人事係時代について、語ることは多くはない。
毎日が賽の河原の石積みだった。
いい同僚には囲まれていたが、優秀な職員だけに、皆、私より先に、栄転していった。
係の末席にM君という若い職員が入ってきたので、給与決定の事務を教えた。彼は今年(令和元年)、産業経済局長になった。
別に悔しいとは、うらやましいとかいう感情は、まったくなかった。気持ちが鈍磨していた。
「退職するとか、しないとか」そんなことも、もうどうでもいい問題だった。
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昭和62年の大幅な欠員発生は、都庁内でも問題視されたらしい。
当時、大手の民間企業を見ると、内定者を逃がさないように、途中で説明会やら研修やら職場体験やらをやっていた。
大型船をチャーターして、洋上セミナーを実施する企業もあった。
都庁は、何も行わず手をこまねいていた(=予算に縛られているので、柔軟な対応はできない)。
翌年から内定者を招いて洋上セミナーなども行うようになった(=でも、ここまではやり過ぎだと思う)
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少し難しい話になる。興味がない方は読み飛ばしてほしい。
状況打開の手立てとして、「初任給アップ」が実施された。
初任給が上がると、賃金カーブがいびつになり「中だるみ」の問題が生じる。
この年の初任給アップは、給料の昇給カーブに大きく影響を与えた。
このため、在職している職員の給料も、連動して上げなくてはならなくなた。
こうした措置を、在職者調整(在調)と呼ぶ。
高度成長期の47調整などが有名だったが、在職者の賃金調整をするのは久しぶりのことだった。
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総務局人事部のS主査が相談がある、と言ってきた。
総務局人事部といえば、私たち事業局の人事担当から見れば、かなり偉い存在だった。
話の中身は「在調の件」。
「幹部の中には、成績を基準に給料の在職者調整をしようという意見がある。各局は、それに耐えられるか?」との質問だった。
「とても無理です」と答えた。
今では、都庁職員も勤務評定され、それによって給料に差が出るのも当たり前になっている。
しかし、当時、業績評価がやっと導入された時期で、「成績による特別昇給」があったとはいえ、かなり平等な取扱いがされていた。
そんな中で、いきなり成績主義で給料調整をするというのは、乱暴な話だ。
そもそも、在調は、職員給与の制度的な手直しであり、成績による評定が入り込む類のものではない。
私の意見が採り上げられたかどうかは分からないが、元年度の在職者調整に勤務成績による選抜が盛り込まれることはなかった。
しかし、客観的な制度によって処理されるようになったため、様々な、例外的対応が発生した。
その多くは、今年退職する人はどうするのか・・・といった種類のものであった。
そうした問題に対応するために、各職場の給与担当は、たいへん苦労されたと思う。
申し訳なかった。
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1年間、私は惰性で人事第一係にいた。
もう5年目だ。
「主任試験を受けなければ、人事第一係を出さない」と言われた。
同僚はに二巡目に入っていた。自分が配属されたときにいた人は、すべて他所に転出し、その後に来た人もほとんどは、異動していた。
中には、いったん係から他所に異動し、また係に戻ってきた人もいるくらいだった。
係を出たい一心で勉強した。受かった。
その結果、私は、労働経済局総務部庶務課人事第一係から、衛生局(現、福祉保健局)総務部庶務課人事第一係に異動した。
詐欺だ。変わったのは局名だけだった。
あれほど、もう人事はご免だと言っていたのに。
最後に上司から「もう、これは必要ないから、返すよ」と言われ、退職願が戻された。
日付のない退職願は、しばらくは私のアルバムに記念として残っていた。
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