If you build it, he will
come. |
農林水産の仕事は1年間限りだった。
私は係長級に昇格し、晴海の社団法人東京都国際見本市協会に出向となった。
係は、新展示場開設準備室、という名称だった。
「現場の協会職員と仲良くやっていれば、大丈夫だよ」と言われた。しかし、現場の状況はかなり複雑だった。
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晴海の見本市会場は、戦時中、飛行場だった。飛行場といっても、練習機くらいを飛ばすのがやっとだったらしい。大きな滑走路が中央にあったが、それがそのまま、見本市会場の中央通路になり、その両側に展示館が配置された。
昭和30年。東京で「日本国際見本市」が開催された。
国際見本市は大盛況だった。オリンピック以前、万博以前の日本においては、最大のイベントだった。
同時に、日本の戦後に幕を引く、象徴的なイベントとなった。
見本市だからして、展示物は、車やテレビや冷蔵庫や洗濯機だったが、そういうものが買えない時代のことだ。いわゆるモダンな生活の夢を抱いた人にとっては、必見のお宝だったのだと思う。
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東京国際見本市の成功に気をよくした東京都は、これを定期開催にしようと考えた。
主催団体として設立されたのが、社団法人東京都国際見本市協会である( 昭和31年設立。以下、見本市協会と呼ぶ)。
また、会場となる晴海の地の管理運営を民間に求めた。このための会社が、株式会社東京国際貿易センターである(昭和33年設立。以下、貿易センター)。
ここに、その後「二重管理」と非難される問題の端緒がある。
貿易センターには、東京都が50%出資した(土地の譲渡)。分かりやすく言うと、資本の50%に相当する土地は、東京都が提供するから、その他の資金は民間から集めてほしい、ということである。
昭和30年代の初めのことだから、この資金集めは大変だったらしい。
集まった資金で、貿易センターは晴海に、東、西、南と新館の4つの恒久展示館を建設した。
特に東館はその形状から「ドーム館」と呼ばれ、有名だった。冬にはスケート場になったこともある。
東京モーターショーもかつては晴海で開催された。
それなりの収益が上がり、貿易センターの経営は、かなり良かった(というウワサだ)。
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一方の見本市協会は、国際見本市をはじめ、各種の見本市を開催した。
特に来場者が多かったのは、高度成長期から開催されてきた「グッドリビングショー(GL)」と、「 日本国際工作機械見本市(JIMTOF)」である。
ただし、社団法人ゆえ、営利に走ることはできない。
この差が貿易センターと見本市協会との関係に、微妙な影を落としていた。
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大きな展示会開催時には、恒久展示館では会場が不足した。
その都度、晴海会場の周辺部に仮設の館を建てて対応したが、ムダな経費がかかった。
そこで、東京都は貿易センターに補助館建設を持ちかけた。
しかし、貿易センターは民間企業であり、株主も多数いる。運用効率の悪い補助館を建設・運営することについては、了解が得られなかった。
今のままでも十分儲かっているのだから、あえてリスクを背負うことはない、というわけである。
東京都はやむなく、A、B、Cの3館を建設し、その運営を見本市協会側に任せた。
このため、見本市協会は、展示会の開催団体であると同時に、施設の管理団体にもなった。
たいへん複雑な話である。
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そんな折り新展示場建設の構想が生まれた。
展示場としては、すでに幕張メッセがあり、モーターショーもそちらで開催されるようになっていた。
「東京にはもう見本市会場は必要ない」という声も聞こえるようになっていた。
私もそう思っていた。
老朽化した晴海をどうするか、という問題に結論を出す時期が迫っていた。
ところが、びっくり仰天のバブル景気と臨海副都心の大開発計画だ。
昭和63年、東京国際コンベンションパーク整備構想が打ち上げられ、国際展示場がその中核施設として位置づけられた。
当初、展示場は現在のテレコムセンター前、ゆりかもめがぐるっと回っているところに建設される予定であった。テレコムセンターとの連携のため、こちらが適地だと考えられたようだ。
ところが、この面積では、工作機械見本市に必要は8万㎡は確保できない。
そういった悩みを、臨海副都心開発計画の拡大が吹き飛ばす。
建設予定地は、ぐっと東にずれて、現在の江東区有明の地となった。
しかし、悲しいかな、このとき既に、道路とゆりかもめの車両基地+引き込み線の建設が進んでいた。
このため、ビッグサイトは東と西に分断されることになった。
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当時、臨海副都心計画はどんな具合に進んでいたのか。
見本市協会で事実上のトップ(会長は都知事なので)にいたS副会長は、私にこんな話してくれた。S副会長は、東京都時代、政策立案の責任者だった。
高度成長後の昭和50年代、景気の低迷が続いていた。景気が悪けりゃ、都庁の金回りも悪い。
主任試験の受験講座で「東京都は未曾有の財政危機に陥っていると書かないと受からない。だから、“未曾有”という漢字は覚えていなくてはならない」などと言われた、そんな時期があった。
S局長は、政策企画担当職員が、すっかり意気消沈しているのを見て、こう言って元気づけた。
「今はこういう時代だから、夢のような計画を立てても、実現しない。しかし、こういった時代だからこそ、何の制約もなく計画が考えられるんじゃないか。だったら、予算云々は度外視して、理想的な
都市計画を考えようじゃないか・・・」
そんな成り行きで出来上がったのが、臨海副都心の開発計画だった。
突如としてバブル景気が膨らんだとき、事業計画として具体的な体裁を成していたのは、臨海副都心だけだった、という。
「理想を絵にしよう」というかけ声だけで出来た計画が、あっという間に現実味を持つようになる。
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晴海にいた頃のことだが、「フィールド・オブ・ドリームズ」という映画を見た。
大泣きした。
親孝行ができなかった自分の人生と、かぶる部分が、たいへん多い。
そのうえ当時、新展示場は「作っても絶対に黒字にならない」「平成の戦艦大和」「今さら倉庫にするには豪華すぎる」などと、評されていた。
そんな逆風の中、展示場の立ち上げに向かおうという私たちの状況が、正気の沙汰ではないと非難されながらも、奇妙な声に導かれるまま野球場を作ろうとしている主人公とオーバーラップした。
自分がケヴィン・コスターと同じくらいかっこよければ、もっとよかったのだけれど。
「If you build it, he will come.(もし、君がそれを建てれば、彼は来る)」 私にとって「彼」とは来場者だった。「フィールド・オブ・ドリームズ」では野球場だったが・・・。
ともかく、過去の思い出やら、これからの不安やら、父親のこと、母親のこと、いろいろな思いが、映画のエンディングに重なって、ぐるぐる回っていた。
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