都庁を辞めようと思った(3回目)(昭和63年)
大幅な欠員

人事係は、秋風が吹くと忙しくなり、新緑がまぶしい頃になると、ようやく一息つく(今はもう少し短いと思う)。
その中でも、一番忙しいのが3月から4月にかけてだ。当時は4月の人事異動が行われるのは、4月20日過ぎにずれ込むことが多かった(現在は4月1日にきちんと行われている)。
「いっそのこと5月の連休明けにしたら」と、イヤミを言われたりした。

なぜ、そんなに時間がかかるかというと、コンピューターのような便利な機械がなかったのも理由の一つだが、現在よりも人間関係が濃厚な時代で、いろんな人がほんとうにたくさん口出ししてきたからだ。
また、こちらも、そうした言い分によく耳を傾けていた。

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労働と経済の違いというのにも、いつも困惑させられた。企業合併があると「旧〇〇系」という派閥争いが生じるといわれるが、それに近い。

そもそも労働の中にも、国費(職業安定部門)と都費(その他)という壁があった。両者間に交流はほとんどない。
都費の中にも、労政畑、訓練畑(職業訓練)、失対畑(失業対策)という色分けがあり、その一家主義がようやく薄まろうとしている時である。

そんな折、経済局という、まったく異質の局といっしょになった。
幹部は、何とか一体感を醸成させようとあれこれ苦労していた。
「退職者の送別会はバラバラにやらずに労経一体でやろう」ということで青山会館で盛大に開催した。しかし、それとは別に各職域がこそこそと送別会を行う、というような実態であった。

しかも、局が合併しても、労働組合は、労働支部と経済支部に分かれている。
双方とも、どっちが有利か、ということに神経を尖らせる。だから、資料も、全体版、労働版、経済版と3種類作る。他の局の3倍の時間がかかることになる。

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日常業務面でも、制度の取扱いがいろいろと違っていたり、資料の書式が違っていたりして、やりにくいことも多かった。

あるとき、私の作った公文書が、鈴木都知事の元に回り、都知事御自ら「同じ業務なのに書き方が違う」という指摘をした。本来なら知事の判断を仰ぐような内容ではなく、事務的な決裁文書だった。
通常、役人は面倒くさいので、先例に沿って文書を作る。
たまたま、労働関係の仕事が来たので、労働の先例を見つけ、それに習って文書を書いた。同じ頃、経済関係の仕事が来たので、経済の先例を見つけ、それに習って文書を書いた。だから、書きぶりが違ってしまった。
庶務課長が、知事室に説明に行くはめになった。申しわけない。
でも、まさか自分の書いた事務的な文書を、知事本人が読むとは・・・。あらためて、すごい人だと感じ入った次第である。

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1月の20日頃に、新年度の予算案が示される。
私たちはこの日を「地獄の釜が開く日」と呼んでいた。
予算案と同時に、組織定数体制が示されるからだ。財政再建中なので、「新しい仕事が増え、人は増えない」という状況が表面化する。

労働組合と話し合いがもたれる(というよりも、「ど~するんだよ!」と一方的に恫喝される)。
今だと「管理運営事項だ」のひと言で終わるのだが、組合も強い時代であり、組合サイドとしても、一発ガス抜きをしておかないと、周りに示しがつかない。

もちろん、水面下では管理職側からも、「話が違うぞ」とクレームがつく。
それに一つ一つ丁寧に対応していく。だから、時間がかかってしまう。

ましてや、主任制度の導入直後である。試験に合格するのは中堅クラスの実力のある職員。だから、同等の者を後任に配置しろ、という要望は強い。
でも、こっちにはそんなに弾がない。

私たち作業班としては、もっとチャッチャと事を進めたい。しかし、ひざ詰めの談判の結果を、何時間も何時間も待たされる。
そして、また深夜作業だ・・・・。

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人事異動については、いくつか都市伝説のような話がある。
「一番異動したい席を第一希望に書くと異動できないので、第二希望に書いておく」という人がいる。
そんなの迷信だ。
とはいえ、第一希望の職席に異動できないということは、よくある。なぜなら、誰かが第一希望に挙げた異動先は、別の誰かも第一希望にしていることが多いからだ。
場合によっては、二番目よりも十数倍も難関であるかもしれない。
そういう競争率は人事担当は知っているが、口に出すことはできない。

局間交流も同じだった。誰もが見ばえのいい局に異動したい。
管理職としても、部下を煽って主任試験を受けさせたのだから、できれば本人希望の局に異動させたいと考える。そういう圧力がずいぶん強かった。
だけど、希望が叶う数は、限定されている。

職員の勤務評定は、この頃までは本人には知らされていなかった。だから、その評定内容を推測するすべは、昇任試験の合否と、異動希望の叶う叶わないしかなかった。
だからこそ、結果に対してひじょうに神経質になるのだ。
とりわけ本人よりも上司が・・・。部下に恨まれたくないので・・・。

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主任試験の導入の影響で、人事係員も4月1日付けで、半減した。
これも痛かった。
頼りがいのある先輩を欠いたまま、4月に突入する。しかも、体力的にはボロボロの状態でだ。
辛い。

昭和62年4月は、そうした動きのピークだった。
労働分野の担当は、私を残して3人が1人になった。経済担当も3人が2人になった。

「いよいよ、腹をくくるときだな・・・」
そう思って、私は退職願(「○月○日をもって」という日にちだけは空欄だった)を胸ポケットに忍ばせて仕事をしていた。
こんな状態で問題が起こらないはずはない。
たぶん「責任を取れ」と追い詰められることになるだろう、その時は潔く退職願を出そう、と覚悟を決めていた。
今回は、先のことなどどうでもいい、と思っていた。

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たまたまこのとき、都では事務職員の大幅な人員不足が生じた。

都の職員採用は名簿登載方式だが、その登載人数を決めるに当たっては、過去の歩留まりなどを参考にする(たぶん?)。
ところが、昭和61年は、景気が落ち込みから回復に転じた年だった。
このため、かなりの数が民間企業に流れた。
その結果、名簿登載数だけでは、退職者の穴埋めができなくなってしまった。

労働経済局だけで、事務に36名の欠員が生じた。
12月の初めからこれまで、各職場の管理職とは、新年度の布陣について何回も話し合ってきた。
景気回復期には、役所でも新規事業がたくさん始まる。この年も「大切な新規事業があるから、こういう人でないと勤まらない」というような話をたくさん聞かされてきた。
また、職員の中には病気がちの者もいる。家族に病人をかかえて休みを多く取る者もいる。そういった職員を配置される職場では、決まって「過員要求」(予定の人員に+αした配置)が出る。
職員が削減された職場では、残務も生じる。この場合も、「取りあえずは1名余分に残してほしい」と言われる。

「何とか過員確保を要請しますが・・・」と空手形を切らないと、納得してもらえないことも多い。しかし、局全体で確保できる人員には限りがある。大概は、うまく人手が確保できない。
とはいえ、こういう儀式を行っておけば、職場の管理職としては、「人事にお願いしたが、結果はこうだ。悪いのは人事係だ」と言って、職員を説得させることができるのだ。

それがいきなり、「欠員を飲んでもらいたい・・・」「後任者がいないのだけど、どうやって乗り越えるか・・・」という調整に変わった。全職場の幹部を呼んで、一人ずつ説明した。
アレコレ要求を突きつけていた管理職が、突然、寡黙になった。

「こんな状態では、とても人事異動はできない」と、私は上司に抗議した。
「業務命令だ。従えないなら、辞めろ」と言われた。
私は、かねて用意していた退職願を出し、「今は迷惑がかかるので辞められない。いい時期が来たならば、その退職願に日付を入れてほしい」と言った。

それから毎日、半徹夜で働いた。
もう、意地だけだった。

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人事異動の発令まで漕ぎ着けたときは、もうへとへとだった。

前年、私にも主任試験の受験資格ができた。しかし、受けなかった。これまで、合格・不合格に悲喜劇を見てきた。自分には「昇進したい」という気持ちは、まったくなかった。
それに退職願を書くくらいだから、受けても意味ない。

主任試験をボイコットすることは人事係員としては、許されない行為であった。
私としては、いつでも辞めていい気持ちだったから、どうでもよかったが・・・。

課で合格者のお祝い会があった。
私も出席したが、S庶務課長は「オマエには、この席に出る資格はない」と、どなった。

その後の1年間は、本当に惰性で生きた。まだ30歳過ぎで、本来なら油の乗り切った時期のはずだが、心はうつろだった。
こんな仕事、もうたくさんだった。にもかかわらず、苦難は続いた。

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