衛生局へ(平成元年)
不夜城

局間交流で衛生局の人事係長の面接を受けた。
「最後に何か、言っておきたいことがありますか」と聞かれたので、しめたと思い、「実は肝臓が悪いと言われています」と答えた。

労働経済局に帰ったら、課長に呼ばれた。
「何? 肝臓が悪いんだって? さっき、衛生から電話があったんで、『毎日遅くまで残業しているから、大丈夫だよって、答えといたよ』」と、言われた。
あ~、何というありがた迷惑・・・・。

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行った先に人事第一係は、私より若い職員ばかりだった。
この人たちを全部送り出さないと、異動できないのか、と暗澹たる気持ちになった。
その頃、作業班には佐渡出身の職員が2人いて、彼らとは、今でもよく映画を見に行く。
同係の採用担当だったF係長は、後の産業労働局長。また、新採2年目の帰国女子のI主事には、私の最後の職場である中小企業振興公社の部長として仕えた。 隣りの課のI係長、F主査も同じく公社の理事長になった。
皆さん、ずいぶんな出世だ。

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当時、衛生局は「不夜城」と呼ばれていた。

「キミの前任者は、月300時間残業したんだよ」と係長から言われた。聞くと、1か月、ほとんど帰らずに職場に泊まり込むと、そのくらいの残業時間になるらしい。前任者は、地下のシャワーを借り、衣服は奥さんが自宅から運んでくるという生活だったとのこと。
「私には家族がいないので、そんな生活は無理です」と、言った。

衛生局が「不夜城」と呼ばれるようになったのには、それなりに理由がある。

当時、衛生局は、その出先に都立病院を擁していた(今は病院経営本部として独立)。

病院の看護師は3交代で、夜の10時くらいに、夜勤の看護師が出勤する。
事務職員が残業して10時頃にようやく帰宅の途につく、その道すがら出勤する看護師(20代そこそこの)とすれ違う。
こんなに早い時間に帰っていいのか・・・と、良心が痛むそうだ。

そういった病院経験のある職員が、衛生局を支えていた。だから、残業は当たり前という職場風土が出来ていた。
昼間は出張や会議で在席職員は少ないが、夕方6時過ぎになると大半の職員が席にいる。
女性の職員たちは、午後3時頃になると、「今夜の夕食はどこにする」という相談を始める。毎日帰りが10時頃になるからだ。
私たち他局から来た人間から見ると、とても正常な姿とは思えなかった。

新任の私たちを目の前にして、衛生局の幹部職員は、こう挨拶した。
「皆さんが、たいへん一生懸命仕事をしていることについて、私はかねがね感謝している。その感謝の気持ちをどうやって、皆さんにお返ししたらいいのか、常日頃から考えてきた。仕事熱心な皆さんに報いるためには、もっとたくさんの仕事をやっていただくのが、一番いいと思う。より一層頑張ってください。」
ジョークでも、労働経済局出身者としては、許し難い言葉だった。

上がこうでは、長時間残業が改善されるはずはない。ひどい職場に来た、と思った。
E人事第一係長は言った。「ウチには都立病院がついている。大丈夫だ。まだ、一人も死なせたことはない」
事実、職場で倒れた係員を病院に連れて行き、点滴を打たせてから、職場に戻って働かせたことがある、という。

なお、このような長時間労働は、最近ではさすがに是正が進んでいると、聞いている。
他局から主任交流で職員がたくさん流入し、不満を表するするようになると、生え抜きの職員も、「やっぱ、これっておかしいんじゃない」と思うようになったらしい。
大局なので、ITをうまく使えば、大幅な業務改善が図れる。
当時は、「糊とはさみとホッチキス」の時代。大きな模造紙に職員のデータを貼り付け、それを俯瞰して、人事に活用していた。よくそれで1万人の人事管理ができたものだと思う。

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常時残業の職場だと、早く帰ろうという習慣が失われる。

まずは、食事、それから風呂。そうして仕事だ。自分用の寝袋を持ち込んで、そこで寝る。いちいち家に帰っていたのでは、睡眠時間が確保できない。過労死より、その方がましだ。
300時間の残業はさすがにしなかったが、月100時間越えはざらで、200時間越えも1回あった。そのときは、完徹もした。

同じ係に新採の女性が配属されたが、彼女がまた仕事熱心だった。
「早く帰りなさい」と、毎晩10時過ぎに帰らせていた。
後日、彼女から「自分は体力に自信がなかったので、八重洲のホテルに部屋を取って、そこから通っていた」と、聞かされた。
自分の力不足を恥ずかしいと思った。

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ある日、職員の健康管理をする総務局から、電話がかかってきた。
「先日の健康診断の結果で、肝機能の数値が著しく悪い。診断結果が手元に渡るまで1か月ほどかかる。急いで、精密検査が必要だ。すぐに病院に行くことを勧める」
多忙でそれまで都立病院の現場に行くことがなかったが、患者になることでようやく都立病院を見ることができた。

幸い大事には至らなかった。が、今でも年に数回は「叱られに」地元クリニックに通院している。
この間20年近く、患者として病院設備の変遷を目のあたりにしてきた。
たしかに設備は良くなったが、どこかしら人間的な部分が薄まっているように感じられる。医師は患者ではなくモニターを見ながら問診をする。
気のせいだろうか?

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衛生の人事での最初の仕事は、相変わらずの給与決定。それから、退職事務。

衛生局は1万人弱の所帯だった。ただでさえ、退職者が多い。
当時、看護婦(現在は看護師だが、以下、当時の呼び方を使わせていただきたい)の退職が相次いだ。
気の毒だったのは、採用担当だ。
毎月のように採用試験をして、看護婦不足の手当に奔走していた。

実は、これには原因がある。
国が「地域医療計画」というのを見直した。
地域ごとに、設置できるベット数の基準が示された。

経過措置期間が設けられた。病院側としては、この機を逃すと、病棟を拡張できなくなる。
折しも バブルだ。だから、無理をしてでも資金を調達して、院の建て増しを進めた。
病床が増えれば。看護婦が必要になる。

そのため、都立の看護婦が、民間に引き抜かれた。
「札びらで横っ面を張られるようなもの」と、私たちは歯がみをした。

当時、看護婦には正看と准看という、格があったが、都立病院は正看が大半を占める。
これに対して、民間は准看が多かった。病棟に正看はどうしても必要なので、民間病院は、何としても確保しなければならない。

おそらく、勤務条件に関しては、都立病院の方が良かった。
しかし、都立病院は万年赤字に苦しんでいた。財務当局からは常に健全経営が求められ、民間との差もなくなってきた頃だった。

看護婦の不足は一気に進んだ。そして、翌年、一気に終息していった。

それまでの間、採用担当のO係長、F主査は、毎日深夜まで仕事漬けだった。
採用担当は、千人を超える採用をしたことと思う。
退職担当の私も、年間800人分の退職事務を処理した。

その一方で、子供の数の減少が進み、産院の廃止が進められていた。

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そんな折り、汚職事件が発生した。また、エイズの患者の第一号が出た。この時期が重なって、局はもうてんやわんやになった。

都立病院の汚職は、心臓のペースメーカーの購入に係わる収賄。
病院の医師は、民間病院と公立病院との間を、行ったり来たりしながらキャリアを上げる。
民間のときはバックペイをもらっても犯罪にはならない(職務規律には抵触するだろうが)。
同じ行為でも、公立病院のポストにいるときは、犯罪者となってしまう。
そういうケースだった。当事者の医師は、そのことに気がつかなかったのだ。
いきなり職場に、報道陣がどっと押し寄せた。たくさんのフラッシュがたかれた。

職場の先輩がぽつりと言った。「本当に問題なのは、機器が高度化しすぎて、いったいどの会社のどの機械が優秀なのか、誰も判断できなくなってしまっていることなんだ。 だから、一人の医師の言い分で業者が決まってしまったりする・・・」

翌朝、局長が全管理職を集めて檄を飛ばすという。
総務部長の口述に従って、草稿を徹夜でワープロ打ちした。
まだワープロが物珍しい時期、しかも、幹部職員にとってはなおさらだったものだから、私の後ろには人垣ができてしまった。
すべての管理職が一同に介し、局長の訓話を聞いた。
あまりの手際の良さに、「さすが衛生局は違う」と、幹部連はほめられたそうだ。

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別の部では、エイズのポスターを貼るとか貼らないとかで、大騒ぎをしていた。
出来上がったポスターの図柄は、コンドームの中に全裸らしき女性が立っているというものだった。品位が悪いので、張り出せないという話になっていた。

もう一枚、別のポスターがあった。中年男性がパスポートで顔を隠してる絵柄で、「だいじょうぶですか・・・」というコピーが付いている。
「私はこっちの方が問題なのではないかと思いますが・・・」と申し上げたのだが、誰も反応しなかった。

当時、エイズ担当の席は、朝一番で電話が鳴り始めると、退庁するまで電話で話しっぱなしになっている、という状況だった。「男性だと保たないが、女性はなんとかしのいでいる」と、担当課は言っていた。やっぱ、女性の方が修羅場には強いのか?

その後もエイズの患者は増えている。しかし、あのときのように騒ぐ日本人は見かけない。
ほんとにそれでいいのだろうか。

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