阿佐ヶ谷と「とり盛」(平成4年~15年)
ジャズの似合うオトナの街、阿佐ヶ谷

衛生局の人事第一係には、4年間在籍した。
衛生局は大きすぎて、人の顔の見えない人事をやっていた。労働経済局とは違う。数は圧倒的に大きかったが、あっさりした感じだった。

毎日のように残業している私を見て、看護課長から「あなたは毎日、日勤準夜ね」といわれた。
8時半出勤10時退庁の意味である。

あまりにも残業が多いので転居を考えていた。
ちょうど地上げブームで、大家の代理人から「家を明け渡してほしい」と言われた。

我が家が西品川の家に移り住んだのは、昭和30年10月3日(信じられないことに賃貸借契約書が残っていた)。すでに36年余りが過ぎていた。木造の長屋は、もうがたがたの状態だった。壁は落ち、物干しには穴が空き、2階の雨戸は外れ、逆に1階の引き戸はなかなか開けづらくなっていた。
ともかくフロがないのがつらかった。

地上げ屋と称される人たちは、まず最初に銭湯を狙った。
銭湯がなくなることは、その地域に古くから住んでいる人たち(=家風呂がない)の生活を直撃する。

代理人からは「家が危険な状態なので、もう、放置できない」と言われた。すこし前に、近くの工事で、壁のモルタルも剥がれ落ちていた。
「そういうお話が来るのをお待ちしていました」と、私は二つ返事で答えた。

立ち退き料60万円を受け取った。ゴネていればもっと取れたかもしれないが、こっちも時間がなかった。

「この先、この土地はどうするのですか」と聞くと、マンションにでもする予定だという。
しかし、私が立ち退いて後も、10年くらいは更地のまま放置されていた。
売り抜けるには、少し時期が遅かったのかもしれない。
いま彼の地は、ファミーユ下神明という高層マンションが建っている。そのマンションに敷設された小屋(たぶんゴミ置き場)が、私の住んでいた3軒長屋があった場所だ。

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阿佐ヶ谷の家を借りたのは平成4年6月18日。
衛生局の各病院との距離を調べたら、中野周辺に住めば、どこへも1時間程度で通勤できると判明した。
残業が多いと終電の時間が心配になる。新宿発の総武線の最終は三鷹止まりだったから、新宿~三鷹間で新居を探すことにした。

宝島という雑誌があり、たまたまそのとき「この街に住め!」という特集が組まれていた。
第一位に推薦されていたのが、阿佐ヶ谷だった。「一生に一度は住んでみたいまち」と書かれていた。

どんなところなのか分からなかったが、即決して、賃貸情報で見つけた不動産屋に飛び込み、現地を見て「ここ」と決めた。新築物件、2階建てで 2階部分が賃貸マンション。塗料の臭いがしたが、気にはならなかった。

36歳、中途半端な年齢だ。どうせ住んでも1、2年だと思った。ベッドも買わず、フローリングに煎餅布団で寝た。
まさかそんな生活が10年以上も続こうとは・・・。

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3か月くらいかかって、すこしづつ家財道具を電車で運んだ。
手荷物として運べないものは、誰かに譲るか、捨てるかした。
長い一人暮らし、寝に帰るだけの毎日だったので、さしたるものはなかった。

まだ新しい冷蔵庫と洗濯機があったが、友人Wの職場の男性に洗濯機を、友人Iの職場の女性に冷蔵庫を譲った。後日、この二人が結婚し、私の冷蔵庫と洗濯機は、新婚夫婦の新居に再び並ぶことになる。奇遇だ。

欲しいものがあれば、持っていっていいよと言ったら、友人のIが、カメラが壊れたのでほしいと言った。
「子供の成長記録が・・・」と言われると、ダメとも言えなかったので、エイヤっであげた。
キャノンのAE-1、一眼レフのいいカメラだった。

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阿佐ヶ谷はジャズの街だ。
新宿や渋谷のような喧噪はなく、かといって田舎過ぎず、なかなかセンスのいい土地柄だった。ロックと阿波踊りで有名な高円寺に比べると、洗練された大人の街といったところだ。気に入った。

私が住んだのは、阿佐ヶ谷と荻窪の間、文化女子大附属高校のそば。
隣の隣に、偶然にも隣の隣の課の課長の自宅があったのには驚いた。
職場でも、近所でも、できるだけ顔を合わせないように気をつけた。

大家はとても気のいいおばちゃんで、亡くなったご主人は医者だということだった。隣の隣りの課長も医師だったので、そういった繋がりがあったのかもしれない。
ご主人はジャカルタで病院運営にも協力したことがあり、現地では尊敬されていたということだった。
私もジャカルタの研修員受入をやっていたので、何やら不思議な縁を感じた。

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とり成

転居後は家風呂があるので、夕食・フロ抜きで残業した。
職場にはできるだけ泊まりたくなかった。職場で寝起きしたのでは、近場に転居した意味がない。

阿佐ヶ谷の駅に着くのは10時半過ぎだった。
開いているのは飲み屋だけだ。

駅前の本屋の先に、川端商店街という小さな路地がある。
私が転居した頃、そこに「とり盛」という焼鳥屋がオープンした。
マスターは私より1歳年下だった。ジャズがBGMで流れる、小粋な店だった。たまに手伝いにくる奥さんは美人だ。ときには、有名な歌い手が、焼き鳥を食べていたりする。

長いカウンターがある店が、私には必要だった。
いろいろと資料を読みながら、夕食を取るには好都合だったからだ。

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武道や茶道といったワザの道に作法があるとすれば、飲んべいにも客道といったものがある。

私はおでん屋をやっていた経験から、どんな客が店から好かれるか、知っていた。
ただでさえ閉店間際に来て、本を読む陰気な客だから、せめて店側からは嫌われたくないと思った。

客として一流になるのは、実は簡単だ。
要するに「混んでいるときは来店せず、すいているときは次の客が来るまでいる」――これが肝要。

私はそういう客として10年にわたって、とり盛に通いつめた。
10周年の記念式典で、店長から「津田さんのようなお客さんがいたから10年やってこれた」と言われた。でも、そのときはもう、次の引っ越し先が決まっていた。申し訳なく思った。

「いつも、難しそうな本ばかり読んでいるのですね」と言って、マスターは冷やかす。
たまに雑誌などを読んでいると、「普通の本を読むこともあるんだ」と言われた。

とり盛は、今でも川端商店街にある。電車を乗り継いで、毎週のように飲みに行く。
新鮮で「レアーなレバー」は絶品であり、店長の自慢の一つとなっている。
私はいつもの席にいつものように無口で座り、「いつもの」と一言いう。いつものコースが出てくる。
とり盛は、もう開業20周年を過ぎた。

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とり盛のマスター は1度だけ支店の開業をしたことがある。高円寺だった。
だが、隣がピンク系の店だったので、なかなか客が入ってこない。失敗だった。
今は阿佐ヶ谷一本でやっている。「なかなか客の入りが読めない土地柄だ」と、マスターは言っている。

その後、練馬に引っ越してからも、この店には毎週土曜日に通っている。
練馬の自宅を出て、徒歩で南下。1時間半ほど歩くと立正佼成会の伽藍がある。そこから、善福寺川緑地に入って、川筋を進むと、1時間半弱で阿佐ヶ谷に着く。
この3時間が、土曜日の私の散歩コースになっている。

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阿佐ヶ谷にはパールセンターという長いアーケード街があり、夏になると七夕飾りをする。
たいへんな人出だ。アニメの主人公などのハリボテが吊される。
最近では、ハロウィーンの催しも出てきた。定着するかは謎だ。
また、ジャズストリートというイベントがあって、あちこちでジャズが流れる。最初は路上とか、ちょっとした空き地とかも使ったのだが、やはり苦情があるらしく、駅前といくつかのスタジオでやるようになった。

とり盛りでも、たまにジャズイベントをやる。以前はプロを呼んでいたが、最近では自分たちで楽しむスタイルになった。私はこういうときには行かない。ジャズが嫌いなわけではない。客道に反するからだ。

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