「東京労働」は「とうきょうの労働」と名を変えて今でも発行されている。
しかし、今のものはA4版・お知らせ誌である。
こういう形にしてしまった責任者は、実は私だ。
生き残らせるために、自分のやってきた仕事の一番大切な部分を切り捨てた。辛い選択だった。
担当者が2名から1名に減らされた。1人では、解説記事を書いたり、ルポをしたりするのは無理。それに職員の出入りが激しくなり、突っ込んだ記事を書くのも難しくなっていた。
いろいろ言い訳はあるが、過去の編集経験者諸氏には、ただ申し訳ないと頭を下げるしかない。
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当時に話を戻そう。
新聞記者といっても、私たちは素人だ。そこで、割付と見出の提案を外部にお願いしていた。
記事の出来不出来を一番よく知っていたのは、その担当の農業新聞のM氏だった。
すでに何代かの東京労働担当者が、M氏といっしょに仕事をしていた。
力を入れて記事にすれば、「今回の構成力はかなりいいよ」と褒めてくれた。
評価は的確だった。
昨今の健康志向について書いた私の記事に、M氏は最初「○○でダイエット」というタイトルを付けた。
しかし、最終公正で「○○でシェープアップ」という風に変えるように、Mさんは指示。
「女房に聞いたら、それじゃおかしいというんでね・・・」と言って、ニンマリと笑った。
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予算要求の際、我々は「割付ぐらい職員でやれないのか」という質問を毎年突きつけられてきた。
それでも「外注はやめられない」と突っぱねた。
実際、職員がやったのでは平板になる。
しかし、何代にもわたる担当者を、暖かく見守ってくれたM氏がいたことが我々の支えであり、それを切り捨てることは何としても阻止しようと思った。
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タイトルを変えたのも、歴代記者にとっては不本意な出来事だった。今風でない、という理由らしい。
M氏も「題字は新聞の命なんだけどね・・・」と、ぽつりおっしゃった。
そこで「東京労働のお葬式をやろう」、ということになり、タイトル変更を決めた課長を喪主に見立てた飲み会を開催した。
東京労働の思い出話だと言って、一人一人が弔文じみた挨拶をした。
子供じみた抵抗だったが、それくらい、この仕事に皆、入れ込んで来たのだ。
課長はたぶん、この催しの主旨に気づかなかっただろうが・・・。
その後、M氏は急死される直前まで、「とうきょうの労働」の割付を担当しておられた。
体調の不良を押して、担当者に対しては元気に振る舞った。夜中の仕事も、嫌な顔一つしなかった。
最終原稿を手渡した直後に入院されたとのことだった。
病床で奥さんの手をとり、「私がこんなになっていることを、東京労働の担当にだけは話さないでほしい。皆、忙しい最中だから・・・」と、言葉を残したという。
役人と単なる一介の業者との心の繋がりがここまで深まることは、おそらく、この先あり得ないだろう。
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最後に、ひとつだけ自慢話を付け加えさせてもらいたい。
東京大学では、毎年、「労働大学」というのが夜間、開かれている。私は、仕事の勉強がてら、そこに通った。本心としては、「一度は東大の門をくぐりたい」というミーハーな考えからだったが。
仕事の延長とはいえ、残業代は出なかった。東京労働大学には、労働分野の一線級の教授が招かれて、講義をする。
試験もあった。論文を書かせて、それを採点する。昼間、東京労働に出ているようなテーマが出るので、そこそこの内容は書ける。そしたら、「知事賞」を取ってしまった。
「職員が知事賞もらっていいんでしょうか」と担当係長に聞くと、「ダメという規則がないんだよね~」という。
おかげで、「鈴木俊一」名の表彰状をいただいてしまった。家宝である。
ちなみに、今では「職員は賞を取れない」という決まりになっているそうだ。私のせいかな?
それにしても、自前の事業に職員を入賞させたり、広報誌でルポルタージュを書かせたり、本当に鷹揚な時代だったと思う。
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