農林部門大リストラ(平成5年)
地獄の半年間

生産緑地法の施行、それへの返答としての農業振興プラン。
東京都の農林水産行政は大きな花火を打ち上げた。
一方、様々な方面から、農林水産行政への攻撃が強まっていた。それに対抗する意味での「振興プラン」でもあった。

私の所属する農政係は、決してヒマな係ではなかった。
農林水産関係は関東ブロックなどの会議が頻繁に行われていた。他県には、かなり多くの職員が農業部門に配置されている。会議の出席も輪番制でできる。しかし、都の農政係は、当時わずかに4名。一人当たり何回も会議に出席しなければならない。各人手分けして、ブロック会議に出た。
会議があれば、そのための資料も作らなければならない。毎日、残業して資料作りとなった。
私は半年間で9回も、他県で行われる会議に出張した。
会議と会議の合間を見ながら、本来の業務をしているというのが実態だった。

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農林水産部では、私が来る直前に、水産課の汚職事件があった。
水産課では、レジャー用の船舶の大きさ確認をしていた。それによって課税などが変わってくる。
若手の担当職員が賄賂を受け取って、小さめに評価した。それが発覚したのだ。

いろいろウワサはあったが、結局のところ単独犯として処理された。
しかし、職員個人に全面的な責任を押しつけたのは、いかがなものか。

こういった汚職事件は起こりうる。
このため、検査は常に複数の職員で対応するよう、内規では決まっていた。
しかし、毎年のように行われる人員削減の結果、複数対応は絵に描いた餅でしかなかった。

ただし、当の職員自身、周囲とうまく付き合えない人だったようで、誰も彼を弁護しようとしなかった。
本人も、処分され、退職できてサバサバした様子だったと聞く。
「今後は複数で対応させる」という報告書が出された。しかし、複数で対応するための人員配置はなかった。

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平成5年9月末。私は、かつての人事係の同僚であるO係長から、ポンと肩を叩かれた。
「いゃぁ、居るところには居るもんだねぇ」と、O係長は言った。当時O係長は人事担当だった。

10月1日付で、突然私は、部の管理係に配置転換された。農林水産部には1年間しかいなかったのに、2係を経験することになった。

かなり大規模の組織・人員の削減計画があり、その対応が必要となったためだ。
200人を超える人員削減が求められた。
前任は、その話を聴いて出勤拒否になってしまっていた。

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午前10時に辞令交付があった。
上司から「悪いけど、今夜、総務局の組織担当と会議ある。つき合ってくれ」と言われた。

当方からの一連の事情説明が終わると、総務局の担当は「あんたたち、これまでいったい何をやってきたんだ!」と恫喝した。係長は小さくなって、ひたすら相手方の非難を受け止めていた。
(こっちは午前中に辞令をもらったばっかりなんだ。「これまで何をやってきた」はないだろ。だいたい、オレだって人事関係では足かけ10年のキャリアがある。あんたらみたいな若造に、 何でそんな口を聞かれなければならないんだ・・・)と心の中でつぶやいた、そして(あぁ、オレも歳を取ったんだなぁ)とも感じた。

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それから先、ひどい毎日が続いた。

総務部には、組織定数担当と人事担当がいて、双方で牽制し合っていた。
しかし、農林のリストラはうまく着地させなくてはならない、この点で両者の利害は一致した。

総務部といっても、資料作りにはどうしても農林水産部の協力が必要だ。

どうやら私たち2名との打合せ議日程を、組織定数担当と人事担当で、調整しあっていたようだ。
「8時から9時までは組織がいただくから、9時以降は人事にまかせる」といった調子だった。
私たち2名は、両係の間を引きずり回された。

打合せから解放されるのは、夜10時頃で、それから資料作りに取りかかる。
資料要求は大概、「明日、午前10時まで」といった条件が付く。
夜なべして作った資料を翌日提出して、ウダッとしていると、その日の午後には追加資料の要求が来る。

「土木」と「農業土木」との仕事に違いについて、「明日の10時」までに資料を作ってくれ、と言われた。
私は、職員採用試験の参考書を自宅に持ち帰り、午前2時から「農業土木」の試験問題と「土木」の試験問題を読み比べて、資料にまとめた。

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「今日は残業はないよね。でも、万一のことがあるといけないから、行き先の電話番号は置いていくよ」と、組織担当にメモを渡した。実は、課の職場旅行で箱根に行くことになっていた。

宿に着いたら、旅行会の幹事が血相変えてやってきた。「資料要求が来てます!」
翌日曜日、私は旅行先から職場に直行して、資料を作った。

水産試験場・温水魚研究部の「資源管理部」への“単なる”看板の掛け替えで徹夜。
本庁の畜産課の廃止と業務分担の変更で徹夜。

年末、仕事納めの日も夜まで働いた。「今頃、みんな宴会なんだが・・・」と思うと、情けなかった。

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たくさんの反証を資料化し、200人超の人員削減計画は25人にまで縮小された。
それでも、労働組合から「なんでこんなに減らされなければならないんだ」と言われて、団交となった。
私たちは、徹夜で団交の終了を待った。

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こうした一連のリストラの中で、農業試験場のバイオテクノロジー担当のポストも消えた。

以前、人事第一係のときだ。
「農業試験場の科を削減するが、課長ポストだけは残したい、残すのに、何かいい知恵はないか」と聞かれて、「これからは、バイオテクノロジーでしょう」と答えた。
この私のひと言がきっかけになって、バイテク担当副参事のポストができた。
しかし、これに対して、当の農業試験場は反対した。
私がバイオテクノロジーとして認識していたのは、苺のウイルスフリー苗などの研究だったが、農試に言わせれば、「そんなものはバイテクとは呼べない。バイオテクノロジーは細胞レベルにまで入り込んだ研究だ」ということだった。
そんな異論もあったが、バイテク担当は新設された。
このポストを、私が廃止する立場になるとは、思いもしなかった。

今回は農業試験場から「将来に繋がる仕事だから、残してほしい」と言われた。そりゃそうだ。私が提案して出来たポストだから・・・。でも、作るときは反対したじゃないか。
それを忘れてはいなかった。

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この半年で、ほんとにもうボロボロになった。
こんなことなら辞めておけばよかった。自分の決断力のなさを後悔した。

だが「いくらなんでも、こんなことはもう二度とあるまい」、という思いが救いだった。
確かに、役人人生の中で一番きつかったのはこのときだ。・・・が、「二度とあるまい」という、考えは多少甘かった。
一度あることは二度ある。二度あることは、三度でも四度でもあるのだ。

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ちなみに、このときの上司のS係長はひじょうに真面目な方だった。その後、管理職に昇進したが、引き続き農林関係の部門にとどまっていた。農林のリストラは、その後も続いた。
数年後のある日、トイレでS課長と会った。「その後どうですか?」と聞くと、「まぁ、いいことないね」とつぶやいた。
それから、半年ほどして、S課長も鬼籍に入った。自ら死を選んだという話を、同僚から聞かされた。

こんなことばかり書いていると、都庁って相当ひどい職場だと、思われるかもしれない。実際、当時はかなりひどかった。新規事業を行うには、新たに人員が必要になる。しかし、総数は抑制される。したがって、不要部門は切り捨てなければならない。そういう理屈になる。
IT化が進めば事務は合理化される。必然的に人は少なくてすむ。民間に仕事を移行すれば、その部門の人員はゼロでいい。
だが、ものごと、そんなに上手くはいかない。それでも、建前優先の役所の世界では、それが真実でなければいけない。その狭間で、職員は辛い思いをしていた。

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