およそ展示会に係わっている人で、今、「東京ビッグサイト」の名前を知らない人はいない。しかし、当時、その建物は「東京国際展示場」以外の何者でもなかった。 愛称を募集しようということになった。
都当局としては、名前などどうでもよかった。愛称を募集することで知名度が上がればいい、というスタンスである。 たかだが愛称だが、ネーミングというのは大切だ。
普通の靴下が「通勤快足」と名前をつけた途端に何十倍も売れるようになる。 東京都では当時、いろいろな建設物を作っていて、その都度、愛称募集をしていた。しかし、あまりうまくいっていなかった。
レインボーブリッジにしても、ありきたりだし、愛称募集した結果、東京テレポートは「東京テレポートタウン」になりました。
仕切り直しで募集したらレインボータウンになりました。臨海副都心線は「りんかい線」になりました。・・・って、何だ? その後、都営地下鉄12号線の名前が「ゆめもぐら」に決まりそうになったことがあったが、石原都知事の英断で「大江戸線」にひっくり返った。このときばかりは、剛腕な知事もいいものだなと思った。
「ゆりかもめ」の名前も公募ではない。当時の社長(元副知事)が「この名前以外の名前はありえない」と、断固変えなかったのだという。今では、会社名にもなっている。
外部から募集して「みんなの同意で決めました・・・」ってやり方だと、どうしても最大公約数的な無難な名前になってしまうのだ。
そうすると印象が薄くなる。使われなければ定着しない。
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私たちは、何とかしていい名前を付けたいと思った。
愛称募集業務をを広告代理店である旭通信社に委ねられた。
丸投げではなく、我々新展示場準備室も、このメンバーに加わった。
採用された案には、懸賞金20万円、優秀作には10万円が送られることになっていた。
最初に、一般紙や東京都広報などを利用して応募をかけたが、期待したほど多くの応募はなかった。
ところが「懸賞」の専門誌に掲載された途端、どっさりと応募が届いた。
最終的に、応募は6432通に達した。
こんなに来たのでは、事務担当はたまらない。
取りあえず、6千の応募作を200にまで絞って、選考委員に託すことになった。
金曜日にリストが渡され、月曜日までに、事務局の各自が200の候補作を選ぶよう、指示された。
ざっと眺めて、残す残さないの横棒を入れるとしても、6千のリストをなめるまでに、約6時間かかった。
土日を潰して、候補作を選び、再びアサツーへ託す。
実は、一番多かった名前は、「東京メッセ」だった。
それを知ってはじめて、「東京」の持つブランド名の強さを実感した。
このため事務方としては、「東京」という文字を残した名前にしたいと思った。
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何度も事務当局で候補作を減らし、最終的には200にして、外部の選考委員に送付し、各自20候補を選んで持ち寄ってもらうことにした。選考委員会で合議し、20点が最終候補作として、絞られた。
この後、候補作は、商標登録のチェックを受ける。
展示場は建物だから、商標とかは関係ないのだが、その名前を使って、衣服(例えばTシャツやトレーナー)、お菓子(例えばビッグサイト饅頭のようなもの)、文房具など、関連商品を開発する可能性はある。
そのときのトラブルに備えるためには、事前の登録が必要だった。
こうした商標登録のチェックに、20の候補作のうち半分が引っかかった。
やはり、良さそうなネーミングは、他でも使っているのだ。
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候補作のはがきの中に「祭都(サイト)」と書かれたものがあった。逗子市の主婦Mさんの応募作だった。
当人は、本当なら彩りの都というサイトを押したかったようだが、彩の国は、何と言っても埼玉だった。
選考委員の中に展示場を設計した佐藤総合計画の社長がいて、この名を推挙した。
そのころはもう、世界都市博のメイン会場として、ビックサイトが利用されることが決まっていた。
「設計のコンセプトから見ても、祭りの都というのは、うまく合っている」「それでは、この祭都(サイト)を候補として考えましょう」ということになった。
ちなみに、「S」で始まる名前は、好印象を与えるらしい。
そして、「サイト」は、商標チェックを通り抜けた。
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事務局に持ち帰った私たちは、悩んだ。サイトだけでは、名前にならない。
「やっぱり東京を付けたいな」という意見もあった。日本最大ということも出したいという意見もあった。
そこで、「東京ビッグサイト」という名前に決めた。
英語表記をどうするかという課題も生じた。
SITE(場所)というのでは、あまりにも芸がなかった。
そこで、将来の「展望」を求めて多くの来場者に来て欲しいという思いを込めて、「SIGHT(サイト)」という文字をあてた。
これについては、誤字だという批判を、内部から強く受けた。
見本市協会の職員は英語に堪能であり、こうした間違いは、受け入れがたかったのだろう。
「これじゃ、外国の客に対して恥ずかしい」とも言われた。
スラングチェックをした。
「たいした見物だ」といった意味はあったが、さほど悪い印象ではなかった(日本人はすぐ横文字の名称をつけたがるが、こうしたチェックを行わないことが多い 。要注意だ)。
その後、外国の関係者を案内するに当たって、私は「Super Innovated Gigantic High-tech
Trade-space」の略だと言った。
はったりだったが、けっこう納得された。
中国人を案内するときには、「実は、東京を大きな祭りの都にしたいと思いまして、東京大祭都と名付けました」と説明した。
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東京都サイドは、もともと一種のPR程度としか愛称募集を考えていなかったので、「そんなバタ臭い名前はやめて、東京国際展示場に戻そう」と言った。
そんなことを言われては、これまでの何か月かの努力は、いったい何だったんだ。
見本市協会側は、ビッグサイトの名前を普及させようと、出来る限りの努力をした。
ありとあらゆる機会を捉えて、展示会主催者に「“東京ビッグサイト”で行きますから」とお願いする。
しかし、後日、主催者と会うと「あの後、東京都の人が来てね。国際展示場って言っていたけど、ど~なってんの」と非難された。
展示会関係者は、大変戸惑ったことだろう。
当時の展示会ポスターの多くは、「会場:東京国際展示場・東京ビッグサイト」と書かれている。
こういった名称変更の場合、関係者の意見が動揺していたのでは、その名前は定着しない。
かつて私が総務部にいたときに、職安がハローワークの愛称になったことがあったが、そのときは徹底していた。
今日からその愛称を使うという日、朝一番に電話したとき、電話を受けた職員は「はい、ハローワーク○○です」と当たり前のように答えた。そうでなきゃいけない。
私自身、迷いがなかったわけではない。
しかし、会場案内の女性が、言った。
「休みを取って、オーストラリアに行ってきたんです。友達に久しぶりにあったら、今度、東京に行くんだと言っていました。どこに行くのかと聞いたら、“Tokyo BIG
SIGHT!”って、答えましたよ」と話した。
日本の、しかも、有明と西新宿の間でどっちにしようかともめている間に、東京ビッグサイトの名前は、世界中に広まっていたのだ。
今、展示会主催者はこう話す。「ビッグサイトと違う会場でやる、というと、海外の出展社の誘致が難しいんだ・・・」
実際にビッグサイトの試験運転を始めると、来場者の多くが携帯電話で、こんなやり取りをしていた。「えっと、今、ビックサイトの東館にいるんだけれど・・・」
ビッグだろうがビックだろうが、そんなことはどうでもよかった。
私たちの決めた名前は、紛れもなく、新しい東京国際展示場の名前になっていた。
東京ビッグサイトが、国際展示場の殻から抜け出した瞬間だった。
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展示場の愛称と同時期に、シンボルマークの選考も行われている。
著名なデザイナーの提案した、たくさんのボールが跳ねているというデザインが採用された。そのマークは今でも、ビッグサイトの正面の旗として、存在している。
私たちはこのデザインを、ビッグサイトの名前といっしょに広めようとした。しかし、デザイナーの了解が得られない。
このため、新しく「東京ビッグサイト」のロゴが必要になった。
が、それである。
数点の候補から、私たち事務局の一般職員が選んだ。
特徴的な会議棟の形状▼を使い、青は東京湾の海、虹はレインボーブリッジを表している。
今は、もうちょっと地味なシンボルマークに変わっている。
ともかくこのロゴが、厳しい船出に臨む、私たちの旗印になった。
東京ビッグサイト竣工、1995年(平成7年)10月16日。
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