主任試験導入前夜(昭和60年)
職場に寝泊まりが当たり前

昭和60年から61年にかけて、東京都の人事制度は大きく変わった。変わらざるをえなかった。

東京都職員の年齢構成は、きわめていびつだ。
東京オリンピックから高度成長期の昭和40年代後半まで、かなりたくさんの職員を採用した。今だと70歳から80歳にかけての年齢層になる。この間の世代が都庁の大量採用時期の人たちだ。
ピークが平成19年退職組。都庁の場合、2008年問題だった。

だんだんと多くなってそこが山、というような生やさしいものではない。この10年間の多さは、かなりのものになっている。
昭和40年代に野放図に職員を採用したツケだ。
そして、あわてて採用を絞った。昭和50年~昭和59年は、ほとんど職員が採用されなかった。この年齢の断層も、大きな問題になっている。

昭和54年に自治省出身の鈴木俊一氏が都知事になる。以来、4期16年都知事を続けることになるが、鈴木都政の前半は、前の革新都政のつけの解消に終始した。都政の経営健全化が最優先され、組織の縮小が進められた。もちろん人の採用も絞られた。後年、バブルになっても、職員は増やさなかった。
名知事だと思う。しかし、職員は大変だ。

こんな数字がある。
東京都の職員定数減
第一次行政改革(昭和54年度~昭和58年度)△9,255人
第二次行政改革(昭和59年度~昭和61年度)△4,154人
第三次行政改革(昭和62年度~平成2年度)△5,069人
不断の行政改革(平成3年度~平成7年度)△4,607人
これが、鈴木知事の任期に減った東京都職員の数(その後も減っているが、そのペースは落ちている、というより減らし尽くした感がある)。
東京都には概ね17万人くらいの職員がいるが、学校・警察・消防を除くと4万人弱。 職員数の削減の多くは、ほぼ残りの分野(知事部局と呼ばれる行政部門と交通・水道・下水道)が飲み込んだ。
6万人が4万人になる。大手企業でも、なかなかそこまでのリストラはできない。

もちろん直接クビを切るのではない。定年退職者が出ると、その後任を埋めないのだ。
若手を採用しない。だから、年齢構成はさらにいびつになる。

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年齢構成がいびつなのに、組織は小さくなる。それは都庁の人事政策に大きな影響を与えた。

昭和60年は、このピークの人達が、40歳にさしかかろうという頃である。
ぼちぼち係長の肩書きがほしい。しかし、ポストは圧倒的に不足していた。しかも、そのアンバランスさは、局によってまちまちだった。
その前年も係長試験が行われたが、論文による評定が中心で、試験制度としては不充分だった。

そこで自己申告と主任試験制度の導入となった。
しかし、この取扱いについて、労使の合意がなかなかつかない。
自己申告の用紙は、人事係の傍らにうずたかく積まれたままだった。

主任試験への抵抗の最大の原因は、合格者の他局異動だ。
これは、これまでの人材育成ルートを根底から覆すことになる。
同時に、労働組合にとっては、組合員の帰属意識の低下という、深刻な問題にもなった。

組合活動をやっていたT主事は、試験会場の門の前で、「今からでも遅くない。試験を受けるな」というビラを配っていた。 それでも、試験をボイコットする人は少なかった。そりゃそうだ。同期や後輩が、自分の先輩係長になってしまう。いかにもばつが悪い。

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年度が変わった。

主任試験で何人かが他局へ転出した。出て行った者も、残ったものも、くたくただった。
合格したものの、異動を延期させられた者もいた。それぞれ悲喜こもごもといった感じだった。
経過措置期間中だったので、1回試験に落ちると、次は2歳年下の仲間との競争になる。2回落ちれば4歳年下と同じ試験会場に行かなければならない。
40代の人にとっては、かなりの苦行になる。

私は、研修担当から人事担当へと席替えすることになった。
人事係といっても、下っ端の主要な仕事は、名簿作りだ。
○○名簿と呼ばれるものは、多くの種類があり、来る日も来る日も、名簿ばかり作っていた。

パソコンはなく、手作業でソートした。
どうやるかというと、コピーを取り、カッターで切って、並べ替え、糊で貼り付け、またコピーを取る、という作業だ。
しかも、人の目があると、堂々とできない。
だから、毎週土日は絶好の作業日となった。

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その他の仕事といえば、給料決定、履歴整理。人事というと高度な仕事をしているように思われるが、ほんとうは単純作業の連続だ。

名簿管理担当の私には、もう一つ仕事があった。
退職したかつての幹部職員が亡くなった、という連絡が入る。その人の履歴カードを出してきて、経歴を追う。 そして、かつての職場で一緒だった同僚でそれなりの人をピックアップする。その同僚が今、どこの職場に居るかを調べる。 そして、その人のところへ、葬儀の連絡が翌日届くようにする。
パソコンのない時代である。すべて手仕事。しかも、訃報は突然届く。自分は知らない誰かさんのために、残業になる。
今は、庁内のネットにポッと載せてそれで終わりだ。だから、亡くなった人がいても、知らないままになってしまう。楽は楽だが、人と人との絆が希薄になった。

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ネームプレートというのを職員が付けることになったが、組合の了解が取れない。
何も知らない人は付けるのが当たり前と思うだろうが、第一線職場では、結構、アブナイ系のお客さんも来る。自らの名前をそういう人に知られるのは、身の危険を伴うのだ。だから、現場は猛反対する。
「職員に配れないネームプレートを管理するのも、私の仕事だった。
人事異動のたんびに、配れないネームプレートをA事務所の袋からB事務所の袋へと移す。不足分は追加注文するが、配れないまま手元に残る。
まったく不毛な仕事だった。

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人事異動の調整は、もっと偉い人の仕事。夜中、別室で行われる。
そこから電話がかかってきて、「○○駅から○○駅まで何時間何分」と聞かれる。電話帳をくって調べて連絡する。
それが、午前1時、2時まで続く。
そんなわけだから、はじめて「駅すぱあと」を見たときに、仰天した(まだ、黒い画面に白い文字だったが・・・)。
「目から鱗」とは、このことだった。
「コンピュータって、とんでもないものだ」と、はじめて思った。

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土曜日に職場の旅行に行くこともあった。旅行先からは都庁に直帰し、日曜日には働いた。
あまり大きな声ではいえないが、残業代は一定額しか出ない。出ないから、良心も痛まない。それで、野放図に残業するようになる。悪循環だ。
秋風が吹く頃から、若葉さわやかな季節になるまでの間、私に土日はほとんどなかった。
年末に仕事納めがあっても、翌日出勤して働いた。
あげくには、二泊三日で職場に住むようになっていた。

つらいのは自宅に風呂がないことだ。だから、銭湯にぎりぎり間に合う時間(11時頃)に間に合うよう、いつもあわてて帰った。風呂に入れないときは、近くの有楽サウナで泊まった。
最初から帰れないと思ったときは、勤務時間終了後に、まず銀座の風呂屋に行き、食事をしてから職場に戻り、深夜まで働いて寝袋で床に寝た。

長いこと床屋に行けないので、髪の毛が伸びてうっとうしい。
そこで、夜になるとトレーナーに着替え、テニスのヘッドバンドを巻いて仕事をした。
年配の職員から、戦時中の特攻みたいだ、と言われた。

労働組合から「あなたの要求を書きましょう」という厚紙が配られたので、「僕の青春を返せ」と書いて、机に貼った。
先輩は「我々の仕事は、無定限、無定量なのだ」と言った。私は、「人事第一係は、人のことを第一に考え、自分のことは二の次に考える係だ」と卑下していた。
先輩から、「いい子がいるけど、つきあってみないか」と言われた。「女の子とつきあう時間があるなら、睡眠時間をください」と答えた。

ある土曜日職場に泊まった。
翌朝気づくと、どこからともなく「バタバタ・・・」という音が聞こえてくる。害虫駆除だった。私たちも、いっしょに駆除された。

この係にいる間は、普通の人のような生活は望めないな、と思った。修行に出ているようなものである。
まさか、局をまたがって9年間も居るとは思わなかった。

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人事異動の作業のまっただ中、気がつくと、隣の庁舎に救急車が止まっていた。

「おおかた、他局の人事係の誰かが倒れたのだろう」と思った。
後日聞いた話だと、案の定、F局人事係に勤める、同年代の職員だったそうだ。
「疲れたからしばらくソファーに横にならせてほしい」と言って、そのまま彼は、再び目を開けなかったという話だ。当時はまだ、「過労死」という言葉はなかった。そんな厳しい時期だった。

私は、かなりの覚悟を決めていた。「次は自分の番かもしれない」と思った。

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