの課長は、家内労働係長の勢いに、あっさりと決定を白紙に戻した。

係長は課長の力量を見るくらいのつもりで迫ったのに、あっさりと覆す課長も課長だ。

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私にとっては、もうどうでもいいことだった。
どっちの係で仕事をすることになっても、仕事は仕事。上が決めてくれればいい。
もう、私の行く末を心配してくれる祖母もいない。

ただ、駆け引きの駒として扱われたのは、我慢できなかった。
家内労働係長に啖呵を切った。「私はただのヒラ職員ですから、いずれにせよ、課長の判断に従います。ですが、今の職場の状況を見れば、庶務を助けなければならないのは明かです。それを無理矢理に止めるというなら、私にも覚悟があります。」

そして、あらためて「都区間交流」の希望を出した。
部全体を仕切っていたH係長は「あんたも、労働を捨てるのか・・・」といって、涙を流した。
ちょっと気の毒だった。
しかし、ここは退くわけにはいかない、と思った。

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私の考えは甘かった。

昭和49年度まで、職員採用は都と区で一本だった。合格後、配属先が振り分けられた。
だが、私が採用されたのは昭和50年度。
既述のように、この年から、都と区の人事交流は大きく変わっていた。
都区間の事務職の人事交流は経過措置的行われている形で、昭和50年度以降の採用者には高い壁があった。
前回の勤労福祉会館の移管のようにはいかない。

そんなわけで、都区間交流は、門前払いとなった。
労政事務所のときに渋谷区に行っていればよかったと思ったが、後の祭だった。

もっとも、ゴタゴタで中断されていた係間の配置転換は、私が都区間交流を出したことがきっかけで、あっさり実現したが・・・。

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新島

係を移ると、山のように仕事がたまっていた。
毎日毎日、電卓たたいて、勤労福祉会館の利用状況を集計した。
積み上げてチェックするとタテヨコが合わない。そこで転記ミスなのか、元々の数字が違っているのか、探しまくることになる。
もう少し早く配置換えをしてくれてたら、あの頃パソコンがあったなら、あれほど残業せずにすんだのに・・・。 (写真は新島、勤労福祉会館のボウリング場の修繕検査に行ったときのもの)

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勤労福祉行政は、この頃すでに行き詰まりを見せてた。
勤労者は昼間働いている。勤労者向けの会館を安い使用料で提供したって、仕事をしている勤労者は使えない。
だから、会館の利用率が低い、勤労福祉会館と市民会館との違いを見せろ、そういった質問が予算当局から求められていた。

一連の流れは、高度成長と革新都政、都市構造の変化と微妙に絡み合っている。
本来なら市民会館を建設し、勤労者が安く使える方策を考えるべきなのだ。
しかし、労働省→東京都労働局という流れて予算が来ている以上、勤労者をメインに据えないわけにはいかない。

施策上避けがたい齟齬である。
誰かが不正を働いたとか、自己の権益を広げようとしたわけではない。しかし、それ故にこそ、行政は何らの制御も受けずに、とんでもない方向に暴走することがある。
施策があらぬ方向に動いても、それが世のため人のために役に立つことだと、どんどん進んでしまうことが、ままあるのだ。
しかし、どこかで無理がくる。

勤労福祉会館もまさしくそうだった。
美濃部<革新>都政は、福祉行政の拡充を売り物にしていた(それを否定するつもりはない)。

しかし、首長がそういう方向性を示すと、官僚は「何でも福祉」と打ち出すようになる。
そもそも役人の本性として、自己のテリトリーを拡大したい、縮小したくない、という面がある。
革新都政の誕生は、「何でもかんでも福祉と結びつけると、予算と組織を大きくできる」という悪癖を生んだ。逆に言うと、「○○福祉」と付けないと、予算も組織も人員も確保できない。「勤労者の福祉の増進」――それに、誰が異議を唱えられようか。
先に述べた「母の家」のように集団就職者の交流事業もその一つだ。交流するには、ハコものが必要となる。それが勤労福祉会館だった。すでに労政会館というものがあったが、それでは福祉っぽくない。
さらに一方で、都電の廃止というリストラがあり、そこで働く人たちの受け皿も必要となっていた。

そして、知事が交代し、勤労福祉行政はいきなり岐路に立たされた。存在意義が問われた。
先輩から問われた。「津田くん、地域に密着した広域的行政って、どんなものがあるだろう・・・」。そんなの論理矛盾だ。
特別区については早々と区移管が決まった。建設計画が進んでいた「品川勤労福祉会館」は、都から手切れ金をもらって、品川区の産業センターになることになった。

残った多摩地域の勤福について、都は当該各市に移管を打診をしたが、いずれも受入は拒否するという意向だった(国分寺市だけは、職員抜きなら受け入れたい、と言ってくれたが・・・)。

職場には、永遠に実現しないであろう「狛江勤労福祉会館」と「御蔵勤労福祉会館」の完成予定図が、額に入って飾られていた。

その後、社団法人だった勤労福祉協会を財団化し、残った勤福の管理を委託することになる。
さらにその後、協会そのものの存続が問題視された。勤労福祉協会は、中小企業振興公社に吸収されることになった。
今では一部を除いて、勤労福祉会館は区市町村の管理下に置かれている。
最初に建設された八丁堀の東京都勤労福祉会館は、更地のままになっている(川の上なので、あらためて建物を建てるのが困難であるため)。
最近ではあちこちのビルに空き室が目立つ。そこを貸会議室にする場合も多い。
役所が原価以下の安い費用で一般に部屋を貸し出す時代は終わった。
ようやく落ち着くべきところに落ち着いたが、ここまでいったい何年かかったのだろうか・・・。

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ちょうどその頃、水道橋の中央労政事務所を建て替えるという話がわき出た。すでに老朽化していて、消防署からも「一般には貸し出さないように」と、注意を受けるような状況だった。
O課長からこんな問いかけがあった。
「津田くん、中央の移転先にいい場所があるんだ。飯田橋の操車場跡だ。そこに私は、労働関係の相談ごとなら何でも受けられる施設を作りたい。職安も併設して、採用から退職まで、一貫してサービスするところがあるべきだ。いい名前があったら、提案してくれないか」
そこで私は、「労働者ライフサイクル総合センター」ってなのは、どうでしょう、と答えた。「長い名前だな」とは言われたが、他にいい案もないので、予算要求資料に(仮称)ということで掲載された。
しかし、同時期、飯田橋駅の直上にセントラルプラザというのが建設中で、テナントが埋まらなかったのか、急転直下、中央労政はそこに間借りすることになった。
私のネーミング(案)は、2週間の命だった。
そして、今、飯田橋の操車場跡に、しごとセンターが建っている。中央労政は水道橋から飯田橋へ、飯田橋から八丁堀へ、八丁堀から飯田橋へと、迷走のような引っ越しを繰り返して、しごとセンターの中に入り、労働相談情報センターとなっている。
結果的には、私たちの案が実現した。
中央労政は大家ではなく、店子になってしまってはいるが。

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大学の卒論の相談をする中で、コーチしてもらった小林良二・都立大教授(当時、現在は東洋大学に在任)はこういった。
「労働福祉課とは、不思議な課の名前だね。労働できる人は福祉の対象にならないはず。福祉の対象なら労働することができないのが前提なんだが・・・」

ちなみに小林先生は、昭和55年に都立大に着任され、平成18年3月に退任されたが、私は紛れもなく小林先生の一番弟子だ。
一番優秀な学生というわけではない。一番目に卒論を指導された学生である。
国の研究期間から着任された早々で、先生には卒論を指導する学生がいなかった。たまたまいた私が引っ張られた、というわけだ。
あれこれ注文が多く難儀したが、月2回ほど日曜日に銀座の喫茶店まで来てくれて、「どこまで出来た?」と、こんな私を専任で指導してくれた。 考えてみると、贅沢な話だ。
最後には「研究者として大学に残らないか」と行ってくれた。お世辞にしても嬉しかった。
ほんとうに感謝している。

けれど、「まだまだ勉強不足なんですよ。先生」

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