とみ串の思い出(昭和60年)
日航ジャンボ墜落

昭和59年の冬のある日、人事第一のN係長から、突然、変な依頼があった。
「大井町に住んでるんだよね。 品川区役所は近くか? その近所に出来た新しい串焼き屋に行って、繁盛しているかどうか、様子を確かめてもらえないか。」

当時、品川区役所の近くのガード脇には、小さな路地があった(今は道路拡張でなくなっている)。
そこには、飲み屋や中華料理屋などが軒を並べていた。
そこに「とみ串」という、串焼き屋がオープンした。

主のM氏。実は、かつての東京都経済局人事係長だ。最後は、商工指導所の管理職で退任された。
私は労働出身なので、面が割れていない。そこで、様子を見てくれという、話になってくる。

品川区役所からも問い合わせの電話があった。
「とみ串の経営者は、そちらの局の管理職だったと伺いましたが、本当ですか?」 「そのとおりですが、何でそんなことを聞くのですか?」とN係長。 「当区の職員も食べに行っているようですが、失礼があってはいけませんので・・・」
場末の串焼き屋だったが、副知事も、お忍びで行かれていたらしい。

繁忙期でなければ、私は、どうせ毎日飲み屋通いなので、どこで晩飯を食べても同じだった。
週に3~4日はその店に通い、すっかり馴染みの客になった。
「実は、我が家も、下神明でおでん屋をやっていたんですよ・・・」と、そんな話をした。店の人は、私が単なる地元人で、東京都職員だとは、思いもしなかった。

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とみ串のウリ物は「力串(ちからぐし)」だ。

餅を蒸かして若鶏の肉と一緒に串に刺し、片栗粉をまぶして油で揚げ、さらに焼き、たれで味付けする。
そんな料理法だったと思う。これがうまかった。
数本食べるとお腹いっぱいになってしまい、その点は、飲んべいにとってマイナスだったが・・・。

とみ串のオヤジは、あまり客商売向きではなかった。
小柄な体格で、隅っこで、黙々と焼き鳥を焼いていた。
しかし、奥さんは、いつもニコニコしていて、人と話をするのがとても好きらしく、公務員の女房を何十年も務めてきた人とは、とても思えなかった。

「野菜もちゃんととらなきゃ、ダメよ」と言って、頼みもしないサラダを出してくれた。
客というより、居候的な存在になっていた。

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「ぼちぼち、私たちも行くか?」と、N係長が言い出し、私が係長を含め数人で、とみ串へ行く日がきた。
昭和61年8月12日のことである。
この日、私は都職員であることを、明かした。「なんだ、そうだったのか・・・」と、串焼き屋の主人も喜んだ。

たいへん気分良く飲めたので、N係長らを「近くに行きつけのカラオケスナックがあるから」と誘った。
しかし、スナックの中で歌を歌う人はおらず、皆、画面のニュースに見入っていた。
日航のジャンボ機が墜落したらしい、という。
N係長は「多摩に墜落したとなると、経済事務所(今は廃止)に応援要請があるかもしれない。すぐに帰って連絡がとれるようにする」と言って、慌ててタクシー を拾った。
私にとっては、忘れ得ない日付になった。

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それから後も、私は、職員ではなく「馴染みの客」として、この店に通った。
あるとき、「なんで、都庁の管理職をやった人が、飲み屋のマスターになろうとしたんですか。再就職先なら、いくらでもあったんでしょう?」と聞いた。

串焼き屋の主人曰く、「再就職の誘いは、いくつもあった。だが、人事係長をやっていたとき、幹部職員の再就職の世話のために奔走させられた。自分が退職するときは、後進にこういう苦労はさせたくないと思った。幸い、商工指導所にいたので、商売のコツも勉強できた。だから、こうしているんだ。」と語った。

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身分を明かしてからは、人事関係の四方山話をいろいろと聞くことができた。
当時、国鉄がJRになって、多くの人員を都庁で抱え込むことになった。
優秀な人が多く、その点では助かっているが、都庁自体もリストラを進めており、「なんで?」という感じで受け止めていた。処遇も、それまでの中途採用より優遇されていた。

そんな話に対し、元人事係長は、「自分の頃は、農林水産関係の職場の縮小があった。その時、人事係長だった私は、農業技術職員の事務職への職種転換を提案した。でも、そんなことはダメだと、人事部に門前払いされた。時代は変わったもんだねぇ。」と言った。

まさか私自身が、その後、農林水産部のリストラに巻き込まれようとは、想像だにしなかった。
もっと詳しい話を聴いておけばよかった。

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M氏は、まもなく病の床についた。
退職前から糖尿を患っていたらしい。インシュリンの注射をしながら商売をしていた。
そのうえ、癌だと宣告された。糖尿のため、手術も躊躇された。
奥方は、そんなことはおくびにも出さず、その後も明るく店を切り盛りした。

ご主人が亡くなった後も、かなり長く、とみ串は繁盛を続けた。
しかし、道路の拡張で、いよいよ立ち退かなくてはならなくなった。
奥さんから、「いい店が空いているから移って商売しないかという話があるんだけど、どう思う?」と相談された。
「そういう話に乗って、結局つぶれた店を何軒が知っています。
「飲み屋が繁盛するかどうかは、それこそいろいろな要素が絡んでいます。店の前の人通りは多いのに、流行らない店もあります。客は来ても皆一元の客だということもあります。
「ご主人が、ここならいけると思って、ここに店を構えたはずです。それこそいろいろ考えて、確証をもって、ここに決めたのだと思います。知らない人がみれば、こんな裏通りと思うかもしれませんが、飲み助が毎日通うにはうってつけの場所で す。
「無理して開業するのは大変な労力がかかります。それで失敗しては、元も子もありません。ご主人の店を続けたいという気持ちは分かりますが、たとえ商売がうまくいっても、いつまでも続けられるってわけじゃ、ありません。
「もう、いいんじゃないですか。ご主人も、十分、満足していると思いますよ。」
――そう言って、私が引導を渡した。

それにしても・・・いい店だった。

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