農業振興担当へ(平成5年)
農業振興プラン

いろいろあって、労働経済局に戻ることになった。
衛生局に異動したとき、もう辞めるなんて言わないで、この局に骨を埋めようと思ったのだが、自分の異動をめぐって課長ともめた。事業所のある局に行った以上、現場の仕事を経験してみたかった。しかし、どうしても本庁から出してもらえなかったのだ。

3月の人事異動の中、局間交流者名簿に私の名が載った。
「これからお祝いをしましょう」と、係員のU主任が言った。
夜中の12時を回っていた。
残り仕事をしていた係員が西新宿の養老の滝で、私の帰局を祝して、乾杯してくれた。

それまで係員とは距離を置きながら淡々と仕事をしていただけに、この思いやりは、心にしみた。
当時の衛生局の仲間とは、今でも付き合いが続いている。

衛生局に異動した後、労働経済局時代の同僚からは「看護婦に囲まれていてうらやましい」と言われたが、4年居て、婦長以下の看護婦と口を聞くことは、とうとう一度もなかった。

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衛生は、大きすぎてつかみ所のない局だった。その点、労経は、まさしく中小企業の寄合所帯である。
帰局後の配属先は、労働経済局農林水産部農政課だった。農政係というところに配属された。農業なんかまったく知らないのに、農業振興担当だ。

鋤・鍬など手にしたことはない。ピーナッツは木ノ上に実ると思っていた。タマネギが生長するとネギになると信じていた。そんな人間に農業振興をやらせるのは、はなはだ失礼な話だが、飯のタネなのでしかたがない。

幸運にも、同じ係の農業技術の係員2名は、私が人事第一係にいたときに採用した職員であって、右も左もわからない私に対し、ほんとうに丁寧に仕事を教えてくれた。

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当時、農林水産部では、「農業振興プラン」の完成が迫っていた。
その前年に生産緑地法が施行されたのだが、この法律によって、都市地域の農地は、存亡の危機に立たされていた。
農地に課せられる税金は、宅地に比して著しく低い。このため「宅地並み課税」を求める声が高まった。
この舞台裏には、農林水産省と建設省との軋轢があった、とも聞く。

農地の課税が「宅地並み」になったのでは、事実上、農業を続行することは困難だ。
そこで「宅地並み課税は免除するが、その後も農業を継続するという確証を示せ」というのが、生産緑地法だ。

ある意味、都市農業者の踏み絵だった。
生産緑地に指定された農地は、宅地並み課税は逃れられるものの、住宅地等への転用は原則できない。
(余談だが、最近、事業承継税制という相続税の優遇策ができたが、この仕組みは生産緑地法とよく似ている。ちなみに、生産緑地法が都市地域の農地保全にどれだけ役だったかについては、いささか疑問に思う。とすれば・・・)。

こうした背景の中で、東京都として都市型農業をどうしていくのか、という方針策定が求められた。
そこで生まれたのが「東京都農業振興プラン」だった。

プランが完成し、各地で説明会が開かれた。
鋤・鍬も手にしたことがない私にも、プラン説明会講師の分担が来た。
場所は中野サンプラザ。
目の前には、農業一筋うん十年の農業関係者80人がいた。

あまりの緊張に、自分がどんなことを話したのか、覚えていない。

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今、地産地消という言葉が注目されている。その地域で作られた製品をその地域で消費するシステムを作ろうという考え方だ。地域資源の活用、エネルギーの節約などにも通じる。

およそ農産物というのは、地方から都会に輸送される。
したがって、地産地消は実現困難なのだが、東京の農業だけは例外だ。

東京では、米はほとんど取れないが、野菜はかなりの生産が行われている。
当時の農業振興プランでは、都内で生産される野菜はカロリーベースで換算して、奈良県民の消費する野菜の量に匹敵する、というような表現が使われた(引き合いに出された奈良県は迷惑したかもしれない)。

そういう表現が使えるくらいの生産があった。
しかも、消費ルートに乗らず市場に出てこない野菜、つまり、畑の脇の無人販売所に置かれ一袋100円で買われる「じゃがいも」「にんじん」なども、かなりの量だといわれる。
市場経済に出すには運送代などの経費が必要になる。だったら、安くして直売りの方がいい、というやり方だ。練馬の今の家の近くにも、そういう自動販売ボックスがある。

農業のPR担当として私は、「練馬は大根ではありません。キャベツです。稲城は梨です。三鷹は茄子です。小松菜 にちなんで小松川の地名が生まれました。東京小町というのはウドの名前です。高尾はぶどうの品種です」と、説明していた。

「東京の農業」という映画も、制作した。

しかし、東京都行政の中で、農林水産部門に対する風当たりは、かなり厳しくなっていた。
当時、蚕業試験場というのがあって、映画の中で蚕について大きく扱ってもらった。
できあがりを見て、農林水産部長は、「蚕か・・・」と、ため息を漏らした。
蚕業試験場は、その少し後に廃止になる。そのことを、当時の私は知らなかった。

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当初、私の仕事は農業振興地域の指定。
実際には「指定解除」のための農業会議への説明だった。これを俗に「農振はずし」と呼んだ。

日本の土地政策は農地を大切にした。農地の転用には、農業会議の了解が必要だった。
さらに優良な農地は、「農業振興地域」に指定された。農振地域の指定を受けると、国の補助金による土地改良ができるようになる。
このため農業振興地域が、多摩と島に点在することになった。

しかし、都市化が進み、後継者もおらず、農振地域は放置されるようになった。
国の補助金が投入された土地は、宅地開発が許されない。だから、逆に荒れ地のまま、資材置き場にされたり、不法投棄に利用されるといったことが、続いた。

農業振興地域を開発するためには、まず、農振地域の指定を外さなければならない。
この理由説明会を行う。

説明する側も、説明を受ける農業会議も、複雑な思いだ。

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JR五日市線の武蔵増戸と武蔵五日市の間に「横沢入り」という土地がある。
そこでも、細々と農業が営まれており、農業振興地域に指定されていた。

当時、地元では、この地域の宅地開発計画が進められていた。
大規模なリゾート風住宅を建てて、地域の値打ちを上げる、それを起爆剤にして五日市線の複線化を図る、という目論見になっていた。土地はすでにJRの所有物になっていた。
五日市の駅舎もすごく立派になっていた。
しかし、駅と駅との中間の原野が、そう簡単に売れるとは思えない。まさに、バブル的発想だ。

「農振地域は、じゃまだから外して欲しい」と、市の開発担当は懇願した。

本当にどんな土地なのか、私は休みの日に実際に現地を歩いてみた。
何もない谷間だ。片隅に小さな田んぼはあったが、どちらを見ても、それ以外の人工物は見当たらなかった。
一挙に原始時代にタイムスリップしたような感覚だ。
山の向こうから恐竜が顔を出してもおかしくないような、そんなところだった(おかげで蚊にさんざんやられ、ボコボコになったが・・・)。

「何もない」ということが、こんなに大切なものとは思わなかった。
まだ東京にこんな土地が残されていたのか、何としても、この土地は守らなければならないと思った。

バブル崩壊とともに横沢入りの開発計画は中断され、平成12年、開発中止となった。
今、その土地は東京都が管理している。トンボや蝶や蛍、カエルやサンショウウオの楽園だ。
小さな田んぼでは、今年も、地元の小学生が田植えをした。

残ってくれて、ホントによかった。

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東京電力が八丈に地熱発電所を計画していた。
発電所そのものの土地は限られた範囲だが、地中に斜めにパイプを通し高熱の地下水を汲み上げる、その上の土地はすべて東電が買い上げる、そういう計画だった。
その土地に、農業振興地域が含まれていた。

この農振はずしが、私が農業“振興”担当として最後に担当した仕事となった。
わずか半年で係が変わった(詳しくは次項)。

以前、八丈の地熱発電所のそばに「地熱利用農業用・省エネルギーモデル温室団地」が設置されていた。
かつて、農業振興地域があった名残だ。

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その数年後になるが、同じ係で私を手助けしてくれた、Tが亡くなった。まだ40代だった。
農林水産部の、その後、リストラ、リストラで大変だったようだ。庶務係長だったTは、その重荷を一身に背負った。
健康診断で、レントゲンに影がうつり、再検査を促された。しかし、多忙で先送りにしていた。
検査したときは、すでに手遅れだったという。(合掌)

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