大島噴火(昭和61年)
目の前で展開される現実の怪獣映画

昭和61年11月15日、大島が噴火した。
最初はまだ、「脅威の世界」といったテレビのドキュメンタリー番組でも見るような、気楽な感じだった。
現地も、「これで観光客が増えれば・・・」なんて、のんきなことを言っていた。
11月21日の夜遅く、大島元町に避難勧告が出された。
そのとき、私は旧都庁第三庁舎の12階にいた。災害対策要員として、多くの職員が残っていたが、人事係は、そんなこととは関係なく、毎晩、残業だった。

庶務課長席の電話が鳴った。
S庶務課長は、立ち上がって「元町に避難勧告が出たぞ」と告げた。
課長席の隣りで、テレビがずっとNHKの放送を流していたが、それから数秒遅れてアナウンサーが「今、元町に避難勧告が出されました」と中継した。
不謹慎だが、目の前で怪獣映画を見ているようだった。

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私は人事係の本業があったので、その先の出来事は聞いた話だ。

ただちに幹部職員が招集されて、対策会議が開かれた。
労働経済局の役割は、避難してくる人々が生活に困らないよう、物資を準備することだった。
日頃からこういった事態に備えて、大手デパートとの間に、生活必需品の準備の約束が整っていた。
しかし、時間はすでに深夜、デパートに連絡を入れるすべはない。
翌朝には避難民が港区の体育館に着く。いきなり、トイレットペーパーも不足するのだ。
対策会議は行き詰まった。出ているのは皆、幹部職員だ。どうすればいいのか・・・全員が腕組みした。
そんなとき、事務方の若手職員が、こう独り言をいった。「コンビニだったら、24時間開いているのに・・・」。

その言葉を耳にしたS庶務課長は、いきなり立ち上がり、その職員を指さしてこう言った。
「今すぐコンビニに連絡して、どこから製品を取り寄せているか、聞け!」
かくして、大島の避難民が避難場所に着く頃には、必要数の生活物資の準備が完了した。

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それでも徹夜の作業だった。

なかでも難儀だったのは、生活用品の分配計画が1個単位になっていたことだそうだ。
普通、ちり紙や生理用品は、ワンパックで販売されている。
その袋を開け、何個単位で区分けする作業手順になっていたのだ。そんなことにかなり時間がかかったという話だ。

また、その後、災害対策の窓口では、島民の安否を問い合わせる電話が殺到した。
職員が対応に拘束されて仕事が進まない事態も生じたという。
当時はコンピュータもなく、手書きの名簿に避難先を記載したため、その中から一人を捜し出す作業は、かなりたいへんだったらしい。

最近の地震でも、災害発生直後に、災害対策担当に対して同じ役所内の各部署から「これから自分たちはどう対処すればいいのか」という問い合わせが殺到し、それが原因で災害対策担当自体、機能麻痺に陥るという、本末転倒な問題が生じていたらしい。

避難生活は1か月続いた。体育館などでの生活が長期化すると、プライバシーも保たれず、避難した住民たちの関係もギクシャクしてくる。1か月での帰島は、島の安全確認よりも、そっちの方が限界に来ていたからではないのか、という説もある。

災害への対応は人の命がかかっている。
机上の空論ではなく、実際に何が起きるか、何をすべきか、ありったけのイマジネーションを駆使して対策を練らなければならない。

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ちなみに、その後、三宅でも噴火が発生した(平成12年6月26日)。
三宅は、その少し前(昭和58年)にも水蒸気爆発を起こしており、避難などはスムーズに運んだようだ。
ただし、避難期間の長期化は、さすがに想像を超えていた。 避難期間は4年5か月に及んだ。

七島信用組合が産業貿易センターに臨時窓口を設けた。当産業労働局は、融資などの面での後方支援をした、という記録が残っている。

先の地震で、事業場の補修や経営の建て直しのため、融資を受けていた三宅の事業者も少なくなかった。
それを返し終わらない前に、また災害だ。
新たな融資のために何ができるか、返済残の負担をどうやって軽くするか、が当局の課題となった。

こういったときの対処経過は、次に災害が起こったときのために大切に残しておくべきところである。
昔の江戸の大地震の時、もちろん幕府は直後の災害をただ眺めるだけであったが、その後は物価騰貴を防ぐため、出来る限りの手立てを尽くしたらしい。

現代だったら、誰がその役割を担うのだろう。

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大島の噴火から、もう30年以上が過ぎた。
おぎゃあと生まれた赤ん坊が親になろうとする時の流れがあった。
三宅の噴火も平成12年、すでに20年になる。

にもかかわらず地震が伊豆の島々の観光に与えた影響は大きい。
風評のため観光客は減った。傷跡は深い。

それでも、島に帰り、力強く生きていこうとする人がいる。
「島には鳥の声と、潮騒の響き、そして暖かい人間のぬくもりがある」――新聞のインタビューに、三宅の避難民はこう答えた。

生きていこうとする人間の精神力の強さに、幾ばくかの光明を見る。

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島といえば、昭和61年には小笠原に出張に行かせてもらった。農林水産部が行くというのでお供に連れて行ってもらった。
当時、船旅で28時間、今でも26時間くらいかかるらしい。
1週間を要したが、1航海なので、現地には2日くらいしかとどまれなかった。しかも、父島に着くとすぐに母島へと向かった。ほとんどが船中で揺られていた。
湾内には、戦時中の沈没船の残骸が残っていた。聞くところでは、現在はもうほとんど姿をとどめていないという。それだけ時間が過ぎたということだろう。
帰路は台風との追いかけっこになった。 自分は意外と船に強いと、初めて知った。このことが、後の洋上セミナーにつながるとは、思いもよらなかった。

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大島の噴火は昭和61年(1986年)だ。
これに先立つ2年前、しばらく映画化がなかった「ゴジラ」が復活して、上映された。
84年のゴジラは、最後に、大島の三原山を人工的に噴火させることで葬られる。
偶然にも、大島噴火を予言するようなストーリーになっていた。
こういうケースでは、映画をテレビで放送することが難しくなる。けっこうな災難だ。
しかし、ゴジラは、その後も、福島原発のメルトダウンを予言することになる。
まったくもって不思議な、偶然の一致だ。本当に偶然なのだろうか・・・?

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