開業後のあたふた(平成8年~9年)
祭のあと

展示会は、新会場開催とあって、どれもこれも盛り上がりまくっていた。

コミックマーケットは、晴海時代からの上得意客だった。
監視カメラの画像を見ても、地面が見えないほど人が来た。展示ホール内は、アリの巣のような状況だった。屋上展示場とアトリウムで、コスプレの人たちが乱舞していた。

このとき、あまりにも人が多く来場したので、トイレの水が流れなくなった。
ビッグサイトの地下には雨水タンクがある。ここに溜まった雨水がトイレに利用される。
ところが、来場者があまりにも多かったので、タンクが空になったのだ。
こうした場合に備えて、不足分を水道水で補充する仕組みになっていたが、会場運営側がまだ不慣れで、そこまで気が回らなかったのだ。

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難題は、次から次へと発生した。

展示場周辺には、大きな臨時駐車場があるのだが、当初、この駐車場からの出口が少なかった。
お客さまが一斉に帰るとき、車が駐車場内で渋滞した。
車内の携帯から、抗議電話が殺到した。「もう、2時間も待ってるんだぞ。ここに来て、何とかしろ」と、抗議は30分以上続く。「私も、他の担当者も、何とかしたいのですが、抗議電話が殺到していて、事務室から出られないのです・・・」

駐車場から「釣り銭が足りない」という連絡が入り、事務室内のありったけの500円玉を集めて、駐車場へ走ったこともあった。事務室から駐車場までは数百メートルはある。これを何往復もした。

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海外からのお客様も多かった。だが、臨海部にはまだ外貨交換のできる銀行がなかった。
このため、「どこが“国際”展示場なんだよ」という苦情が案内窓口に寄せられた。
私は自腹でゆりかもめの乗車カードを何枚か買い、インフォメーションの担当に渡し、「申しわけありません。これで新橋まで行って、交換してください」と言わせた。

そのほかにも、いろいろと混乱が生じた。

何よりも、会場運営に携わる私たち自身、会場設備についての知識が不足している。
度ある毎に、私たちは主催者から詰め寄られた。

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今なら許されると思うので、亡くなられた藤村氏の言葉を言葉を記す。
藤村氏は豪快な性格。その反面、都庁の技術職として、本当に地道な役割を担ってきた。

「自分は大学を卒業せずに、都庁に入った。
「本庁には最高の技術陣がいると思った。本当に雲の上の人たちだった。自分のような者には、地下鉄の駅の一部の設計管理しか任されなかったが、それでも、十分満足だった。
「今回、国際展示場に係われて、本当に嬉しかった。
「だが、私の尊敬していた、都庁のトップクラスの設計陣の実態を知った。ショックだった・・・」

都庁技術陣のトップは、有名な大学を出て、日本全土はおろか、海外にも名前がとどろいた人たちだ。
藤村氏は、そういった人達を、遠くから見上げてきた。
高卒で入都した私にも、その気持ちはよくわかる。

本来なら交わらないはずの両者が、国際展示場の建設ということをきっかけにして、お互いに知り合う関係になった。
私は技術屋ではないので、よく分からないが、藤村氏にとっては、夢を打ち砕かれたような衝撃だったらしい。
本庁の人は、あまりにも現場を知らない。
それは、事務屋とて同じだな、と思った。

その後、ヒットしたドラマで「踊る大捜査線」というのがある。臨海を舞台にした刑事もので、主人公は知事から名を取って「青島」とされた。
このドラマも、本庁と現場との意見の相違が重要な琴線となっている。
私たちの立場も、ドラマとよく似たところがあった。「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」と、私も叫びたいことが何度かあった。

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素人の私にもわかる逸話がある。

会場担当として、私は案内窓口を管理していた。
インフォメーションの女性陣から、「お客さまから、暑いという苦情が来ている」というメッセージが来た。

ビッグサイトのエントランスやアトリウム、東の中央通路などは皆、天井がガラスだ。真夏には、直射日光が下の来場者を著を直撃する。
私は本庁の技術担当に、そのことを申し出た。技術担当は、さっそくその調査にあたった。
結果、温度計は「想定の範囲内」の温度を示した。

「どうしようもない、ということですか」と私は問うた。
これに対し、技術担当は、こう言った。
「直射日光に対する人間の受け止め方について、まだ、学会でも確固たる定説がないのだよ」
(え、・・・学会。今すぐ、エントランスに行ってみなさい。そうすれば、「暑い」って、どういう感覚かわかるはずだから)と、私は思った。
今、ビッグサイトのガラス屋根の下には、直射日光よけの布が下がっている。それが、私たち素人の考え出した解決法だ。

「藤村氏は、こういったことに対して、やるせない気持ちをもっていたのか」、というのが私の実感だった。できることなら、もっと長生きしてもらいたかった。
42歳は、若すぎる。

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東京都は外部から物を購入するとき「入札」を行う。しかし、こういった建物建設やイベント開催の場合は、そうはいかない。
そこで「企画提案方式」(いわゆるコンペ)を取る。

当時ハコモノがずいぶんと建設されたが、運営側からみると、この企画提案方式こそ、様々な問題の根源だと言われる。
どうしても、奇抜な外観やイメージに流された内部設計の建物が採用されやすい。
そういった建物は、メンテナンスに費用がかかる。
来場者の誘導も、難しかったりする。

このころの公共施設にはアトリウムと呼ばれる大きな吹き抜けの空間を擁しているものが多い。
そういった設計の方が、コンペで有利になるのだ。
大空間のための空調経費は、今でも建物管理側にとって悩みの種となっている。

展示場のあり方については、別項「理想の展示場を作ろう」に詳しく書いたので、そちらを見聞したもらいたい。
私の描いた展示場は、あえて大空間部分に空調を使わないように構想した。

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自慢話をさせていただきたい。

ビッグサイト建設後に、東京大学の建築学の教授2名が話を聞きたいと言って、来訪された。
私は会場運営について、お話した。
当時、教授らは代々木のオリンピックセンターの改修について、意見を求められていた。

私は、
(1)会場設備に多額なお金を投下すると、その後の設備運営に専門家が必要となり、人件費が嵩む。豪華な設備はやめた方がいい。
(2)逆に、利用者が自ら操作できるようにするために資金を使うことを推奨する。
(3)キャスター付きの折りたたみテーブルや、スタッキングしやすい軽いイスは、室内の配置換えにとって必須だ。
(4)部屋の形状が四角形でないなら、じゅうたんの模様や、目印となるポイントを設置して、並び替えが容易になるようにすべきである。
(5)複雑な建物ほど、方向を指示するサインは重要である。・・・・などの助言をした。

高卒の私が、大学の専門の教授に意見を言うことなど、こんな仕事をしていなければ考えられない。
後年、海外研修担当となり、オリンピックセンターを利用したが、私の意見が取り入れられていて、うれしかった。

同じ頃、某県では、ある体育施設の建設が計画されていた。
これの運用計画を受けていたコンサルからも相談があった。内容については伏せるが、「その設計には運用上の問題があると思います」と参考意見を述べた。
「私たちもそう思うんです。○○県に行って、担当者にそういってやってくださいよ・・・」と、泣きが入った。

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祭はいつかは終わる。

ビッグサイトでの私の仕事は、開業が半年前倒しされただけに、数か月早く私の仕事はなくなった。
ごたごたの中で、部下が退職した。
雑用が私の分担に積み増されたが、それでも、忙しい頃から比べると、どーってことなかった。

もう、何もかも考えるのが嫌だった。
毎日ふらふらと、展示場の中をさまよって過ごした。
いっしょに開業時の苦楽を共にしてきた派遣社員も、私の元を去っていった。かなりこたえた。

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平成10年、第1回の産業交流展が東京ビッグサイトで開催された。

私はイベントの司会を頼まれた。
自分が開業に携わった展示場を、自分が利用する。感無量だった。
日比谷花壇に頼んで、インフォメーションの席に花束を置いてもらうことにした(もちろん自腹だ。ちょっときつかったが)。
後日、担当がその写真を送ってくれた。それが、本稿の表紙にある花束である。

都庁を退職した後もよくビッグサイトに行く。
お客としてビッグサイトに行くことが、私の最後の夢だったのでね。

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