都庁のIT化(昔はOA化)は、急に進んだかと思うと、急に止まって動かなくなる。そういう歴史の繰り返しだ。「イケイケ期」と「ダメダメ期」が交互にやってくる。
かつて昭和60年前後、急にIT化が進んだ時期がある。イケイケ期だった。
当時は、Captainシステムというのが流行だった。
Captainは、「文字と画像を電話回線を通じて提供する情報通信網」の英語表記を短くした言葉。何のことはない、インターネットと同じだ。
これを用いた都政情報システムが作られた。「とみんず」という名前だった。
しかし、生まれたかと思ったら、なくなっていた。急ブレーキがかかった。
あっという間に、wwwが世界中を席巻した。そっちの乗り換えた方が正解だった。
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レーザーディスクというものがあった。
今で言うとDVDだ。だけど、大きかった。年配のカラオケ好きなら、現物をよく知っている。
このディスクに、古い文書を保存するという計画が立てられた。
大きなコピー機のような読取機で、文書を1ページずつ画像化する。その画像情報を、隣りのコンピュータに転送して、レーザーディスク上に保存する。
コピーを取るという部分は、完全に手作業であり、処理はなかなか進まなかった。
アルバイトを雇った。
開発業者の人に私は質問した。「このディスクは何年くらい保ちますかね」
「10年は保ちますよ」という返事だった。
保存のため読み取らせている書類は30年前のものだ。
要するに、紙の方が長持ちするってこと・・・えっ?
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都庁が西新宿の新庁舎に移転すると、毎日、すがすがしい朝のニュースが職場に流れた。
最初はモノ珍しさで注目したが、そのうち、誰も関心を持たなくなった。
職員の実感からすると、かなり浮いていた。やり過ぎだな、と思った。
最後に、「今日で終わります」という放送を聞いた。ちょっとかわいそうだなと思った。
関係者の苦労を知っていたからだ。
税収が伸び悩み、財政再建が目の前に迫っていた。どうやって予算を削るかが、職場で議論され始めた。
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労働関係では、イケイケ期に労働情報システムが構想された。
労働関係のありとあらゆる情報を、ネットで提供しようというものだった。
予定経費は数億。無謀以外の何ものでもない。
計画はどんどん縮小されていった。
大情報提供網構想が、ただの集計システムになった。
経済関係では、一足早く、請負業務の受発注情報マッチングのためのシステムが立ち上がっていた。
これを「マイネット・トーキョー」と呼んだ。
不幸にもマイネットは労働情報より早く立ち上がったため、その後のスケールダウンに難儀した。
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このときの反省から、総務局システム「推進室」は、システム「管理室」に改組され、各局のシステムに「ダメ出し」をする組織となった。魔女狩りのような役目だった。
各局に存在する全「システム」が、システム管理室に登録された。
私の受持ちは、労働相談件数を集計する労働相談システムと、労働資料センターの蔵書を管理する図書検索システム。どっちも、大したシステムではなかった。だが、登録対象となった。
そのシステムの予算要求に関して、私は、途方もなく残業させられた。厳しい管理の下では、そうしないと、予算が付かなかった。おかげで残業代はだいぶ稼げたが。
お金に余裕があるとき、役所は何か目新しいものをやりたくなって、ITに予算を付ける。
しかし、財政が厳しくなると、こういったものの予算がいの一番に削られる。そういうサーガになっている。
たとえ、付いた予算よりも担当者の残業代の方が多かったにしても、だ。
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私が担当したとき、労働情報システムは、もうすっかり老朽化していた。
ホストはソニーのNewsというマシン。「新式」という名前とは裏腹に、ノートパソコン並のスピードも出なかった。
その頃、ソニーはパソコンからは撤退していた。News
は撤退前の最後の機種だった。そういう意味で、結構、値打ちものだったかもしれない(その後、ソニーはVAIOで大復活する)。
これに対する端末は、NECの98。黒い画面のCRT。
ここからデータ集計の依頼を送信する。ホスト側が集計表にまとめて出力させる。それに何と20分かかった。
今の人なら、きっと信じられないだろう。パソコンに印刷させるボタンを押して、ずっと20分間待つのだ。
出てきた出力表が不充分だと、また、送信、そして、お茶など飲みながら20分待つ。たかだた5万件のデータ処理で、この有様だった。
それでも、人間業ではとてもできないことをやっていた。偉い機械だと、感心していた。
Newsのマシンは、しばしば、動かなくなった。何かのはずみで、排気口がふさがれたりすると、ボード自体がいかれた。
「これ以上のメンテは無理です。新しいシステムに変える時期はもうとっくに来ています」と、業者も懇願した。
そこで、入れ替えのための、予算要求となった。
たいした予算ではなかったのだが・・・。それからがひどかった。
総務局は、難色を示した。くだんのシステム管理室から山のような資料要求が来た。「自分たちが納得できなければ、予算をつけない」という姿勢だった。
こっちは素人。立場上、予算要求している。とっとと切れ。その代わり、事業の実績集計ができなくなったら、そっちが責任を取れ。それが私の心中だ。
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そんなときに、2000年問題。
世界の大都市の中で、一番東にあるのが日本。日出る国日本の首都東京が、真っ先に2000年の洗礼を受ける。
都庁にあるあらゆるシステムが2000年問題をクリアするように・・・との激が、総務局に飛んだ。
昨日までにダメダメが、いきなりイケイケになった。
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ウチのマシンは、2000年をクリアできるかどうかわからない。
業者に聞いたら、今、立て込んでいるので調査するにしても500万円くらい必要だ、という。
だったら、全て新しいものに入れ替えた方がいい。
私は、総務局に対して「このマシンは2000年に対応していない。入れ替えが必要だ」と、申し立てた。ハッタリだった。調べてもいないのに、わかるわけない。予算を付けてもらうためには、一か八かで、そう言うしかなかった。
しかし、私のその言葉で、予算がついた。2000年問題で停止するシステムが出たら、その責任はシステム管理室が負うからだ。
しかし、そのあとが大変だった。
後述するように、一番大切な時期に、私は洋上セミナーの旅にかり出された。それで事務が遅れた。
そのうえ、システム管理室から「入札」にしろと命じられた。
IT素人の私では、仕様書が書けない。
このシステムの最初の構想は数億円。しかし、今じゃ、数百万円の集計システム。
契約担当から、「その金額じゃ、大手企業は呼べない」と言われた。
名前も聞いたことのないような会社に落とされたら、ひどい結果になる。
でも、しょうがないので入札を行った。信じられないくらい安い金額で落札した。いやな予感がした。
もう、すったもんだだった。
システムは、契約担当の係長が知己だったので、ちょっとした中堅企業に落ちた。しかし、それは保険代のようなもの。実際は、個人で開業している大手メーカー出身のSEに仕事が回された。
出力帳票の様式ばかり気にしている。あれこれ言っている話を聞いたが、この人では無理だと思った。
会社にしてみれば、当時は2000年問題が目の前にあって、こんなちっぽけな仕事は、取りたくないというのが本音だと思う。
しかも、当時は大手メーカーが「独立開業」という形で、従業員のリストラをさかんにやっていた。その一つではないかと推測した。
思ったとおり、なんだかんだで、システム立ち上げがずるずる日延べしている間に、担当SEは行方不明になった。
結局、私は仕事を完遂できないまま、異動となった。
契約を落とした企業が、責任をとって、名目だけでなく実質的にシステム立ち上げを担当させられたそうだ。現実には、入札価格の数倍の費用がかかったという(後任者談)。
私は強く思っている。入札には「金額」だけではなく、「信頼」という要素も入れてほしいと。
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私が担当を離れた後、新システムは立ち上がった。
その頃でも、まだNewsのマシンは、部の片隅に鎮座していた。
2000年(平成11年)1月4日、早朝、私はこのマシンの電源ボタンを押してみた。
そしたら、「パスワードを入力しろ」という画面が表示されたまま、固まった。
どうやら、パスワードと西暦二桁が、機動のための組合せ暗号となっていたようだ。
最初に入力したパスワードなど、今では、誰も知らない。
私のハッタリは、<ウソから出たマコト>だった。
後にも先にも、私の知る限り2000年問題で止まったコンピュータは、これ1台だけだった。
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その後、都庁にはTAIMSというシステム(ベースはLotus
Notes)が入り、あっという間に、職員1人ごとにパソコン1台が配置される体制となった。
イケイケ期に入ったのだ。
その後、Winnyの事件で情報流出が問題にされるようになった。
今度は、規制規制のラッシュだ。個人のパソコンも持ち込めなくなったし、USBメモリーも使えなくなった。
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次は2038年だ。多分、そのころ私は生存していない。
こいつを乗り切るのは、大変だぞ。
※2038年問題:2038年1月19日3時14分07秒(UTC)を過ぎると、コンピュータが誤動作する可能性があるとされる問題(Wikipediaより)。
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