新聞記者を拝命(昭和57年)
たった1度の出会い

6年かよった夜学も、ようやく卒業式になった。

沼田稲次郎総長最後の卒業生だ。
卒業式で、「皆さんにはどうか幸せな人生を歩んでください、と申しあげるべきところだろう。しかし、この先、厳しい世の中が待っている。率先して労苦を受け止めるような立場に立ってほしい」とい う、ご挨拶を頂戴した。
正直言って「苦労はもうたくさんなのに・・・」と思って聞いた。

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卒業式が終わると、だいたい友人と飲みに行くものだが、留年した関係で同級生は1年前に卒業していた。

ゼミの知り合いから、卒業生を囲んで打ち上げをするから来ないか、と誘われた。
当時、私は社会学を専攻していた。
昼間の学生とは交流はなかったが、昼間のゼミに「ミス都立大」と呼ばれる女性がいるというウワサは知っていた。
バンドを組み、テレ朝の「大学対抗○○合戦」にも出たりして、ちょっとした有名人だった。

ウワサでは「マスコミ論を勉強している」と聞いていた。すでにテレビ朝日のアナウンサーに就職が決まっているという話だった。
その人こそ、小宮悦子氏だ。
ゼミの打ち上げで、卒業生が並ばされた。2歳年下の彼女は、留年組の私の隣りに座った。同じ卒業年次になった役得だった。

そのころ、フジテレビのアナウンサーが社長の御曹司と結婚し「玉の輿」として話題になっていた。
私は、彼女に「どうしてテレビ朝日に入ったの。番組に出た縁でもあったの」と、コークハイを飲みながら聞いた。
「他のテレビ局だと、アナウンサーは契約社員で、雇用が不安定。だから、正社員として雇ってくれるテレビ朝日に就職しようと思った。」「番組に出たことは面接で話したけど、面接官は誰も知らなかった」と、彼女は答えた。
ちゃらちゃらした子かな、と思っていたが、けっこうしっかりしていた。

それから数か月後、つなぎのジーンズを着て夕方の天気予報に出る彼女を見た。
しゃべり方はすっかりアナウンサーになっていた。さすがはプロだと思った。
その後もいろいろあったようだが、頑張って欲しいと思う。

彼女との会話は、後にも先にもこの時1回だけだった。
が、当然のことながら、私は何回も自慢した。「オレは小宮悦子と酒を飲んだことがあるんだ」

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東京労働

卒業の翌年(昭和57年)、私は、「東京労働」という新聞の記者に抜擢された。
4ページ見開きのタブロイド版。年18回発行だった。
役所の発行物といえば「お知らせもの」が多いが、これは、かなりきちんとした新聞だった。
今も「とうきょうの労働」と改題し続いているが、こちらはすっかり「お知らせ」だけの広報紙になっている。

東京労働の担当者は2人。企画から執筆、校正まで行う。
月2回ぐらいの発行なら、たいしたことないと思われるかもしれない。
しかし、企画を練るのに2~3日。そして、課長と内容を調整。
資料を読み込むのに2~3日。資料は時に数百ページに及ぶ。とても全部は読めないので、記事としてどこを取り上げるか決めて、拾い読みする。
実際に原稿を書くのに3~4日。
写真が必要で取材に行けば半日がつぶれる。
できあがった原稿を課長にチェックしてもらう。ここで記事の差し替えを指示されることもある。

T先輩と2人で担当していたときのこと、私の書いた記事に課長がクレームを付けた。何かの理由で、その資料は公表しないことになっていたのだ。それを記事にした。
T編集長は、私に2000ページの調査を渡して、「これと差し替えだ」と言われた。その晩、夜中過ぎまでその調査ものを読み、翌日、印刷会社の控え室で記事にしたためた。
いやはやひどいもんだと思った。
しかし、後日、プロの新聞記者さんと労働組合の取材に行って、驚かされた。
記者さんは、自分の手帳のメモを見ながら、電話で記事の内容を本社に送っている。「仮見出し、〇〇方針を強く打ち出す。△△連合総会開催。12日、東京〇〇公会堂で開催された△△連合総会で、委員長の◇◇氏は・・・・」と、そのまま記事を読み上げていた。すごい。

記事が完成すると、印刷会社に行って現地で校正作業をする。1年目はサンケイ印刷、2年目は産報印刷(今では廣済堂という大きな会社になっている)にお願いした。

現場では文選工のおじさんたちが、私の原稿を読みながら活字を拾っていった。名人芸だった。でも、こわいオジサンが揃っていた。
一行15文字の棒ゲラと呼ばれる横長の第一原稿が完成する。これに現場で赤字を入れる。
二校、三校が終了すると、横長の活字は、平面に組まれる。この版は大版と呼ばれた。ようやく新聞らしくなる。
図表やグラフは別に金属で作られる。これを大判に貼って。新聞ができあがる。
これを刷ったのが清刷(きよずり)と呼ばれる最終原稿になった。
直しが無ければ校了になる。ちょっとした修正だけだから、後はよろしく、というのが責了だ。

当時、印刷会社でもIT化が進んでいた。CTSというシステムが導入されるという。コンピュータ化によるタイプセッティングシステムの略だが、現場の風当たりは強く、コールド(冷たい)のCだと呼ばれていた。文選工のオジサンたちも、CTSに移行するか、引退するかという選択を迫られていた。技術革新というのは、そういう側面を常にもっている。

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新聞が納入されるのは、その3日くらい後。発送作業も担当2名で行う。合間を見て、課で取っている新聞の山から、労働関係の記事を切り抜く。ネタ探しのためだ。
そんなこんなで、半月はあっという間に終わる。そしてまた、企画を練る。

勉強などしている間がない。だから、日曜日は毎日自宅で本読みだった。
「清刷が上がってきたら白紙だった」――そんな悪夢にうなされたこともある。
一文字も書けなくなるのではないか、という強迫観念に、いつもさいなまれていた。
早く年季が明けて別の仕事に行きたいと思った。
「あと残り〇号」と紙に貼って、異動のアピールをした。

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東京労働

特集記事を組むこともあった。
私の分担は「ME(マイクロエレクトロニクス)と労働問題」だった。
ほんとうなら、先輩のT主事がやりたいテーマだった。
「自分で書きたい内容は、相方に譲るべきだ」というのが、T主事の持論だ。それだけに見る目は厳しかった。「はっきり言って、今回は手抜きだ」と、叱られた。
同じ仕事をしている相方には、その記事に対して、どれくらいの力を込めているかが、よく分かった。

取材に出ることもある。
私は、当時、MEの分野の第一人者であった雇用職業研究所(当時)の亀山直幸研究員(直近は跡見学園女子大学の教授)にお話を伺った。

そのころの多くの論調は「MEの普及で雇用不安が起こる」というものだった。

その真偽を聴くと、亀山研究員は「そんなことはない」という。
「技術進歩で日本の国際競争力が上がり、輸出が増加する。むしろ、雇用は拡大する」 
結果的には、まさしくそのようになった。技術革新は古い技術者を排斥する面もあるが、あたらしい産業分野を拡大する面もある。いずれかのみを見て、全体を判断するのは間違いだ。

実際、企業に聞いても、産業ロボットは、溶接や塗装などいわゆる3K職場に配置されており、若手の従業員がやりたがらない作業を代行していた。
ベテランはすでに定年に達していた。ロボットに頼らなければ生産ラインが維持できなかった。
だが、週刊誌としては、そう書いたのでは、本が売れない。
だからことさら不安をかき立てるような見出しを付けていたのだ。

ただし、亀山研究員はこうも付け加えた。
「空手に“三日殺し”という技がある。そのときは何でもなくても、後になって効いてくる。MEにも、そんな性格がある・・・」
ここにきて、ものづくりの先行きが危惧されるようになっている。いよいよ三日目か・・・!

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役人というのは常時、匿名な存在だ。かなり偉くなる人は別として、名前が外に出ることはめったにない。
実名が世に出ることは、悪いことをしたときくらいである。
だから、こんなサイトを作りたくもなる。

私の場合、幸いにも新聞記者まがいのことをしていたので、「この記事を書いた人に寄稿してほしい」という要望が外部から来た。
日本労務研究会という団体の出している「労務研究」という月刊誌に、「ME化時代をどう見るか」「男性からみた女性の職場進出」という2本の小論を書いた。
同じ号には、奥井禮喜(現、有限会社ライフビジョン代表取締役)という有名なコンサルタントも寄稿されており、そんな人といっしょに扱われたことだけでも、たいへん誇らしく思った。

「都政新報社」からも、原稿の依頼を受けた。
MEについて、「雇用不安は当面起こらない」という主旨の原稿を書いた。「書き直してほしい」と頼まれた。デスクが納得しないらしい。
しかたなしに、曖昧な文章に直した。新聞とはそういうものだと、いい勉強にはなった。

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