大崎ファルコンズ(昭和56年)
中学の友人が戻ってきた

一人暮らしになって、家の空間をもてあましていた。
部屋は1階の四畳半と2階の六畳だったが、おでん屋をやっていたこともあって、土間なども広かった。

たまたまその頃、中学の同窓生から、「野球チームを作るので入らないか」と言われた。
チーム名を「大崎ファルコンズ」とした。

私は運動神経がダメで、キャッチボールもろくに出来ないから、遠慮しようとしたが、9人集まらないと品川区のグランドが借りられないということで、ま、名前だけならといった感じで参加することになった。

言い出しっぺは、大田区役所に勤めるI(今は大井競馬場にいる)。農林水産省のW(今は鬼籍の人となった)、東急ハンズのT(今でも東急関係の企業にいる)、日本鋼管のK(退職して関連企業で働く)、地元で壁の塗装会社を継いでいるN(まだ元気)が集合した。
また、弁護士を目指している社労士のTも後から加わった。Tは、今では弁護士になっており、先般公開された「それでもボクはやってない」(周防正行監督)という痴漢えん罪の映画で、役所広司の演ずる弁護士のモデルにもなっている。

皆、品川区の大崎中学校(通称、崎中)の卒業生だ。
こうして地元人が集まって、練習を始めた。

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不思議なものだ。
中学時代にこの全員がいっしょになって遊んだということはなかった。

卒業後10年以上が経ち、それぞれが社会人になり、中には家庭を持った者もいた。そんな折り、何となく集まろうということになった。高校でもなく、大学でもなく、中学の同級生だったのが、何とも言えない味だ。
一流大学の同窓生であれば、卒業後の交流にも、何らかの利害関係―お互いに利益を分かち合おうという打算―が、その関係に浸潤してくる。
しかし、中学の同期なら、社会人としての立場などに繋がらない交流ができる。

私の家の空間は、野球道具の置き場としてかっこうのスペースとなった。
名前貸しだけのつもりだったのに、私が抜けることはできなくなった。

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大崎ファルコンズ

日曜日の早朝に、六郷土手へ行き、守備練習をした。眠いのにはまいった。

同じように来ていた小学生がいて、「オジサンたち、試合しない」と声をかけてきた。「キミたち、人数が足りないけど、大丈夫?」「大丈夫だよ!」ということで、プレイボールとなった。ボコボコにやられた。
自軍はエラーの連発、ピッチャーのIはセットポジションで投げられなかったから、盗塁をしまくられた。

それでも、楽しかったなぁ。
その後も、春夏秋は野球、冬はスキーと、このメンバーで活動した。
彼女ができたら、必ず野球の試合に連れてくるというのが、ボクたちのルールだった。

だから、家庭を持ったメンバーの、家庭を持つ過程についても、皆、よく知っている。
なかなか結婚できないメンバーも多く、「大崎・春来んず」じゃないのか、と冗談をいい合った。

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昭和57年のことだが、私は職場の健康診断で「肝臓が悪い。酒を飲み続けると死ぬ」と言われた。
1月半くらい、酒は一滴も飲まなかった。

当時も、試合・練習の後には大崎の養老の滝で、必ず打ち上げの飲み会をしていた。
私はジュースで我慢していたが、トイレに立ったすきに、仲間がふざけてそれに酒を入れた。
「なんてことするんだ!」と私が怒ると、「ワルぃ。でも、お前が酒を飲まないのを見ているのが辛いんだ。」と、弁解した。
だったら、無理に禁酒するのは辞めようと思った。
それが人助けならば・・・(飲んべいが酒を飲む理由は、どこにでも落ちている)。

以来、私は毎日、酒を飲んでいる。空けるのは、年に1回あるかないかだ。
肝臓は依然として、悪いと言われている(自覚症状は、ないが)。

その代わり、こんな捨て鉢な人生を送る以上、家庭を持つのはやめようと決意した。
あれから30年以上が過ぎる。私は、まだ、生きている。
相変わらず肝臓は悪いといわれ、検査に病院へは行っているが、酒は毎日飲んでいる。

当時、入り浸りだった大崎の養老の滝は、道路拡張で店じまいとなった。
しかし、元スッチーのママさんは、ゲートシティ大崎の前の「美琪(みき)」という上海料理屋のオーナーなった。
残念ながら、その店は今はない。自分が退職する送別会は、そこでやってもらおうと思っていたのだが。

(補足)
こういう病気自慢をネットで出すことには、大変問題があります。
話の流れとして書きましたが、実際に病気で苦しんでいる人はたくさんいます。
決して、私の真似をしないように、お願いします。

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大崎ファルコンズは今はない。

平成19年、全員が50歳を超えたということで、記念に温泉旅行しようじゃないかという話になった。
5月の連休に、伊東へ1泊旅行に行った。
温泉に入り、酒を飲み、昔話を交わした。

残念ながら、もうチーム全員がそろうこともない。
その後、キャッチャーだったWが他界したからだ。
奥さんと別れたり、死別したりしたメンバーもいる。
それでも、たぶん最後の一人が棺桶に入るまで、この付き合いは続くことになるだろう。

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