阪神淡路大震災(平成7年)
地震予知は、是か非か

平成7年は、アクシデントの当たり年であった。

平成7年1月17日、午前5時46分、兵庫県南部を中心に大きな地震が起こった。
早朝、自宅を出がけに聞いたニュースでは、「地震があって火事が発生している」程度の報道だった。
だが、晴海の職場に出勤してみると、かなりの騒ぎになっていた。
どうやら、大きな地震だったらしい。テレビには、新幹線の橋桁が落ちた映像が流れていた。

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実は、その2週間くらい後に、協会の職員が都の担当者と、神戸のポートアイランドに出張する予定になっていた。
向こうの展示場の運用状況を見るためだった。しかし、この災害では、とても無理だ。

私は、都庁に電話をかけた。「ニュース見てますか。とても、出張は無理です」
しかし、返事は「何言ってんだ。新幹線がダメでも関空があるじゃないが・・・」だった。
本庁では、地震の被害をまったく把握していなかった。

都庁の職員は意外と律儀だ。
各職場には外部にも繋がるテレビがあるが、勤務時間中はスイッチが切られている。
せめて非常時は、その律儀さを捨てた方がいいと思う。
地震が発生し、それが一定のマグニチュード以上だったり、震源地が関東近辺だったりするならば、取りあえずNHKくらいは、流し続けていた方がいい。

大島噴火のときはそんなだったのだが、その後、公務員の勤務態度があちこちで批判されるようになり、「羮に懲りて膾を吹く」状況になってしまった。
さすがに東日本大震災のときには、テレビはかけっぱなしだったが。

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都議会でも、すぐさま質問がでた。

これを受け、都庁から命令が来た。
「今日の議会で、防災マニュアルを作ると回答する。だから、すぐ作れ」
そんなことを言われたって、仕事は山積していると反論したが、問答無用だった。

阪神の大地震は、展示会場を運営する団体にとっては、共通する大問題になった。
日頃の商売敵が、このときばかりは超党派を組んで、対応を検討した。
某展示場が、ドイツの某展示場から、無理を言って防災マニュアルを送ってもらっていた(通常、こんなものは門外不出だ)。
ドイツ語で書かれていたので、当然、私に中身はわからない。
だが、表紙に書かれている大きな絵と数字については、察しが付いた。
日本語に翻訳するならば、「消防署は119番、警察は110番」だった。

「どうして、こんな、単純なことが表紙に書かれているのでしょう・・・」と、消防の関係者に聞いた。
「人は、パニックに陥ったとき、そんな簡単な電話番号ですら、思い出せなくなってしまうんだよ。」という話だった。
もし、防災マニュアル作るならば、同じ標記を、表紙に大きく書くべきだろう。

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展示場合同の災害対策会議で話題となったのは、「地震予知連絡会」の予知情報が出されたら、それをどうやって来場者に伝えるか、だった。
いきなり館内アナウンスで流したら、パニックが発生して、けが人が出る。

ビッグサイトの天井には、ガラスが多用されている。その下に、10万人の人がいて、「地震の予知情報が出されました」と言ったら、どうなるだろうか。
建物自体には耐震性がある。パニックによって発生する被害の方が、はるかに大きい。

多くの会場の非常時対策は、
(1)先ず第一に従業員にのみ分かる符丁で、「緊急事態」の放送を流す。
(2)しかるのちに、来場者向けに注意を喚起する放送を流す。
(3)そして、従業員に避難誘導をさせる。
(4)避難がある程度進んだ段階で、詳細な情報提供をする、という手順を用意していた。
「従業員にのみ分かる符丁」というのは公表できないが、例えば、デパートが「○○町の××様、△△にお電話がかかっております・・・」と放送を流し、売り場従業員に連絡を入れるのと同じ方法だ。

そこで、私は、ビッグサイト独自の情報伝達方法はないか考え始めた。
しかし、その途中、地震予知連絡会から「地震予知の公表はしない」という発表があった。
予知の発表による経済的なダメージの方が、地震それ自体の被害よりも大きくなる可能性もあり、万一、その地震が起きなかったときは、全責任を負わされると察したためらしい。

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そんな一件があって、私は地震に興味をもった。
防災に関する本も、たくさん読みあさった。
阪神淡路のときは、まずもって不足したのは水、そして、トイレ問題が大きかったという。
私の自宅には、今でも常時、ペットボトル10本分の水が、並んでいる。
飲めなくてもいい。少なくともトイレの水は必要だ。

地震雲が出ると、もうすぐ地震が起こるのではないかと、心配になる。
実際に2回ばかし、当てたし・・・?!。

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平成23年3月11日、東日本大震災があった。東京は震度6以上の揺れとなった。
ビッグサイトは、東展示場のスライディングウォールの金具が、一部外れるという被害があったが、展示会の真っ最中にもかかわらず、誰にもけが人が出なかった。
所定の設計どおり、建物にひび割れはできなかった。ガラスも割れなかった。屋外駐車場に液状化も発生しなかった。逆三角形の会議等のパネルは1枚もはずれなかった。
やっぱりバブル時代に、見えない部分にもたっぷり費用をかけて作っただけのことはあった。

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平成7年3月20日、地下鉄サリン事件が発生した。聖路加病院あたりは、大騒ぎだったようだ。
見本市協会までは累が及ぶことはなかったが、開業後、「毒ガスをしかけた」という、いたずら電話がずいぶんあった。ファックスなどで送られてくると、そのファックスを取り上げた者が第一発見者になる。いい迷惑だ。

いたずらとわかっていても、職員は招集される。
各自、排気口の位置に、配置場所が決められ、ここで立っていろと言われた。
「ところで何をすればいいんでしょうか・・・」と聞くと、警備責任者は、いともたやすく言った。
「本当に毒ガスが流されたときは、あなたが最初の被害者になるから、すぐわかる。」
いつもこうだ。

そういえば、晴海にいたときにも、皇族が見本市の視察に来訪することが、たびたびあった。
アフリカなどの展示ブースには、飾り付けに槍や弓矢が出されていた。警備に命じられて、皇太子様が見学に来られるときは、撤去させられた。
私は、「皇太子の安全のために、ここに立っていろ」と命じられた。
「皇太子様がお見えになったときに、万一、弓矢でも飛んできたら、どうすればいいんですか・・・」と、冗談のつもりで聞くと、警備責任者は、いともたやすく言った。
「あなたが、楯になってください」

身体を張って仕事をするとは、こういうことだな、と思った。

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