40代も後半に入った。
「自分の人生にやり残したことはないか」と、思い返してみた。
まず最初に思ったのは、「このまま他人の家で死ぬわけにはいかない」ということである。
大崎労政時代、依然として住まいは阿佐ヶ谷の賃貸だった。
同時に、高校の同級生との20年前の約束を思い出した。
友人Tは、大学を卒業後、東急リバブルに入社し、もうかなりの地位に就いていた。そのときは、系列の東急不動産ローン保証という会社の社長になっていた。
20年前、Tに就職祝いを出せなかった私は、「自分がマンションを買うときは、オマエから買うから、よろしくな」と、言った。その約束が未だに果たせていない。
そこで、久しぶりにTに連絡を入れた。
「土地の値段も、そろそろ下げ止まりだし、買うにはいい頃合いではないか」と、Tは言った。
「新宿にアクセスしやすいところで、いい物件があれば、紹介してほしい」と、頼んだ。
後日、Tは数件の売買物件の資料を持ってきたのだが、「完成はすこし先になるが、練馬にいい物件がある」と、教えてくれた。
それが、今の住まいである。
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大崎の事務所を起点とするならば、古巣の品川に住みたいところだ。
しかし、私の生まれ故郷は、すっかりもう往事の姿を失っていた。
Tが紹介した練馬の地は、どことなく、生まれ故郷の品川の風情を残していた。
銭湯があった(※その後、閉店)。床屋の看板がくるくる回っていた。
横丁があった。雑貨屋は100円ショップではなかった(※ここもその後閉店)。魚屋や八百屋が店を並べていた。この八百屋にはNHKの朝ドラ「あまちゃん」のロケが入ったそうだ。東京っぽくなかったからだろう。
駅から近い(しかも、地下鉄の駅は深くない・・・ここがポイント)。
それだけで、最高だ。ここに決めた。
その後、私は、西新宿勤務に戻ったが、練馬からは乗り換えなし。
自分で言うのも何だが、いい勘をしていた。
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阿佐ヶ谷の自宅には11年余り住んだが、しょせん独身所帯なので、たいした家財道具はない(品川の頃よりも小ぶりだった)。大きな電化製品などは、すべて廃品回収に回した。廃棄のために、すご~く費用がかかった。
引越業者に費用を見積もってもらったが、あまりに家財道具が少ないので、「お友だちにでも頼んだ方がいいですよ」と、言われてしまった。
手荷物で運べるものだけ、運ぶことにした。またしても私は、数ヶ月をかけて、電車で引越をする。家財道具をキャリアーに積んで、ごろごろ転がしながら運んだ。
生涯ただ2回の引越を「電車」で行った人は、たぶんいないだろう。
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すっかり荷物を出し終わり、ガランとした阿佐ヶ谷の住み家のフローリングに寝ころんで、私は天井を見上げた。
「やれやれ」とため息をつくと、音が部屋に反響した。
私は急に、何か歌が歌いたくなった。
自然と、口が動いた。
「上を向ふひて、歩~るこほおよ。涙が、こぼれぇ、ないよほぉに・・・」
そうか、この「上を向いて歩こう」が、昭和30年代に生まれ、昭和30年代を生きてきた日本人の歌なんだと、なぜか確信した。
自分の人生は、もうだいぶ残り少なくなってしまった。
思うようにならなかったことも多い。と言うより、自分の思いどおりに行ったことは、ほとんどない。
常に前へ前へと背中を押され、しぶしぶ進まされてきた。
手に入れられない何かを、見上げながら歩いてきた。
たぶんそうして生きてきたのは自分ばかりではない。
これまでこの国で生き、この国を支えてきた日本人の大部分も、同じではなかったのか。
だから、「上を向いて歩こう」が日本人のセンチメントにぴったりくるのだ。
アメリカ人ならきっと「上を向いて行こう」という歌を作っただろう。
上を向いて「歩いて」いるだけでは、いつまで経っても、上には行けない。
「上を向いて歩こう」が日本人の心情に訴えるのは、「上を見たってどうにもならない。だから今、自分は自分ができることをやる。でも、上を見上げることは忘れちゃいないさ」という、どうにもならない現実を肯定しつつも、それでも希望は失わないというメッセージ性を持っているから
だと、私は思う。
それに支えられて、日本人は、戦後を、そして高度成長期を乗り切ってきた。
今の若者には、理解できないかもしれない。
何らかの挫折(例えば敗戦・失恋・貧困など)を味わったことのない者には、実感できない気持ちだと思う。
「涙が、こぼれぇ、ないよほぉに・・・」と歌いながらも、私は、涙がこぼれた。
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思いもかけず、練馬には「温泉」があった。豊島園の庭の湯である。茶色で塩っぱい温泉だ。
「お子様はご遠慮下さい」という、オトナの極楽となっていて、繁盛している。
日の出やあきる野の温泉と比べると、いまいちだが、何せ、歩いて行けるところにあるのが魅力だ。
しばらくの間、庭の湯はマイブームになっていた。
シネコンもできた。歩いていけるところに映画館があるというのは、便利だ。
以来、年間に20本以上のロードショーを観る。
帰り道の途中に、焼鳥屋「富屋」があった。
一度、庭の湯で汗を流して、喉が渇いて耐えきれず、ここに寄った。以来、毎週のように通った。
料理の品目は多くはないが、この店の焼き鳥は、それなりに手が込んでいる。それに、卵焼きは極上。
「まずは、シークワーサワー・・・」と私が注文するので、一年中、それを置いておいてくれていた。
関西出の主人は、バスケットの選手だったという長身。昔はそれを活かして撮影関係のスタッフをやっていたらしい。東京オリンピックのときは、撮影機材をもって走り回っていたという。
見かけによらず、無類の映画好きだ。客の入りが見込めない日は、豊島園のシネコンに、深夜、映画を見に行く。映画を見た日は、帰れなくなるので、店で一夜を明かす。
この主の人柄にひかれて、常連の客がくる。
店主は、以前、西新宿の十二社のあたりで店を開いていたとのことだ。
「都庁が移転して来るから、今までよりもずっと上がりがあるよ。だから、賃料を上げさせてほしい・・・」といわれ、高い賃料で営業していたのだが、思いの外、収益が上がらず、練馬に引っ越してきた。
「いやぁ、都庁の人って、ホントに金を落とさないんですよねぇ~」と、店主は話した。
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「いやぁ、ね。忙しいときにインターネットの販売促進の仕事をしている人が来てね。この店も登録しないかって、言うんですよね。『ドット混むですよ』って。でもね、こんな小さな店、そんなにどっとお客さんが来たら、さばききれないじゃないですかぁ。だから、断ったんです。そしたらね、ひどいもんですよ。店の悪口をネットに書き込むんですから・・・」とマスターはこぼしていた。
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通い詰めていたが、マスターもだいぶ歳をとった。心臓に不整脈があって、血管を広げる手術をした。
やがて店をたたむことになる。
最近、 道ばたでマスターとバッタリ会った。病院で給食調理のバイトをしている。元気だったが、自転車で事故を起こしケガをしたそうだ。いつまでも元気でいてほしい。
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