まさかの都市博中止(平成7年)
晴海と有明、どちらを犠牲にするか・・・?

翌年、職場は有明の建設現場に移転した。

東京国際見本市協会は、平成7年11月24日、都から東京ビッグサイトの管理を委託された。
当初、管理委託先は東京国際貿易センターになるのではという見方もあったが、建設費1900億円もした施設を、株式会社に無償貸与するというのは、乱暴すぎるともされた。
今じゃ、株式会社東京ビッグサイトになってはいるのだが・・・。
その頃は、特定管理者制度というものも、なかった。

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東京ビッグサイトは、当初より公共施設ではなく、商業用の施設として運用される計画だった。
純粋は公共施設だと、利用は申込みの早い順、または、抽選となる。公平な取扱いが必要であるためだ。
しかし、それでは質の高い展示会を誘致できなくなる。
また、展示会は2年周期で計画が立てられるのが普通であり、年度ごとの予算に縛られる役所の管理下では、うまく運用できない。
こうしたことから、「普通財産」のまま公共性の高い社団法人である協会に、施設運営を任せるということになった。

それまで晴海会場の大部分の管理を任されていた、(株)東京国際貿易センターは、見本市協会の下で、会場運営を行うスタッフとなった。
これまでとは、力関係が逆転した。

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見本市協会は晴海会場の一部を管理していたとはいえ、会場運営のノウハウは乏しく、その大部分は相変わらず貿易センター側に頼らざるを得ない。
このため、貿易センターから見本市協会に若手社員が出向して来て、私たち新展示場開設準備室と混合チームを組むことになった。
出向してきた役人&株式会社若手社員&社団法人若手職員という、はなはだややこしいタッグだが、ま、諸般の情勢から、これが一番いい組み合わせだった。

要するに、新しい会場の運営を考えるためには、過去の因縁とあまり係わり合いのない者たちが、集まった方がいいという考え方だった。
しかし、逆に見れば、明らかに経験不足である。
それはそれで、リスクの大きい博打でもある。

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世界都市博覧会は、平成8年3月24日から10月13日まで204日間、開催される予定だった。
都市博実施の最終決定は、その1年前までに行われることになっていた。
見本市協会は総務部長に、将来が嘱望されていたのN部長(後に産業労働局長になる)を招聘し、都市博への体制固めをした。

平成7年3月、世界都市博中止を公約に掲げた青島幸男氏が、都知事に当選した。
突如として都市博の先行きが見えなくなった。すべての仕事が止まった。

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毎日の残業がなくなり、定時帰りとなってしまったので、私は、毎晩のように(というか、毎晩)、M室長と有楽町のガード下で飲んだ。
「おつまみを取らないと身体に毒だよ」という決まり文句をつまみにして、二人ともつまみなしで飲んだ。

私は「都市博がなくなって、展示場を早く開業しろと言われるのじゃないでしょうか?」と聞いた。
室長は、「そんなことは不可能。不可能なことを要求されても、できるわけはない」と言い切った。

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しかし、都議会の大半が反対する中、都市博中止が決定された(1995年(平成7年)5月31日)。

当方の予定では、
・1995年(平成7年)11月27日に竣工式典
・その後様々な設備の取り付けと運用計画の最終調整
・1996年(平成8年)3月24日、都市博開催
・1996年(平成8年)10月13日、都市博終了
・都市博終了後、展示場仕様に向けての補修
・1996年(平成8年)11月に開催される国際工作機械見本市(JIMTOF)で、新展示場のこけら落とし。
・JIMTOF後、展示場としての一般供用開始、という運びだった。

したがって、平成8年4月から平成8年10月まで、ビッグサイトは「一般供用はしない」予定だった。
一般の展示会は10月末まで晴海会場での開催が決まっていた。
そのつもりで、各主催者はPRなども行っていたし、出展社の募集も始まっていた。

展示会の開催サイクルは通常2年で行われているので、展示会が開催されているときには、すでに次回の計画が進んでいる。

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それまでは「都市博」「都市博」で、毎週のように会議・打合せが詰まっていた。
掃除の担当範囲まで平面図に落とされていた段階だ。
メインゲートは、もう外形が整いつつあった。

そんなとき、青島知事が、本当に中止するとは思わなかった。

ショックのあまり病気になった職員もいたという。
都市博を当て込んで関連グッズを先行生産していた業者が倒産したとも、聞かされた。

政治家としての政策判断だから、「中止」を公約としたなら公約を守るのも正しい、しかし、実際の現場では、ソフトランディングができる段階はとうの昔に過ぎていた。
飛び上がったばかりの旅客機が、胴体着陸するようなものだった。

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都市博が中止になって、当然のように持ち上がったのは、平成8年の4月から10月までの間、使い道がなくなってしまった会場を、どうするかだ。

別のものを入れるったって、今からじゃ間に合わない。
晴海では、すでに既存の展示会開催の準備が進んでいる。

そんな状況だったので、何よりも恐れていたのは、「展示場として、開業が前倒しになる」ことだった。とても間に合わない。都市博開催中にいろいろ不具合を修正して展示場として再オープンするのが規定の計画なのだ。
そして、その「何よりも恐れていたもの」が要求された。

私はあらゆる面でM室長の足下に及ばなかったが、唯一「都市博中止」のヨミだけ、私の方が当たった。
当たらない方がよかった・・・。

新しい国際展示場・東京ビッグサイトの正式オープンが1996年(平成8年)4月1日と、決まった。

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