展示場開業時のあたふた(平成8年)
怒鳴られたり、走ったり、うれしかったり

平成7年11月27日、東京国際展示場は、竣工した。
この竣工式典がまた、大変だった。

最初のオープニングイベントは、会議棟したの空間で行った。しかし、臨海部は風が強い。
式典会場には、仮設の壁が設けられた。もちろん風で事故が起こらないように、この壁には風抜きのスリットが入れられたが、それでも心配。
このため、私たちスタッフは、式典の間中この壁を固定するために、後ろで必死に抑える重し代わりになっていた。

当初、事務方では、東の大ホールを使っての式典を考えていた。そうすれば雨の心配もない。
ところが、展示場には、国際会議場もあり、レセプションホールもある。そういった、すべての機能を知事に見てもらう必要があると、誰かが言ったらしい。

このため、場内あちこちで開催式典が行われるようになった。
知事が引き回されるだけでも大変なのに、式典に参加した総勢数百人の来賓も、ぞろぞろと異動する。
そうした人たちもVIPだ。
警備計画も違ってくる。

開催式典で、青島知事が祝辞を読んだ。
知事本人は知らなかっただろうが、集まった人達の多くは、都市博中止の被害者だった。
「東京ビッグサイトは、東洋一の面積、最先端の設備を備えたコンベンションセンターです。しかし、この展示場が最も誇るべきは、長年に渡って晴海会場を利用してくれた、皆さんの存在に他なりません。」――知事はそう挨拶した。

会場案内の担当は、「青島知事って、ビッグサイトのこと、ずいぶんよく知っているのですね」と、私に聞いた。「そりゃそうだ、あの挨拶の第一原稿は、私が書いたのだから」「な~んだ、どうりで・・・」

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本来、博覧会と展示会とは、似て異なるものだ。
博覧会は準備に数か月を要するが、始まった後には、大きく内容を変えることはない。
展示会はだいたい3日くらいの開催期間で、アッという間の準備、アッという間の片付けが必要。

この違いは、会場運営側にとって、大きい。
展示会の最終日は終了時間が早い。来場者の方は知らないだろうが、展示会が午後4時に終わり、蛍の光が流され、来場者が引くと、いっせいにブースの解体が始まる。
展示物がどんどん運び出され、装飾が解体され、夜の10時、11時になると、会場はガランとした空間になる。
そして、翌朝早く(場合によっては深夜から)、次の展示会の搬入が始まる。
まさに、アクロバットのような展開だ。
これを、いかにスムーズに進めるかが、展示場の評価に係わってくる。

そのためには、事前の検証が重要である。私たちは、世界都市博こそ、その絶好の検証チャンスだと思っていた。
それがなくなって、いきなりの開業である。

しかも、都市博でビッグサイトの知名度は上がるはずだという前提だったので、展示場としてのPR経費が圧倒的に不足。
臨海部のインフラ等の整備も、まだまだこれから。
展示会のパンフレットに来場者導線を書き入れるにしても、どこからどう引いていいのかわからない。

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開業直前、PHSの販売会社が、泣きついてきた。
展示場内に、PHS用のアンテナを付けたいのだけど、東京都がオーケーしてくれないという。
東京都の所管する建物だから、外部の人間が手を加えるのは許し難いという理由だ。
90m四方の展示ホールをカバーするためには、数本のアンテナが必要だという。

開業早々に、情報関連の展示会が予定されていた。
携帯電話の会社も、PHSの会社も出展する。
携帯は電波が強いのでアンテナをあらためて立てる必要はない。
PHSは通じない。これじゃあ、太刀打ちできない。

当方も、東京都側に打診したが、がんとして聞いてくれなかった。
「東京都の管理下にある以上、責任がある。」
「だったら、東京都の管理から離れたら、協会の裁量で判断していいってことですね。」
「・・・・」
展示場の管理が協会に移されてから数日の間に、PHSのアンテナは急遽設置された。

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平成8年4月1日がビッグサイトの正式オープンだったが、同3月27日には、会場運営を任された。
ということは、28日~31日は、会場を利用しても料金徴収はない。

ちょうどそのころ、ラジオのイベントを臨海で開催する案があった。
そこで、ビッグサイトの入り口にあるLEDの大画面を使って、ちょっとしたイベントが開催されることになった(事務方としては、ただでさえ忙しいのに・・・という気分だったが)

総指揮は、広井王子氏。知る人ぞ知る「サクラ大戦」の作者だ。
臨時の舞台が会議棟下に作られ、そこでコンサートが開かれた。歌姫は桜井智。
私は「桜井さんが控え室で着替えをするから、その前で、変なヤツが来ないか見張っていて」と指示された。
途中、演奏の音が出なくなるというハプニングもあったが、コンサートは何とか終わった。
スタッフは「こんなことは馴れていますから」と言った。
桜井さんは、スッゲー可愛かった。
私はスタッフでもないのに、「お疲れ様」と声をかけた。「お疲れ様です」と返してくれた。すっかり中学生気分だった。

イベントでは、インターネットでビッグサイトと、大阪のスタジオの横山智佐さんを結んで、大画面を通した会話が行われることになっていた。
インターネットという名前は知っていたが、その正体は知らない。そんなことが出来るのか不安だった。
スタッフに聞いた。「インターネットの接続で画像を流すのは不安定だと聞いています。もし、うまく繋がらなかったら、どうするんですか」
「万一、繋がらない場合は、横山のビデオを流します。それに合わせて対話をします。どういう台詞を言ったらいいか、彼女たちは、もう知っていますから、大丈夫です」
「さすが、プロは違うな・・・」と思った(現実にはビデオのお世話にはならなかったようである。たぶん・・・)。

イベントが終わり、応接室で広井氏が言った。
「鉄腕アトムの頃から、私たちは、こんな建物が建ち、空中を鉄道が走る時代を夢見てきました。ようやく、それが現実になったんですねぇ」

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たまには担当者としての役得もある。

ある日、部下のM君が、「本日、小泉今日子さんを玄関先の車寄せでお迎えする予定です」と言った。
グラビア撮影を、屋上のレストランで行うという。
私は動揺を隠しながら、「大切なお客さまだから、私もいっしょにお迎えします」と答えた。

小泉さんがお見えになる30分ほど前に、マネージャーの方(女性)がいらっしゃった。黒い服にサングラス、この方も、モデルのようなスタイルの方だった。やっぱ、芸能界は違うな、と思った。
しばらくして車が着き、小泉さんが降りてきた。テレビで見るより、ずっと細かった。
「ようこそビッグサイトへ。担当のMが、会場までご案内します。」 私が話したのは、ただこれだけ・・・。
それでも、一生の思い出になった。

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こんなトラブルも経験した。
展示場内を歩いているときに、場内専用の携帯が鳴った。新聞社の取材だという。東京ビッグサイトが臨海部に果たしている役割について聞きたいとのことだった。
私は、都市博が中止になって沈滞ムードになってしまった中で、ビッグサイトだけが孤軍奮闘している様子を切々と話した。
そのうち、質問が周辺部の臨時駐車場の話に移った。
当時はまだまだ空き地が多かったので、展示場側でしばらく借りることになっていたのだ。後述するが、出入り口が少なくて、満杯になると大変だった。

展示場には、駐車場が必須である。来場者のためには交通機関が整備されているから不用なのだが、出展社は資材を車で運んでくる。このため周囲に大きな駐車場がないと不便なのだ。
くだんの記者は、「駐車場がないと困りますよね」と聞く。私は「そりゃそうですよ」と答えた。
「その駐車場はいずれ東京都に返すことになりますよね。そうなると困りますよね」という話になったときに、何か変だな、という気分になった。
「見本市協会としては、東京都に抗議するという話がありますが・・・」
私は「もともと東京都の土地を貸していただいているのです。できるだけ長く使わせていただきたい、とお願いしていますが、そもそも相手方の土地ですから、抗議するという立場にはありません」と答えた。

その話が、翌日の朝刊に載った。案の定、見出しは「東京都に抗議」となっていた。
リード文を読むと、「担当者(つまり、私)」の話と「関係者によると」という話が入り混じっていて、あたかもすべて私が話したようなストーリーになっている。

上司からは事情を問われ、説明した。すぐに了解を得られたが、忙しい中わざわざ都庁まで事情説明に行っていただいた。たいへん申しわけなかった。

それにしても、大手の新聞社なのにずいぶんひどいことをするな、と憤慨した。
異なった事実を組み合わせることによって、事実そのものをねじ曲げることは可能だ。私も新聞記者まがいの仕事をしていたから、そんなことは知っている。
署名記事だから外部のレポーターが売り込んだものであったが、それにしてもこれは、最初からハメにかかっている記事である。おそらく、内部の職員か、展示会主催者かが、記者にリークしたのだと思う。

今ではその駐車場もなく、病院とビルが建っている。
そして、東京ビッグサイトは、東棟の奧を埋め立てて、臨時の駐車スペースとすることになった。

同じような情報操作は、その後も無くなりはしないようだ・・・。いやな世の中だ。

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