まさかの都市博中止(平成7年) |
翌年、職場は有明の建設現場に移転した。 東京国際見本市協会は、平成7年11月24日、都から東京ビッグサイトの管理を委託された。 ************ 東京ビッグサイトは、当初より公共施設ではなく、商業用の施設として運用される計画だった。 それまで晴海会場の大部分の管理を任されていた、(株)東京国際貿易センターは、見本市協会の下で、会場運営を行うスタッフとなった。 ************ 見本市協会は晴海会場の一部を管理していたとはいえ、会場運営のノウハウは乏しく、その大部分は相変わらず貿易センター側に頼らざるを得ない。 要するに、新しい会場の運営を考えるためには、過去の因縁とあまり係わり合いのない者たちが、集まった方がいいという考え方だった。 ************ 世界都市博覧会は、平成8年3月24日から10月13日まで204日間、開催される予定だった。 平成7年3月、世界都市博中止を公約に掲げた青島幸男氏が、都知事に当選した。 ************ 毎日の残業がなくなり、定時帰りとなってしまったので、私は、毎晩のように(というか、毎晩)、M室長と有楽町のガード下で飲んだ。 私は「都市博がなくなって、展示場を早く開業しろと言われるのじゃないでしょうか?」と聞いた。 ************ しかし、都議会の大半が反対する中、都市博中止が決定された(1995年(平成7年)5月31日)。 当方の予定では、 したがって、平成8年4月から平成8年10月まで、ビッグサイトは「一般供用はしない」予定だった。 展示会の開催サイクルは通常2年で行われているので、展示会が開催されているときには、すでに次回の計画が進んでいる。 ************ それまでは「都市博」「都市博」で、毎週のように会議・打合せが詰まっていた。 そんなとき、青島知事が、本当に中止するとは思わなかった。 ショックのあまり病気になった職員もいたという。 政治家としての政策判断だから、「中止」を公約としたなら公約を守るのも正しい、しかし、実際の現場では、ソフトランディングができる段階はとうの昔に過ぎていた。 ************ 都市博が中止になって、当然のように持ち上がったのは、平成8年の4月から10月までの間、使い道がなくなってしまった会場を、どうするかだ。 別のものを入れるったって、今からじゃ間に合わない。 そんな状況だったので、何よりも恐れていたのは、「展示場として、開業が前倒しになる」ことだった。とても間に合わない。都市博開催中にいろいろ不具合を修正して展示場として再オープンするのが規定の計画なのだ。 私はあらゆる面でM室長の足下に及ばなかったが、唯一「都市博中止」のヨミだけ、私の方が当たった。 新しい国際展示場・東京ビッグサイトの正式オープンが1996年(平成8年)4月1日と、決まった。 |