都庁移転(平成3年)
幻のクーデター計画

都庁が平成3年3月に新宿移転した。
衛生局は3月15日に、丸の内西2号庁舎の古巣はたたんで、西新宿に移った。
楠木正成の銅像の前で記念写真を撮った。ちなみに、この銅像は東京国際フォーラムのアトリウム内の同じ場所に、今も立っている。

荷物の搬送がある土日は、私にとって、久しぶりの休日だった。
新都庁の周辺の探検に行き、「銭湯」を探した。さんざん探して、新都庁から歩いて20分くらいのビルに銭湯を見つけた。フロがないのは、死活問題だ。
職場に泊まり込むのは馴れていたが、フロがないのは耐え難い。十二社温泉などで急場をしのいだ。
なさけなかった。風呂付きの家に引っ越したいと、強く思った。

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退職担当の私のところへ、幹部から命令が来た。「今年の退職辞令の交付式は新庁舎でやる」
正直なところ、そんな勝手がわからないところで大きなセレモニーはやりたくなかった。
しかし、退職する人たとの気持ちを考えると、一か八かでやるのも、仕方ないことだと思った。第二庁舎の1階のホールを借りて行った。下見をする暇も無い。出たとこ勝負だった。

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初めて新庁舎へ行った。あの誇らしい気持ち。まだ覚えている。
新宿駅から歩けど歩けど、都庁に着かなかった。巨大だから、遠くからも近くに見えた。
着くとすぐ、事務用品の梱包を解いた。そして、自分たちに割り当てられた棚に「人事第一係」と書かれたカラの収納ボックスを並べる。そうしないと、他の係に取られてしまうのだ。
そして、周りがバタついている中で、すでに仕事を始める。1年で一番忙しい時期が3月だから余韻に浸っている余裕はない。

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最初のうち、新庁舎はひじょうに使いづらかった。
観光客がどんどん入り込んできたこともある。
都庁のてっぺんの階には、特別会議室といってグレードの高い会議をする部屋があるのだが、そんなところにも、観光客が迷い込んできた。
無料の展望台が人気スポットだったのだが、1階で何時間も待たないと専用エレベーターに乗れない。それで、業務用のエレベーターでとにかく登れるところまで登って、後は階段で行こうとする親子連れなどがやってきたのだ。
専用エレベーターでないと展望台へは行けない構造なのに。

4月の辞令交付式も、新庁舎の大講堂で行った。28階から大講堂まで、事前にアクセス時間を計ったら20分もかかった。そこで、式典には早めに来るよう、幹部に伝えてもらった。
通常、辞令交付の式典は、事前に職員を着席させてから、「それでは幹部職員の入場です」というアナウンスが入って幹部がうやうやしく入場する。
ところが、幹部も早く会場を見たくてたまらないもんだから、一般の職員といっしょに講堂に入ってきてしまい、「すごい、すごい」と言って、子供のように喜んでいた。

夜になると、立木の影でいちゃつくカップルが多数、発生した。
残業帰りには、それを横目にしながら帰宅。「何も、オレたちゃ、あんたらのために明かりを灯しているんじゃないぞ」と、言ってやりたかった。

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ところで、都庁移転は、私たちにとって、単なる勤務先の移転ではなかった。
行政の仕組み自体を、これと合わせて大きく変えるプロジェクトが進んでいた。
その一つが、情報社会への対応強化だった。

丸の内の時代も、人事・給与電算と呼ばれるシステムは存在した。
当初は、職員の給与を管理するシステムだったが、その後、ひじょうに不完全ながら人事記録も載るようになった。とはいえ、私たち人事係職員はこの電算データを信じておらず、紙ベースで引き継がれてきた職員記録を第一とし、人事電算から打ち出されるデータは、そのチェックの ための補助データとしてしか利用していなかった。

ところが、新宿移転を契機に、すべての人事データを電算に移行するというプランが示された。
現在、年金データの移行をめぐって諸問題が発生しているが、それとよく似た問題が、このとき各局の人事担当者にのしかかってきたのだった。
「このまま新電算に移行させるのはリスクが大きすぎる」と、関係者は意見が一致した。

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そこで、総務局人事部の担当者を呼び出して、先延ばしするよう説得することにした。当時、人事電算の担当は、衛生局の出身、ひょうきんなキャラクターで多くの人に好かれていたY主査だった。

それを取り巻いたのは、私を筆頭に、職員数1,000人を超える大規模事業局の人事担当者。
事実上の糾弾集会だった。集まった仲間は、この会議を「クーデター計画」と呼んだ。

「せめて旧電算システムとの平行運用期間を設けて、段階的に移行すべきた」と、私たちは迫った。
しかし、Y主査は言った。
「それは不可能。旧システムを新庁舎で運用する予算は、ゼロだ。」
私たちは、無謀とも言えるこの計画に、腹が立つよりも驚いた。

すべての予算は新システムにまわされ、旧システムの存続はない。しかし、職員給与は今も旧システムで計算されている。万一移行に失敗したときは、全職員の給料が出なくなる。
そうでなくてもデータの入力ミスによる給与額の間違いは大いにあり得る話だし、昇給時期データの誤りによって次期昇給月が狂う可能性は大きい。
こういう問題は、当の職員本人もなかなか気づかない。

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もとよりY主査が悪いわけではない。大規模システムが急に作れるはずはない。
Y主査の前に、そうしたプランを引いた人がおり、何もしらないY主査が、ポィと担当の席に置かれた、そんな筋書きだろう。
人事異動が頻繁に行われるようになったため、後から行った者が責任を負うということは、よくあることだ。

ともかく、Y主査の言葉を聞いて、血の気が引いた。
私たち各局人事係員は、それ以上の説明を聞いても時間の無駄だと判断し、小走りに自局に戻った。
そして、ただちに自局の各部門に電話した。
「個別の人事データは後回しでかまわない。給料の等級号給、昇給月だけは間違いないように再度チェックし、ともかく、4月の給料日に正しい給料が出るようにしろ!」

新庁舎移転後、職員給与の誤りは少なからず発生したが、規模の大きい局でのトラブルは思いの外少なく、不思議がられた。

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Y主査は、その後衛生局に戻られ、課長補佐に昇進し、保健所担当になられた。

当時、多摩地域の保健所の、かなりドラスチックな改編が進められていた。
保健所行政は権力行政なので、法律に裏づけられていた。それが、改革を遅らせていた。その一方で、市町村では保健のサービス行政が普及していた。
そうしたところで、急に法律が改正され、保健所の役割が大幅に減った。当然、保健所の数も大きく減らされた。
ところが、保健所は、病人を抱えた人たちにとっては、最後の駆け込み寺となっていたのだ。
おそらくY課長補佐は、関係する人たちの非難の的になったと思われる。
とかく、そういう立場に置かれやすい人だった。

Y課長補佐は、その後、急逝された。
あまりに急な話だったので、「以前から病気だったのか」と、知り合いに聞いた。しかし、亡くなった原因を知る者はいなかった。

2人の子供が、残された。
ご冥福をお祈りする。

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