労働情報システム(平成10年)
名ばかりの“システム”担当

ビッグサイトでの3年間が終了した。白い灰になっていた。
「もう一度、労働で仕事をしてみないか」と、先輩のK主査から連絡が入った。
もう、どこだってよかった。
判断能力を失っていた私は、「どこだって、行けって言われりゃ、行きますよ」と答えた。

************

私を求めていたのは、M課長。
かつて、労働福祉課で席を並べていた主査は、すっかり偉くなっていた。

着任するなり、「仕事は労働情報システム担当となっているが、実は別のことを頼みたい。システムの仕事は、やらなくていい」と、言われた。
ところがだ、パソコンはまさに普及期。OA担当者は絶対必要な時だった。
「うまく動かない」という問い合わせは、頻繁にあった。

「機械の不具合で通信ができないから事務所に来て欲しい」と言われて飛んでいくと、モデムの電源コードが抜けていた、なんてことは、しばしばあった。
「せっかく来たんだから、ちょっと使い方教えてってよぅ」と、引き留められたりもする。
肩書きはシステム担当となっているが、私は、lotus123の初歩的な使い方を、かろうじて知っている程度だ。そんな状態で、SEのような扱いを受けるのは辛い。

昭和60年に研修担当だったときは、オアシスの使い方だけは、部でもトップクラスの知識を持っていた。
その頃の記憶が関係者に残っていたらしく、アイツならシステムも扱えるだろう、ということになったらしい。
ユーザーとSEとは違うのだが、古い人には皆同じに見える。ずっとリストラしていて、新しい人を入れてこなかったので、時間が止まっていた。

とはいえ、研修担当から早10年以上が過ぎていた。今さら無理だ・・・。

************

当時、労政事務所はリストラの対象となっていた。農林水産部のときの悪夢が蘇る。
これに対して、労政部は「労政行政のあり方委員会」というものを立ち上げ、所長さんたちが集まって、今後、どうすべきかを話あっていた。労政はいつも「あり方」を検討しているといって時間稼ぎをし、嵐が行き過ぎるのを待つ。その手ももう限界だった。
課長の言う私の「別の仕事」とは、そのリストラ事務局のことだった(役所では、こういう話を書くとたぶん嫌な顔をされるが、あえて話す)。

削減の対象の一つに上がっていたのは、渋谷労政事務所。
私の最初の職場。9つある労政事務所の中でも、渋谷公園通りという最高のロケーションにある所である。何でここなんだ、と思った。

実はその前年、品川労政事務所(当時、品川区役所の元消防署棟にあった)の移転問題が起こった。品川区役所が手狭なので、譲って欲しいと要望したという話である。
たまたま同時期に、ゲートシティ大崎が建設されていた。
渡りに船とはこのことだ。品川労政は、ゲートシティにすっぽり収まることになっていた。

ここで問題となったのが、新宿・渋谷・大崎の3所の距離の近さだ。挟まれる形で渋谷が窮地に立たされた。
そのうえ、高田の馬場にあった新宿労政事務所の歌舞伎町移転が、突如決まった。万事休すだった。
両者に挟まれる形で、渋谷が削減の第一候補になった。

そこで、渋谷廃止後の管轄区域の変更が、次の課題となった。

このための基礎資料作りが、私の仕事となった。
まず、各区ごとの事業所数、従業員数を表にした。
そこから○区、△区、×区、◇区を管轄にすると、この所の管轄する事業者数は・・・、従業員数は・・・、って具合の資料を作った。
管轄割のシミュレーションが変わる度に作り直しが求められた。
「すぐにできる・・・?」とか聞かれたが、lookup関数を使うと、即座に結果が出た。
パソコンって、ほんとに便利だなと思った。

会議の議事録も会議中にパソコンで作った。会議が終わると、メンバーは庁内31階の食堂で、アフター会議を開いている。そこへ「今日の議事録です」といって、ドキュメントを持ち込んだ。
びっくりされ、感心されたが、実を言うと、その方が楽だったから頑張ったわけである。
何しろ、当時は、電子メールというものが普及していなかったので・・・。

************

かねてより、労政事務所の再編にあたっては、3つの考え方があった。
(1)所の数は減らさない(むしろ増やす)。拠点を何か所か作って、それにサテライトを付ける。
(2)所の規模を若干大きくする。その代わり、所の数は減らし、管轄区域の調整によってバランスをとる。
(3)大きな所を2つくらい設置して、ここに窓口をまとめる。

「あり方委員会」の出した結論は(2)だった。
かくして、渋谷労政事務所の廃止は、確定した。自分の最初の勤務先を、自分が廃止に導くことになった。
お仕事とはいえ、つらい役回りだ。

労政行政の後退をどうするんだという批判が、各方面から寄せられた。「なんで一番いい場所にあるのをなくすんだ」と非難された。やっぱり、そう思うよな。

上司から問われた。「このままじゃ、相談体制の弱体化につながる。どうすれば強化できると思う?」
全職員が一丸となってこれに対処する、という意味合いから「全員相談体制」という方針が打ち出された。
すると今度は、「責任の所在が不明確になる」という非難を浴びた。

実のところ、労政事務所はずっと前から、職員全員が労働相談に当たっていた。
昭和40年代に相談機能の強化のために「労働相談主査」というポストができたのだが、実質は職員の処遇対策という側面が強かった。
だから、専任の相談担当主査がいようがいまいが、労働相談は全員が相談を受けていた。

そう、「全員相談体制」を言い出したのは私。すでにそうなっているのだから、抵抗は少ないと、読んだ。

************

たまたま当時、東京都水道局が、水源情報のホームページを立ち上げた。
雨の少ない年で、水源地は悲鳴を上げていた。
「水源地の渇水状況を日々都民に伝えたい。しかし、そのための予算はほとんどない。テレビやラジオで流すことも、チラシを作って配ることも難しい。お金を使わないで、都民に伝える手段はないのか・・・」という議論が 、水道局内であった。
「インターネットという方法がありますよ」と、ITに詳しい職員が言った。
こういう場合、たいがいは言い出しっぺが担当にされる。
そして間もなく、毎日、貯水量の表とグラフがインターネットで発信/更新されるようになった。
担当者本人から聞いた話だ。

************

私も、ビッグサイトで展示ホールを回っていた頃、どのブースでも「インターネット」なるものが連呼されていたことを覚えていた。
インターネットって、ホームページって、何者・・・?

「1週間でホームページの作り方がわかる」という本を買い込んで、勉強した。
本当に作り方が分かった。ホームページ作りなんて、大した技術ではない、と知った。
それまで、コンピュータ関係の本で「3か月でわかる」「1か月でマスターする」「○週間でみるみる・・・」といった本は、何冊か読んだが、その期間で理解できるものは、全然なかった。
しかし、このホームページの原理だけは、わかった。

当時、計画係長だったK課長補佐に、進言した。
「インターネットというものがある。これからの情報化にとって、大きな柱になる。ホームページの作り方は、基本はわかった。労政のホームページ立ち上げについて、予算要求がしたいが、どうだろうか・・・」
「面白そうじゃない、やってみたら」と、いうことで、予算要求した。

金のない頃だったので、大予算はつかない。
自分が手弁当でコンテンツを作る覚悟だったので、200万円程度の要求だった(当時、ホームページを作るには700万円くらいかかる、と言われていた。一般のホームページにバナー広告を載せるだけでも、数十万と言われていた時代だ)。
実のところ私は、渋谷労政事務所を廃止する身代わりとして、ネット上に「バーチャル労政事務所」なるものを、作りたかったのだ。

************

この予算要求は、あっさり否定された。
しかし、予算要求資料は紙くずにならず、そのまま、東京都労働経済局のホームページ立ち上げの基礎資料となった。

このとき出来たホームページは、その後何回かのリニューアルを経て、現在「東京都産業労働局」のホームページとして、受け継がれている。

「このままでは労政部に先を越される。局のホームページが先でないとメンツにかかわる」と、局の予算担当が総務部に迫ったようだ。
しかし、総務部は乗り気でない。しかも、よくわかる者がいないので、私の予算要求資料を丸ごとパクった。役所ではこういうことが、たびたび起こる。
ところが予算額が不足していた。そりゃそうだ、私が手弁当で作ろうとしていた予算資料をそのままパクッたのだから。
しかたなしに、自分でホームページを立ち上げている若手職員数名が各部から 駆り出され、担当分野のコンテンツを作った。
まさしく、手作りのホームページだった。

都庁の各局ホームページとして一番乗りを目指したが、残念ながら建設局に一歩及ばなかった。建設局は動物園を持っているので、もとよりコンテンツはたくさんあったのだ。
でも、銀メダル。結構、うれしかった。

************

パソコンが世間でどんどん普及してきて、システム担当への問い合わせも、増加が見込まれた。
実際のところパソコンの使い方を知らない私は、策を練った。
そして自作の小冊子「労政部システム通信」を作って、毎週、職場に配った。
「パソコンを使えば、こんなことが出来ますよ」という、初心者本だ。

事務所は、パソコンについての知識に飢えていた。
ほんとうはあれこれ知りたい。しかし、建前ではOA化反対。積極的に手を出すことには躊躇する。
自分がそういうことに詳しいと表明するとOA担当に任命され、一切合切、押しつけられる。だから、知識豊富な人も、黙ってじっとしている。

結果、普及しないまま、時間が過ぎる。
「こうなったのは、本庁が不親切であるため。」と、責任者である私のところに苦情がくる。わからないことがあると、なんだかんだと聞いてくる。

そこで、あらかじめ質問されそうなことを、小冊子に書いて事務所に蒔く。取りあえず満腹になるので、質問も減る。それが目論見だった。
そのうち、自分でも趣味に走るようになって、毎週出すはめになった。

おかげで、毎週土日には自宅で「システム通信」を作っては自宅のプリンターで印刷し、平日は労政事務所の再編成を検討する、という生活が続いた。
実は、当時のシステム通信の生まれ変わりこそ、このホームページ「tsudax99」なのである。

また、バーチャル労政事務所として企画していたものは、後日、このサイトの主力コンテンツとなる「労働相談個人マニュアル」として結実する。
この労働相談サイトのアクセス件数はものすごい数になった。とんでもない代物だった。
しかし、今は、ない。理由は、後で説明する。

次のページへ→

自分年代史に戻る→

トップページに戻る→